'12-3 鷽替えの神事(その1)

'12/1/25 (水) は天神社で「鷽替えの神事」があることが判ったので早速出掛けてきました。
それも亀戸天神と湯島天神へのハシゴ参拝ですから御利益は2倍どころか半減してしまうかも・・・

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スタートは1時方向の「京成曳舟(ヒキフネ)駅」。
そこから亀戸方向に向かって歩き始めたのですが、道を間違えたようで少しスカイツリー方向に来てしまいました。
亀戸に着き天神様にお参りし、9時方向に歩き蔵前橋を渡り更に西方向にある「湯島天神」でお参りし、不忍池を通ってごーるの「京成上野駅」までが今回のルートです。

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けれども道を間違えたことが良かったのか、いかにも下町らしい雰囲気の井戸と家々に出会うことが出来ました。

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左にある軒を連ねた家々もいかにも下町という雰囲気が漂います。
この辺りはだいぶ雪が降ったようで、こんな雪の山が出来ていました(右)。

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これは、ルート図で「スカイツリー・ビューポイント」と書いた北十間川に架かる歩道橋からの眺めで、川に映る影も写せる場所なのですが、こんなに成長すると私のカメラでは余裕がありません。

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これは横十間川の境橋袂に建っている「道標」ですが、案内板には
『この橋から木下川薬師堂へ至る薬師道を示すもの
 正面には『木下川やくしみち』 (木下川の文字は見当たりません)
 右側面には『宝暦11年』(1761年) と彫られているそうです。

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亀戸に着きました。
(左)の炒り豆屋は古くからある店で有名のようですが、店構えはどう見ても昔風で周囲の店と比べると一段と風情を感じます。
検索したら・・・大正5年(1916年)創業。
”いり豆”を売り続け93年で、常時、25種類から30種類の豆を揃え、今でも升(ます)による量り売りだそうです。(私は「花咲豆?」の袋入りを買いました)

この界隈は '45の東京大空襲で被害にあった地区だと思いますが、今ではその傷跡は何処にも見当たりません。

かと思うと、パン屋の店先(右)には 「親亀の上の子亀・そのまた上に孫亀パン」という いかにも「亀戸」を思わせるようなものもありました。

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ここで「鷽替えの神事」についてのコピペを・・・
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『“うそ”は幸運を招く鳥とされ、毎年新しいうそ鳥に替えるとこれまでの悪い事が“うそ”になり、一年の吉兆を招き開運・出世・幸運を得ることができると信仰されてきました。

江戸時代には、多くの人が集まりうそ鳥を交換する習わしがありましたが、現在は神社にお納めし新しいうそ鳥と取替えるようになり、1月24・25日両日は多くのうそ替えの参拝者で賑わいます。

うそ鳥は、日本海沿岸に生息するスズメ科の鳥で、太宰府天満宮のお祭りの時、害虫を駆除したことで天神様とご縁があります。又、鷽(うそ)の字が學(がく)の字に似てることから、学問の神様である天神様とのつながりが深いと考えられています。

亀戸天神社の“うそ鳥”は、檜で神職の手で一体一体心を込めて作られ、この日にしか手に入らない貴重な開運のお守りとしてとても人気があります。

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天神さんへの途中にもこの様な鷽が・・・
左は、車道と歩道のガードレール柱にも
右は 貯金箱に変身したり

町の中を探せばこの他にもあると思いますが、目に付いたものを撮ってみました。

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亀戸天神の説明によると・・・
『徳川幕府は、本所の町を江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。

そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを設け、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてまいりました。』

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左 社殿に祈る多くの参拝者
両側には大きな鷽が置かれています。

右 古い鷽をここへお返しし、新しい鷽と替えます。(後ろの石柱も鷽をかたどったものです)

ここももう暫くすると梅が咲き始め、5月頃になると藤の花が甘い香りを境内に溢れ漂います。(男の私が言うのも可笑しいのですが、本当に良い香りがします)

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亀戸天神に隣接している「船橋屋」で、特に「くず餅」が有名です。
特にこの日は混雑しているようで、土産に持ち帰る人と、店内で食べる人が2列になって並んでいました。

説明によると・・・江戸は文化二年(1805年)、十一代将軍徳川家斉の頃、創業。
船橋屋初代の勘助の出身地は下総国(千葉県北部)の船橋で、当時、下総国は良質な小麦の産地でした。
勘助は、亀戸天神が梅や藤の季節に、参拝客でにぎわうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろで蒸し、黒蜜きな粉をかけて餅を作り上げた。
それがまたたく間に参拝客の垂涎の的となり、いつしか「くず餅」と名づけられ・・・
江戸の名物の一つに数えられる程の評判を取ったと言います。

  【その2 に続きます】

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'12-3 鷽替えの神事(その2)

(その1)の続きです。

Photo亀戸天神のお参りを済ませ、これから西方向に歩きながら「湯島天神」を目指します。

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「妙見山別院」
親子鷹でお馴染みの勝小吉と勝海舟親子の熱烈な信仰を得ていたことで有名。
そのため、山内には勝ゆかりの品が多く所蔵されていましたが、その多くは関東大震災と東京大空襲の二度の災禍で焼失してしまった。
なお、勝海舟の筆による掛け軸や写真などは今も現存しているそうです。

右 境内には勝海舟翁を偲んで地元有志の建てた胸像。

子母沢 寛著「勝海舟」によると、海舟が子供の頃 犬に急所を噛まれ、父親の小吉がその治癒のためにこの妙見山に日参し、水ごりをした となっていて、今でも2月にこの境内で水ごりが行われるそうです。

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蔵前橋から駒形橋を見ていると、ちょうど水上バスが通るのでパチリ
余談ですが、暖かくなったら「隅田川橋巡り散策」をしようと考えています。

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蔵前橋を渡ると右側にあるのが「浅草御蔵跡 の碑」(左)、左側(この真向かい)にあるのが「首尾の松 碑」(右)
「御蔵跡」・・・浅草御蔵は、また浅草御蔵米といい、ここの米は主として旗本、御家人に供され、勘定奉行の支配下に置かれた。
元和六年(1620)に浅草鳥越神社の丘を切り崩し、隅田川西岸の奥州街道沿い、現在の柳橋二丁目、蔵前一.二丁目にかけての地域を埋め立てて造成した。
江戸中期から幕末までの前側を「御蔵前」といい、蔵米を扱う米問屋や札差の店が立ち並んでいた。
現在も使われている「蔵前」という町名が生まれたのは昭和9年のことである とのこと。

「首尾の松」・・・浅草御蔵の四番堀と五番堀のあいだの隅田川岸に、枝が川面にさしかかるように枝垂れていた「首尾の松」があった。(実際の松はこの碑から少し下流方向にあったようです)
その由来については次のような諸説がある。
1,寛永年間(1624~42)に隅田川が氾濫したとき、三代将軍家光の面前で謹慎中の阿倍豊後守忠秋が、列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川中に飛び入り見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわらにあった松を「首尾の松」と称したという。

2,吉原に遊びに行く通人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀から入り込んだものだが、上り下りの舟が、途中この松陰によって「首尾」を求め語ったところからの説。

3,首尾は「ひび」の訛りから転じたとする説。江戸時代、このあたりで海苔をとるために「ひび」を水中に立てたが訛って首尾となり、近くにあった松を「首尾の松」と称したという。

私個人としては、2,を支持します(笑)

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しょうのう舟の店(左)と そのしょうのう(樟脳)舟(右)です。(右に輪が見えますが大きさを比べるために置きました)
最近では殆ど見たことがありませんが、子供の頃には祭りの縁日などで売られていたもので、舟の後ろに樟脳の欠片をつけると水上を走り回るものです。

この店はブリキのオモチャなどを扱っていて、ヤハリ懐かしいもので「ポンポン船」がありました。子供の頃はこれが欲しかったのですが高価のため買って貰った覚えはありません。
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これがその「ポンポン船」で、あまり記憶にないのですが船のタンク?に水を入れ、これをロウソク(船の左)の火熱で熱すると、水が蒸気となってポンポンと音を出しながら水上を走ります。

この店は「山縣商店」といい、ブリキのオモチャなどを扱っていて小売りもしてくれます。

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「鳥越神社」・・・説明によると 
『白雉2年(651年)、日本武尊を祀って白鳥神社と称したのに始まるとされ、前九年の役のおり源義家がこの地を訪れ鳥越大明神と改めたと伝えられている。
例大祭に出る千貫神輿は都内最大級を誇る。
鳥越神社は「とんど焼」などで有名な神社でとんど焼は正月に迎えた神様(歳神様)をお送りする日本の伝統的な行事。
源義家が奥州へ行くとき入り江のために兵を進められなかった。そのときに鳥が飛び立ち浅瀬を教えてくれたため鳥越の名をつけられた』 そうです。

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「湯島天神」・・・由来によると
『雄略天皇二年(458)一月 勅命により創建と伝えられ、天之手力雄命を奉斎したのがはじまりで、降って正平十年(1355)郷民が菅公の御偉徳を慕い、文道の大祖と崇め本社に勧請しあわせて奉祀し、文明10年(1478)に太田道灌がこれを再建し、天正十八年(1590)徳川家康公が江戸城に入るに及び、特に当社を崇敬すること篤く、翌十九年十一月豊島郡湯島郷に朱印地を寄進し、もって祭祀の料にあて、泰平永き世が続き、文教大いに賑わうようにと菅公の遺風を仰ぎ奉ったのである。』 となっています。

湯島天神に着いたのが4時半頃だったので、参拝の人も少なくなっていました。
ただ「鷽替え神事」だけを見ただけでは、亀戸天神のほうに軍配が上がりそうです。

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夕景の「不忍池」です。
ここからはゴールの「京成上野駅」は目の前、ここから我が家に帰ります。

 【今回もお付き合い下さいまして有り難うございました】

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'12-2 「亡者送り」

新しい年になると「初」という文字を付けた行事が行われるようで、1/18 は「初観音」なので検索してみたら、浅草の観音様で「亡者送り」という行事があることが判りました。
そこで早速 浅草寺(東京)へその行事を見にゆくことにしました。

行事説明によると・・・江戸時代中期から始められた「温座秘法陀羅尼会」で、1月12日午前6時から始まり、、一山住職全員が出仕する中、浅草寺住職(貫首)が第一座に登壇して開白(かいびゃく:始まり)となり、18日午後5時頃からの結願(けちがん:最後の一座)に至るまでの7日間に「観音秘密供養法(観音密供)」を行う。

18日夕刻、いろいろな法要が終わると突如本堂内の明かりがすべて消されます。
これと同時に本堂裏手からは松明を持った鬼が二人出て、本堂正面の階段を駆け降り、境内を巡ったのち、「神供」を投入した銭塚地蔵堂脇の穴に松明を投入して行事は満了を迎えます。
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その鬼の姿から俗に「亡者送り」とも呼ばれています。
こうして諸尊への祈願とともに施餓鬼(せがき)作法により悪霊も鎮められ、年頭の除災招福の祈願が達成されるのです。(私のような信仰心のない亡者には、それこそ馬の耳に念仏の世界です)

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'12/1/18 (水)に歩いたルートで、10時方向にスタートの日暮里駅があり、5時方向がゴールの浅草寺ですが、両方ともこのルート図に入らないので「至る」としました。
途中立ち寄ったのが 御行の松・背面地蔵・浄閑寺 南下しながら一葉記念館・一葉旧居跡碑・飛不動・鷲(オオトリ)神社・旧吉原を抜け 山谷堀遊歩道を下り、行事が行われる浅草寺(浅草観音)まで。

11時方向に「蛇行している道路」とありますが、ここは「音無川(石神井川)」が流れていたので蛇行した道路になっています。
蛇足ですが、この音無川は三ノ輪を通って山谷堀になり、隅田川に注いでいました。

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御行の松(左)と不動堂(右)
江戸時代に寛永寺の住職であった輪王寺宮(皇族出身)が、この松の木の下で行法を行ったことに由来するとも言われているが、定説はないようです。

説明によると・・・初代の御行の松は、「江戸名所図会」や「広重の錦絵」にも描かれた有名な松であったが、昭和3年に枯れてしまい昭和5年に伐採されたそうで、現在の松の木は3代目。
枯れた初代の木の一部は境内に展示されている。(左写真の屋根の中)
また、終戦後、枯れた初代の木の根を掘り起こして彫った「不動明王像」が不動堂(右写真)の中に祀られているそうです。

ちなみに、初代の「御行の松」は、大正15年(昭和元年)に天然記念物の指定を受け、当時の測定によると、木の高さ13.6m、幹周囲4.1mあったそうです。
また、枯れて伐採した時に年輪から樹齢を調べたところ、約350年と判定された。

この「御行の松」の所在地は今でも根岸(6丁目)ですが、説明によると「根岸の里の侘び住まい」という言葉を聞きますが、根岸の里ってこの御行の松のあたり一帯のことだろう、と言われているようです。
根岸の名前の由来は、上野の山の「根もと」にあり、沼地・田圃の水際だった、ということ。江戸名所図会によれば、根岸は上野の高台を控え、音無川の豊かな流水に恵まれた閑静な地で、だから鶯や蛙の声もよそとは違うと、いった意味とのこと。

この風光明媚な地をめでて文人墨客が根岸の里に「別荘」を持ち、文人墨客だけでなく大店の寮(別荘)も浅草の橋場とともに江戸の二大別荘リゾートであった。
とはいうものの、文化文政の頃(1820年頃)の戸数はわずか230戸で、確かに「侘び住まい」の雰囲気かも知れません。

余談:私はこの根岸と聞くと思い出すのが、TVドラマ「慶次郎縁側日記(北原亜以子原案)」の舞台のような気がしてならないことです。

Dscn0024_5道路はこのような蛇行を繰り返しながら三ノ輪に向かいますが、ここには「音無川」が流れていたところで、1934年に暗渠化されて現在は下水道となっているそうです。
Dscn0027背面(ウシロムキ)地蔵は正保4年(1647年)の建立で、背丈は2メートルほどでしょうか。
その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられておたが、 後に明和元年 (1764 年) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられてこの名前が起こったと言われている。
現在でも、 めずらしい縁起のお地蔵様として多くの参拝者が訪れているそうです。

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浄閑寺本堂(左)と新吉原総霊塔(右)
吉原の遊女がここに投げこまれるように葬られたので俗に投込寺と呼ばれた。
本堂の裏にはそうした遊女の供養のために 「生れては苦界 死しては浄閑寺」 という言葉が填め込まれた(石垣の右側)新吉原総霊塔が建てられている。
この供養塔は1793年に建立され、現在の塔は1929年に改修されたもの。
浄閑寺に埋葬された遊女は2万人を超え、その平均年齢は22歳弱だったといわれ、どの女性も粗末な格好でムシロに巻かれていた とのことです。

浄閑寺境内には他に、しばしばこの寺を訪れた永井荷風が遊女たちの死をあわれんで書いた詩を刻んだ石碑と、荷風の歯2本、小筆1本を納めている筆塚が、この総霊塔の前にあります。

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一葉記念館(左)と記念館前に建つ石碑(右)
記念館・・・昭和36年に台東区が開設した樋口ー葉の文学資料館。
推敲の跡がにじむ『たけくらベ』の草稿、雑貨店の仕入帳、師・半井桃水に宛てた書簡、身につけていた着物やかんざしなどが陳列されている そうですが、私はまだ見学したことがないのです。

記念館前は児童公園になっていますが、その片隅に建つ石碑
碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。
  紫の古りし光にたくへつべし
   君ここに住みてそめし 筆のあや
一葉女史たけくらべ記念碑
 『 そのかみの 美登利信如らも この園に
    来あそぶらむか 月しろき夜を 』
                   佐佐木信綱

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明治26年7月20日、荒物屋を営むため本郷菊坂町から下谷竜泉寺町に引越してきた一葉の荒物屋  は家賃が1円50銭、二軒長屋、間口二間、5坪という粗末なものでした。

最初は荒物屋のつもりでしたが、その後子供向けの菓子や玩具が多くなりましたが、全然もうからなかったとのこと。
僅か、10ケ月で三人(母親・一葉・妹の邦)の商人生活は終わりましたが、この界隈を背景にして不朽の名作「たけくらべ」「わかれ道」「大つごもり」などの題材を得ました。

この石碑はその旧居を偲んで地元の人々が昭和35年に建てたもの だそうです。

この「邦子(一葉の2歳年下の妹)」のことを調べていたら次のような解説がありましたので、これをお借りしたいと思います。
『姉と違い邦子は大柄の色白でした。ほがらかで人あしらいもうまく、竜泉寺町で荒物屋を始めた時、店番は邦子が担当しました。

一葉の死後 邦子が相続戸主となり姉の残した負債も引き受けましたが、「日記は焼き捨てよ」との遺言にそむき、姉の残した原稿や小説の草稿、反古紙にいたるまで一枚も粗末にせず、姉の業績の保存・整理・浄書に努めました。
近代作家の中でも樋口一葉の研究が量と質で突出しているのは、邦子の存在あってのことです。

明治31年、父の代から親戚付き合いをしていた西村釧之助の世話で吉江政次を入り婿として結婚。翌年には釧之助の文房具店礫川堂を譲り受け、店の経営をしながら六男四女を産み育てましたが、大正15年7月1日、52歳で亡くなりました。』


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飛不動尊の本堂(左)とご本尊(右)
解説によると・・・『創建後まもなくのこと、この寺の住職が修行のため、ご本尊のお不動様を背負い、はるばる大峯山まで運んだ事がありました。江戸の寺ではご本尊が留守の間、お不動様の分身を携えた人々が集まり、お不動様を観想しそれぞれ一心に祈りました。

すると、お不動様は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えて下さいました。以来「空を飛び来て、衆生を守りたもう、お不動様」飛不動尊と呼ばれるようになりました。

古くより病魔や災難を飛ばしてくれる「空飛ぶお不動様」として信仰されていたことがうかがわれます。お不動さまのご縁日は28日です。ご本尊のご開帳は12年ごとの酉歳に行われます。

最近では航空機の発達と空飛ぶお不動さまとが結びつき、航空関係に携わ人々や、旅行される多くの人が航空安全と道中安泰を願い参拝されます。
また航空安全はすなわち”落ちない”と言う事で、受験合格のご祈願でお参りする学生や、珍しいのは遠くへ飛ぶようにという願いからでしょうか ゴルファーのお参りも多いとか』

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鷲(オオトリ)神社となでおかめ
酉の市で有名な浅草鷲神社の正面と、社殿に置かれていた「なでおかめ」
酉の市は「とりのまち」が本義。「まち」とは祭りのことで、「神を掻き込む」「酉は取り込む」という縁起から、熊手を求めて商売繁盛を願う祭りとなった。

なでおかめ・・・顔の各場所により違うご利益を授かると伝えられており、鷲神社は商売繁昌の神様なので金運の鼻が多くの方に撫でられている とのことですが、なでる場所とその効能は・・・
 おでこ をなでれば賢くなり
 目 をなでれば先見の明が効き
 鼻 をなでれば金運がつく
 向かって右の頬 をなでれば恋愛成就
 左の頬 をなでれば健康に
 口 をなでれば災いを防ぎ
 顎から時計回り になでれば物事が丸く収まると云う

【鷲神社「なでおかめ」の由来】
「おかめ」の歴史を古事記、日本書紀に準じて簡略に説明します。
おかめとは天宇津女命(アメノウズメノミコト)のことと言われております。
天の岩戸神話の中で須佐之男命(スサノウノミコト)が高天原に天照大御神(アマテラスオオミカミ)を訪ねるが謀反を疑われ悪行の限りを尽くし、天照大御神の岩戸籠りの原因になってしまい、光を失ってしまった世に光を取り戻すため高御産巣日神(タカミムスヒ)は神々を召集して方策を練り、祭祀と神遊を催しました。
その時に舞を舞い天照大御神を導き出し世に再び光を取り戻した立役者の神と言われているのが 天宇津女命(アメノウズメノミコト)です。
おかめはお多福とも言われ福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされ、酉の市の縁起熊手にも江戸より飾り付けられています。
(以上は鷲神社の資料からお借りしたものです)

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吉原大門跡(左)と見返り柳の碑(右)
吉原遊郭は300メートル×400メートルの広大さで、そこに3000人もの遊女がいたと言われる。
遊女や遊郭を相手にする商売も吉原遊郭周辺に広がっていたようで、吉原遊郭を中心とした巨大な市場ができていた。
1958(昭和33)年に売春防止法が施行されたため、公の売春街である赤線としての吉原遊郭は廃止された。なお、「吉原」の地名も1966年に消え、現在は「千束」となっています。

かつて京都の島原遊郭の門口に柳があったことから、それにならって吉原でも柳を植えていた。
その柳の辺りで、享楽を堪能した客が去りがたい思いを抱いて遊郭を振り返ったのが「見返り柳」の由来とのこと(私にはこの様な経験はありませんが・・・)

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天麩羅で有名 『土手の伊勢屋』
太平洋戦争末期、東京大空襲から奇跡的に焼け残った天麩羅の『伊勢屋』。

手入れされた見事な博物館級の店内で百年を越す伝統の味を堪能することができます
この二軒の建物は、元々は土手の前にあった“山谷堀”の島状の中洲のような場所に建っていたので橋を越えないと玄関へたどり着けなかったという。

創業は明治22年(1889年)と約120年の歴史を誇る老舗。
関東大震災で焼失した店舗は、昭和2年(1927年)に再建、入口の左手には“屋台棚造り”という引き窓があって天麩羅を揚げている姿が見える造りになっている。
天麩羅がかつて江戸庶民の屋台食だった名残が建物の構造に残っていて、東京・下町、山谷の食の文化の歴史を今に伝えている。

伊勢屋の左隣は桜鍋で有名な『中江』

もちろん私はどちらの店にも未だに縁がありません(苦笑)

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「山谷堀遊歩道」・・・山谷堀は江戸を水害ら守るために、元和6(1620)年に築かれた運河ですが、昭和50年代に埋め立てられて暗渠となり、緑道が整備され今は「山谷堀公園」になっています。

左写真は何の変哲もない「紙洗橋」の橋柱ですが、ここにはこんな面白い話が・・・
『買う気もないのに品物を手にとったり、値段を聞いたりするだけで、相手を「からかう」という意味などに使われる「ひやかし」とか、「ひやかす」の言葉は、この「紙洗橋」に関係がある?ようなのです。

この橋の付近で屑紙を漉き返して「浅草紙」を製造していたようで、漉き職人にとっての山谷掘りは用水を供給してくれる貴重な源泉でしたし、樋で漉場へ水を引くのみならず、堀端に水槽を設けて「ひやかし」(紙漉きの工程)にも使われたようです。
紙を漉く準備として、夕刻になると翌日の紙料作りをしました。そのためにまず紙の原料となる屑紙を水の入った水槽の中に入れる作業を行い、充分に水を吸収させて軟らかくしました。この工程を「ひやかし」と呼んでいて屑紙をしばらくの間は水に浸して置きました。

この浸して置く時間は暇なので、職人は時間つぶしのために近くにある遊廓「吉原」に出掛け、店の遊女を見て歩いた ということです。
客待ちをしている遊女をからかうだけでしたので、遊女を買う気も無いのにからかうだけで帰ってしまう彼らは、「紙をひやかしてきた連中、というわけで「ひやかし」と呼ばれたそうです。
これは先日放送されたNHKの「ブラタモリ」でもこの様なことを言っていました。

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「亡者送り」の行事は6時からなので、浅草寺境内を歩き回りましたがヤハリ五重塔が目に付いてしまいます。
右はストロボ無しで撮ったもので色補正なども無しですが、こんな風に撮れているなんて思いもしませんで、カメラの性能が私などが考えているより遙かに優れているのだろうと実感してしまいました。

さて、「亡者送り」ですが、良い場所で待ち構えていましたが、イザ行事が始まると何処ともなく大勢の人が押し掛けてきて、この1枚だけが何とか生き残りました。

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長いブログになってしまいましたが、お付き合い下さいまして有り難うございました。

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'12-1 「歩き初め」(その1)

「正月は 冥土の旅の一里塚 ・・・」
今年も何とか無事にこの一里塚を通り過ぎることが出来ました。

我が家の正月の行事に一つに墓参があり、 1/6(金)に巣鴨(東京)の寺へ墓参に行って来ました。

そして巣鴨へ行けば恒例になっている「東京散策」をしなければ落ち着きません。
と言うわけで今年も歩いてきました。

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ルートの概略は上図の通りで、10時方向にある「巣鴨」が起点で、六義園(駒込)・南下しながら吉祥寺・白山界隈(この周辺は寄り道の宝庫?)・根津神社から谷中・入谷の鬼子母神・かっぱ橋商店街・浅草寺(浅草)を抜け、言問橋を渡り、「東京スカイツリー」の根元まで(押上駅)。

Dscn9901巣鴨駅の近くにあり、旧中山道の分岐点にある「真性寺」、その境内にある「江戸六地蔵の一体」

「江戸六地蔵」とは解説によると・・・江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6ヶ所に地蔵菩薩像を造立した。
これは病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。

鋳造は神田鍋町の鋳物師、太田駿河守藤原正儀により、像高はいずれも270cm前後である。
造立時には鍍金が施されていた(東禅寺の第二番は弁柄色の漆)が、現在では金箔の痕跡をわずかに残すだけとなっている。

現存する第一番から第五番までは、すべて東京都指定有形文化財に指定されている。

江戸六地蔵一覧
第1番・・・旧東海道 品川寺 宝永5年(1708年)造立 2.75m 現存
第2番・・・奥州街道 東禅寺 宝永7年(1710年)    2.71m 
第3番・・・甲州街道 太宗寺 正徳2年(1712年)    2.67m
第4番・・・旧中山道 真性寺 正徳4年(1714年)    2.68m
第5番・・・水戸街道 霊巌寺 享保2年(1717年)    2.73m
第6番・・・千葉街道 永代寺 享保5年(1720年)      現存せず

なお、江東区永代寺の第六番は明治元年(1868年)の神仏分離令による廃仏毀釈により、旧永代寺が廃寺になり取り壊された となっています。

蛇足ですが、第3番の「太宗寺にある奪衣婆像」は見事な彫像で、ご開帳の時は間近で観ることができます。

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駒込にある「六義園(リクギエン)」の入口
今日は先を急がなくてはなりませんから園内の見学は止めておきます。

解説によると・・・六義園は、徳川五代将軍・徳川綱吉の側用人・柳沢吉保が、自らの下屋敷として造営した大名庭園である。
元禄8年 (1695) に加賀藩の旧下屋敷跡地を綱吉から拝領した柳沢は、約2万7千坪の平坦な土地に土を盛って丘を築き、千川上水を引いて池を掘り、7年の歳月をかけて起伏のある景観をもつ回遊式築山泉水庭園を現出させた。

元禄15年 (1702) に庭園と下屋敷が一通り完成すると、以後将軍綱吉のお成りが頻繁に行われるようになる。その回数は記録されているものだけでも実に58回もあり、吉保の寵臣ぶりもさることながら、この庭園自体が当時にあっても天下一品のものと評価されていたことが窺える。
柳沢家は次の吉里の代に甲府から大和郡山に転封となるが、六義園は柳沢家の下屋敷として幕末まで使用された。
時代が下るにつれ徐々に荒れはしたものの、江戸を襲った度々の火災で類焼することもなく明治を迎えた。

明治の初年には三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎が六義園を購入、維新後荒れたままになっていた庭園に整備が施され、このとき周囲が今日見る赤煉瓦の塀で囲まれた。
その後は関東大震災による被害もほとんど受けず、昭和13年 (1938) には東京市に寄贈され、以後一般公開されるようになり(有料)、東京大空襲の被害を受けることもなく、造園時の面影を残したまま今日に生き延びた六義園は、昭和28年 (1953) に特別名勝に指定されている となっています。

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「駒込富士神社」・・・建立年は不明。拝殿は富士山に見立てた富士塚の上にある。江戸期の富士信仰の拠点の一つとなった。現在に至るまで「お富士さん」の通称で親しまれている。

天正元年(1573)、本郷村の名主の夢枕に木花咲耶姫が立ち、現在の東京大学の地に浅間神社の神を勧請した 。
寛永5年(1628)加賀前田家が上屋敷をその地に賜るにあたり、浅間社を一旦、屋敷の外の本郷本富士町に移し、その後現在地に合祀した(時期不詳)。

江戸時代後期には「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほど流行した富士講のなかでも ここは最も古い組織の一つがあり、町火消の間で深く信仰された。

初夢で有名な「一富士、二鷹、三茄子」は、周辺に鷹匠屋敷があった事、駒込茄子が名産物であった事に由来する。「駒込は一富士二鷹三茄子」と当時の縁起物として川柳に詠まれたとのことです。

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富士神社の近くにある「天祖神社(左)」と「高木家(右)」
「天祖神社」・・・創建は古く、文治5年(1189)源頼朝公奥州藤原泰衡征伐の時、
霊夢のお告げがあり神明を祀ると伝えられている。
その後宮守もなかったが、慶安年中(1648-1652)堀丹後守年直が再興する。
空襲により残らず消失したが氏子各町の熱意により昭和29年新築し現在に至っている。

「名主屋敷門」・・・当時伝通院領であった駒込の開拓を許され名主を務めた高木家の屋敷。
現存のものは享保2年(1717)築と伝えられる。
一般の町屋では許されず、武家でも旗本以上の屋敷にしか許されなかった式台付きの玄関がある。
町人からの訴えや争いの仲裁をこの玄関で行ったため、名主様玄関の裁きと言われた。
現在も居住中につき、見学は外観のみ。

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左・・・「吉祥寺山門」
右・・・「吉祥寺本堂」
吉祥寺・・・太田道灌が江戸築城のとき井戸を掘ったところ「吉祥増上」の刻印が出たので和田倉門に「吉祥庵」を設けたのがはじまり。
家康の関東入国の際に庵を水道橋に移したが明暦の大火で焼失し、現在の位置に移る。中央線の吉祥寺はこの吉祥寺の門前の農民が新田を開いたことから名付けたという。
吉祥寺は曹洞宗の修業所となり、その広い境内に学舎・寮舎を設け、常時千人の学僧がいた。教科は内典(仏教)と外典(漢学)にわかれ、やがて漢学が強化され武士が聴講するようになった。(後に現在の駒沢大学)
二宮尊徳、榎本武揚の墓所がある

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左・・・「二宮尊徳墓」
右・・・「鐘楼」

二宮尊徳の墓は日光街道を歩いたとき、今市だったと記憶していますがそこにもありました。
小学校の校庭にあった二宮金次郎の銅像が、その墓の所に建っていました.

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左・・・「養昌寺にある半井桃水墓」
桃水の青年期(一葉との出会いと別れ)
1888(明治21年) 「東京朝日新聞」に入社。対馬から兄弟姉妹を引き取り、東京に居を構える。
1891(明治24年) 小説家志望の樋口一葉と初めて出逢い、強い影響を与える。
1892(明治25年) 自費出版の同人誌「武蔵野」を創刊。一葉の処女作「闇桜」を掲載する。
1896(明治29年) 樋口一葉、結核のため他界。享年24歳。
桃水は樋口一葉の師として、また一葉の思慕の人としても知られている。

右・・・「南谷寺にある赤目不動」・・・元和年間(1615~24)万行(まんこう)和尚が伊勢の国赤目山で不動明王像を授かり、駒込の動坂に庵を設け「赤目不動」と称した。
寛永年間(1624~44)三代将軍家光は鷹狩りの途中に動坂の庵に立ち寄り、寺地を本駒込に与え、赤目不動を目黒・目白に準じて目赤と名付けよと命じる。
それで現在地に移転し「目赤不動」と名乗った

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元和年間(1615年頃)から昭和12(1937)年までこの地に青果市場があり、神田や千住とならぶ江戸の三大市場のひとつで三町にまたがる大きな市場であった。
市場の興りは、駒込など北から野菜を担いで江戸に行く農民がこの地にあった大木の下で休むことが通例となったことから自然に市が発生した。最初は駒込のやっちゃばといわれ、大根・にんじん・ごぼうなど根菜を土のついたまま取引したことから土物店といった。

 

  【(その2)に続く】

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'12-1 「歩き初め」(その2)

(その1)からの続きです

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その1の養昌寺や赤目不動は「白山」に近い所になります。

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ここも白山にある「高林寺の緒方洪庵夫妻墓(右が洪庵の墓石です)」・・・緒方洪庵は、江戸時代末期の蘭学者、医学者、教育者。文化7年~文久3年(1810~1863)現在の岡山県に生まれ、名は章(あきら)、後に洪庵と改めた。
             大坂、江戸、長崎で蘭学、医学を学び、天保9年(1838)、大坂に”適々斎塾(てきてきさいじゅく”(適塾)を開き、診療と研究のかたわら、三千人におよぶ門弟の教育に当たった。
この塾から大村益次郎、橋本左内、福沢諭吉などが輩出した。
洪庵は、幕府の奥医師として江戸に招かれ、翌年、文久3年(1863)に病没した。

余談ですが、私としてはTVドラマ「Jin-仁」で武田鉄也が演じた緒方洪庵の印象が強く、洪庵が没したあと、仁が墓石に向かって語り掛けるシ-ンがありましたが、そのセット?の墓石の形があまりにもよく似ていたので驚きながらTVを観ていました。

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「大円寺にある ほうろく地蔵」・・・八百屋お七にちなむ地蔵尊。
天和2年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた「お七」を供養するために建立されたお地蔵様。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために熱した焙烙(ほうろく=素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。
享保4年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。

その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。

なお、この大円寺には高島秋帆(シュウハン)の墓があります。
余談ですが、1841(天保12)年に武蔵徳丸原(または徳丸ヶ原)の地で、秋帆が日本で初めて西洋式の砲術の演習をおこなった場所で、武蔵徳丸原の地は、1956年(昭和31年)から大規模団地ができる際に高島秋帆の名前に因んで、「高島平」と名付けられ、その中央にある地下鉄都営三田線の駅も高島平駅と名付けられました。 

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・・・同じく白山にある「圓乗寺の八百屋お七の墓
お七の墓は三基あり、中央は寺の住職が建てたもの。
右側の墓は寛政年間(1789-1801)に岩井半四郎がお七を演じた縁で建立。
左側は近所の人が二百七十回忌法要のために建てた。
戒名は妙栄禅定尼。天和三(1683)年三月二十九日寂(旧暦)

右・・・圓乗寺入口にある「八百屋お七地蔵
お七が在世のとき一体の地蔵尊を所持していた。それを祀ってあるのがこの「お七」地蔵尊である。
この地蔵の正式名は「南無六道能化八百屋於七地蔵尊」という。

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左・・・「根津神社社殿」
右・・・「仁王門」
社殿は宝永3年(1706年)の創建で、宝永2年(1705年)江戸幕府五代将軍・徳川綱吉が養嗣子六代将軍家宣のために屋敷地を献納して天下普請したもので、権現造(本殿、幣殿、拝殿を構造的に一体に造る)の傑作とされている。
社殿7棟が国の重要文化財に指定されている。

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根津神社の巫女さんですが、清楚な感じが気に入ったので パチリ
いい歳をしているのに魅力的な女性を見ると・・・ どうも悪い癖です(苦笑)

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「丁子屋」は明治28年の創業で旧藍染川の水を利用して“着物の染め洗い”をしてきたそうで、今でも染色をしているようです。
店の前の通りは以前「藍染川」が流れていて、この川を利用して染色後の洗いをしていたそうです。
その川は雨が降ると水が溢れてしまう との事で、今では暗渠になってしまいました。

この「藍染川」は、夏目漱石の「三四郎」の中で団子坂へ菊人形を見に行く中に出てきますが、それを読むと「その川で染色後の洗いが出来たのかなぁ」と思ってしまいます。

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明治43年に建てられ、昭和61年まで谷中6丁目で営業していた「吉田屋酒店」を移築し、無料で公開。

出桁造りと呼ばれる重厚な佇まい、前土間、揚戸の出入り口など江戸商家の建築様式を伝える貴重な建物です。
館内には、お酒を量り売りしていた
頃に使われていた大きな棹秤や枡をはじめ、樽や徳利、宣伝用ポスターなど様ざまな資料を展示しています。

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左・・・「真源寺の入谷鬼子母神(キシモジン)堂」
江戸三大鬼子母神というのがあって、ここの他にあるのが「雑司ヶ谷の法明寺と下総中山(千葉・船橋市)の法華経寺」。

「朝顔まつり」・・・鬼子母神を中心に毎年7月の6・7・8日の3日間に開かれ、境内と寺院前の言問通りに100あまりの店が並び、約2万鉢の朝顔が売られます。
狭い歩道に店が出るので行き来が出来ないほど賑わいます。

余談・・・「畏れ?(恐れ?)入谷の鬼子母神」と言う言葉遊びがありますが、この類は多くありそうで、「その手は桑名の焼き蛤」とか、最近(ではありませんが)では「当たり前田のクラッカー」なんていうのもあります(笑)

右・・・かっぱ橋商店街で見付けた新種?のカッパ
この商店街には多くのカッパが生息していて、探しながら歩くと色々なカッパに出会えそうです。
何しろ途中にある「曹源寺」はカッパ寺として有名で、カッパの手のミイラを保存しているくらいですから。

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左・・・浅草寺・宝蔵門
昭和39年(1694)に浅草寺の山門として内部三層のうち上部二層に近代的防災設備を施した収蔵室を設け、浅草寺の什宝物収蔵の宝蔵門として某篤志家の寄進により復興再建された。

境内では猿回しの「正月興行」、そろって新年のご挨拶と御座~~い

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左・・・浅草寺境内からの眺めたスカイツリー、右の蔭は宝蔵院。

右・・・伝法院通りにあった「江戸切子屋のぐい飲み」
この店は工房で作ってそれを直売しているのだそうですが、下戸な私とは無縁なものなので値段を見るのをスッカリ忘れていました。

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隅田川に架かる「言問橋」から眺めたスカイツリーと隅田川。
既に陽は沈んで空は茜色  それももう少し早い時間であればもっと見事な色だったかも知れず、残念な思いをしました。

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・・・月とスカイツリー(右側の白点が月です)
・・・スカイツリーの根元近くにオープンしていた土産物屋

土産物屋も探せば他にあると思いますが、既に暗くなっているのでゴールの「地下鉄押上駅」に向かいましょう。
またまた蛇足ですが、押上駅はこのスカイツリーの直ぐ下の地下にあるのではないでしょうか?

「歩き初め」の結果・・・ケイタイによる歩数は31800歩、歩行距離は約20.3キロ、マァ「歩き初め」にしては満足な散策でした。

 【長い散策になってしまいましたが、これで終わりです】

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'11-66 「アルプスの画家 セガンティーニ展」へ 

先日 某社のプレゼントに運良く当選したので、12/13(火)に行ってきました。

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これは会場で貰ったパンフレットですが、セガンティーニというとこのような作品が紹介されるようで、やはり「アルプスの画家」なのでしょうね。

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これはお借りした物ですが、やはりアルプスが描かれていて、解説では「アルプスの山々に魅せられ、その風景を描き続けた画家」となっていました。

しかし、セガンティーニ(1858~1899)の幼少の頃は「複雑な家庭環境と貧困のため、数々の辛苦を経験した」 とのことです。

その為なのでしょうか、私としては初期の作品は構図や色彩全体がずいぶん暗いなぁ と感じました。

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会場は、損保ジャパン本社ビルの42階にある「損保ジャパン東郷青児美術館」で、この写真のビルの42階にあります。

もちろん会場内の写真撮影は禁止なので、42階から撮った風景をアップします。

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中央に見える木立が「新宿御苑」で、その先の木立は「神宮外苑」です。

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東京タワーを撮ってみましたが、右下に「神宮競技場」の一部が見えています。
(このビルから東京タワーまでの直線距離は約5・5キロ)

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東京スカイツリーも見えたので撮ってみましたが、隅田川の川向こうに有るのに以外に近く見えるので驚きました。
(このビルからスカイツリーまでの直線距離は約10・5キロ)

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こんなに近く見えるのだから ということで、新宿から京成上野駅まで歩くことにしました。
途中の飯田橋駅近くではバグパイプを使ってのストリート・ミュージシャンが演奏していたので パチリ
バグパイプ演奏って珍しいですよね。

12/13(火) という少し古い記録ですが、投稿しました。

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'11-65, 紅葉の小石川後楽園

'11/12/5 (月) 
あまりにも良い天気だったので、「東京の小石川後楽園」へ紅葉見物と洒落込んできました。

Photo今回の散策コース
「水道橋駅」から「後楽園」内を一巡し、本郷3丁目を経由して「京成上野駅」まで。
この界隈には見所が多いのですが、今回はパスしました。

今回の投稿はその後楽園で撮った紅葉のアルバムです

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(左)後楽園の外側に巡らされている築地塀
(右)入口にあった一本の紅葉

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(左)入門すると目の前には紅葉並木?が・・・
(右)入門して直ぐに左に向かうと小高い丘があり、丘の上から撮った池(園内案内図では「大堰川」)。
この日は月曜なのに大勢の見物客が居て、この飛び石(案内図では「沢渡り」)を渡るのに列を成していて一人だけが歩くのを待っていて パチリ

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(左)丘から少し下った所からの「渡月橋(奥の方に見えます)」
(右)丘の麓にある東屋で、案内図では「丸屋」と書かれています。

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(左)2種類の紅葉のグラデーションが見事だったので撮りましたが、思ったようにはいきませんでした。
(右)池に映える紅葉

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(左)案内図では「白糸の滝」となっています。
(右)無題

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以前、「神田上水」について投稿しましたが、その神田上水は後楽園内を流れ、今の「東京ドーム」に向かっていますが、流れているのかどうかは定かではありません。
この2枚はその「神田上水」を撮ったものです。

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(左)枝垂れ紅葉?
(右)紅葉に映える池面を泳ぐカモ? かも知れません。
実は2羽が交差するシーンを撮りたくて暫く待っていたのですが、残念ながら言うことを聞いてくれませんでした。

    ~~~~~~~~

Dscn9834本郷3丁目交差点から湯島天神方向に向かうと、まず最初に目に付くのがこの古い(オット失礼)店。
店の名は「江戸あられの竹仙」・・・戦前から此処で煎餅を焼き、売り続けているそうで、店内の造りも棚も入れ物も戦前のまま とのことです。

Dscn9835更に進むと「モナカの壺屋」・・・ここは寛永年間(1624~1644)創業の菓子店。
明治維新の際には「長い間徳川様にお世話になったのだから」と大店がつぎつぎとやめていった時に、勝海舟から
「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」
と言われ、店を再開し暖簾を残すことにしたそうです。

Dscn9837「すきやきの江知勝」・・・ 明治4年(1871)創業の老舗すき焼屋。
(もちろん利用したことはありません 苦笑)

この店は「本郷切り通し坂」の途中にあって、この坂は
 ♪ 青い瓦斯灯境内を 出れば本郷切通し~
という懐メロ 「湯島の白梅」に唄われています。

  【今回の投稿はこれで終わりです】

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'11-64, カミサンに感謝しなくては

カミサンが手術入院してから早くも3週間が過ぎました。

「マァ 入院じゃぁシャ~ナイ 近くのスーパーで弁当や出来合のものを買ってくれば餓死することはあるまい」
と思っていたのですが、どうもスーパーへ行くのも面倒なので思い切って包丁を握ってみました。もちろん生まれて初めてです。

今までの私が出来る家事といえば
1,ご飯を炊くこと(電気釜はあります) 
2,包丁を研ぐこと(頼まれた時だけ) 
3,洗濯機を使うこと(我が家は自慢ではありませんが2槽式です) 
4,気が向くと電気掃除機を使うこと
くらいで、料理というものはしなくても良いもの と思っていたので、今まで付き合ったことがありません。

さて、下に載せた画像は私の悪戦苦闘の産物?です。
美味いかどうかは??ですが、自分としては私好みの味になっていたと自己満足しています。

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左は「我が家のポトフ風煮込み」。カミサンは太いソーセージを使うのですが無かったので細いもので代用しました。ジャガイモやニンジンの皮は面倒なので剥きません。

右は冷凍庫に冷凍のホタテ貝柱があったので、ネギと玉ネギと一緒に油炒めの真似事料理です。
魚はサンマの開きですが、頭と尾は食べないので焼く前にカットしておきました。(「開きサンマやアジ」の骨はいつも食べてしまいます)

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左は「ベーコンステーキ?卵焼き添え」。 レタスは千切って皿の端に置いただけ。

右は「我が家のスイス風レシティ」と呼んでいるもので、細く切ったジャガイモにチーズを乗せたもので、フライパンで焼きチーズをのせるだけ。初挑戦だったのでチーズが多すぎました。
右の小さな入れ物には「乾燥鱈と水菜の酢の物」
以前の私は酢の物を食べることが出来なかったのですが、最近は平気になりました。

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左は「おでん」。(茶碗の中は私のご飯ですが、糖尿のためカロリー制限しているので少なめになっています。
でもこんなに副食物を食べてはダメでしょうね 笑)

右は「ネギと鶏モモ肉の焼き鳥風」

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左は「マーボー豆腐」、これはインスタントなので至って簡単でした。(豆腐は切るのが面倒なので千切りました 笑)

右は「ボール餃子を入れたごった煮」

しかし今はスーパーへ行くと、チンしただけで食べられる「コロッケ」や「ハンバーグ」などがあるのですね。味はまだ試してないので判りませんがこれも便利でしょうね。

  ~~~~~~~~

「オ~イ 飯はまだか~」で金婚が過ぎてしまった私ども2人ですが、イザ自分が その役になって初めてカミサンの大変さが判りました。
勿論いつも心の中では感謝しているのですが、口にしたことがない「妻不幸者」です。

一方、考えてみると「成せば成る」ようで貴重の初体験だったと思っていますし、始めてみると巾は広そうだし、奥行きも深そうで病み付きになるかも知れません。 
が、これを毎日続けるのか? と考えると ウ~~ン・・・ですね(苦笑)

まだ料理?画像はあるのですが、あまり載せても見て下さる方々はウンザリされると思うのでこれくらいにしておきます。

 【今回はこれで終わりです

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'11-63 またまた「お茶の水界隈」

またまたお茶の水界隈の投稿で恐縮ですが、別にここに拘りがあるのではなく、「行かなくてばならない事」があって出掛けているわけです。(これは私事なのですが文末に書くつもりです)

さて、前々回で珍しい井戸のことを投稿しましたが、この事も含めて新しい発見?が有りましたので、これに併せてこの界隈には老舗も多いようなので、これらについても投稿します。

Dscn9461車道にあった井戸は先日のブログに載せましたが、この他にも有るのでは ないかと思い、歩いてみました。

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先ず見付けたのが「ちゃんこ料理屋」に有ったものです。
入口の右に草陰が見えますが、その中に井戸がありました。
と言っても使われていないようで、取っ手を動かさなくても水が流れています。
なのでこれはたぶん水道をここに仕掛けているのでしょうね。

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更にもう一ヶ所有りました。
それはポンプ式ではなく右の写真のような懸け樋で、いつも流れているようです。
この場所は「湯島天神男坂下(左写真)」の右側(女性が見ているほう)にあり、そこの心城院の境内に「江戸名水である『柳の井』(美髪・厄除)」がありました。
これを飲んでみましたが、全くクセが無く、そして円やかな感じでしたが霊水だと思うからでしょうか?

蛇足ですが・・・説明によると、湯島という名の由来は、「湯」の方は語源である「湧」から水が湧くという意味。
そして「島」はかつては東京湾の入り江だった上野広小路、不忍池辺りから湯島天神の高台を見上げると島に見えたことから。
これを二つあわせて、水の湧き出る島ということで「湯島」と名付けられたそうです。なお、ほかにも説あるようですが・・・

更に蛇足・・・湯島天神下は花街として栄えた場所で、泉鏡花の「婦系図」の舞台である、「湯島の白梅」の世界ですから、神田明神も含めてこの界隈にはラブホも点在しています。

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「うどんすきの満川」・・・湯島の路地裏にひっそりと佇む「うどんすき」をメインにした会席料理店で、料亭のような佇まいを残す一軒家。
ここでは「京粕漬」も取り扱っているようで、門柱の左にはこのような標識も・・・

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湯島から神田明神に向かうと、このような「おでんのこなから」という店もありました。(もしも提灯がなかったら仕舞屋ですね)
「満川」「こなから」共に創業時期などは判りませんが、両者とも車が1台ヤット通れるような横丁にあるので、知る人ぞ知る隠れ家的な存在なのかも知れません。

Dscn9645「神田明神下交差点」の傍にあった「ボルダリング・ジム」
調べてみると・・・ボルダリング(Bouldering)とは、フリークライミングの一種で保用具を用いずに、巨石や2mから4mほどの小岩壁を登ること。
最近屋内のジムで登るものも多い。Boulder(ボルダー)とは、丸い大きな石だそうです。
お茶の水駅の周りには楽器店が騒音?を響かせ、スキー・登山具の店も軒を並べています。

Photo_2 ここからは「神田・淡路町界隈」に点在する老舗の話で、場所は秋葉原駅とお茶の水駅のほぼ中間にあります(赤点線が概略ゾーンです)
この周辺は関東大震災や空襲にも遭わなかったのでしょうか?
とても狭い範囲ですが雰囲気のある場所です。

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神田・淡路町にあって、明治13年(1880年)創業の老舗として有名な「藪蕎麦」。
左が店の入口で、右は全景です。

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甘味処「竹むら」・・・昭和5年(1930年)創業
入口の右には「揚まんじゅう」「あわぜんざい」と書かれています。

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あんこう料理「いせ源」・・・都内唯一のあんこう料理店だそうで、「東京都歴史的建造物」に指定されています。

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鳥料理「ぼたん」・・・昭和初期の建物で、「東京都歴史的建造物」に指定されています。

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そば処「まつや」・・・明治17(1884年)創業
どの店にも行ったことがありませんが、サイトで見るとここがリーズナブルで、他店は何となく敷居が高そう。

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同じゾーンにある喫茶室「ショパン」・・・昭和8年(1933年)創業(私と同級です)

ここにはこんな思い出が・・・
まだ二十歳前のこと、会社の先輩に連れられて此処で珈琲を
その時に聴いた「アンダンテカンタービ(チャイコフスキー)」でクラシック音楽を聴くようになりました。

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その他として
同じくこのゾーンにあった建物ですが、銅板?の外壁と、中央と上の飾りが珍しかったので パチリ。(どういう建物なのか などは判りません)

Dscn9732_3 不忍池に近付くとこのような「縁台喫茶(私が命名)」があります・・・正式には「やなか珈琲店」
珈琲豆を煎りながら小売りをしていますが、紙コップですがコーヒーを飲むことが出来ます。
190円也ですが、その味はそこらの喫茶店のものとは違ってやや深煎りですが、香りも良くお薦めの190円です。

Dscn9734紅葉の「不忍池・弁天堂」

蛇足ですが、お茶の水へ通うのは、カミサンが「脊柱管狭窄症&すべり症」の手術をお茶の水にある某病院でしたので、用事があると出掛けなければならないからなのです。
そして行き・帰りには寄り道しながら散策をしている、という「妻不幸」な私です。

さらに余談・・・カミサンが居なくなると困ってしまうのが毎日の食事。
仕方なくやったこともない料理に挑戦している毎日ですが、次回は「自己流料理」を投稿してみたいと思っています。

【長文にお付き合い下さいまして有り難うございました。
 今回はこれで終わりです】

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'11-62 水道橋から上野まで (長編ご容赦)

きょう(11/8)も用事があってお茶の水(東京)へ行って来たので、「水道橋」界隈とその足で京成上野まで歩いたので、その時のスナップを投稿します。

Photo 4時方向にあるのが「神田教会」、そこから1時方向の「京成上野駅」までがコースです。
途中「湯島聖堂」「神田明神」、そして裏通りになっている「明神下通り」を歩き、「湯島天神」から「京成上野駅」までのコースでした。

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カトリック神田教会」 
『1874年(明治
7年)1月に創建され東京の教会でも有数の歴史を持つ教会です。
現在の聖堂はフランス人宣教師シェレル神父の構想により、1928年(昭和3年)に完成したもので、当時の面影がそのまま残っています。
マックス・ヒンデル氏の設計によるロマネスク様式とルネッサンス様式を融合させた建築です』 と説明されています。

2001年に「文化庁の有形文化財として登録された」 そうです。

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祭壇と背景のステンドグラス

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祭壇の左にあるマリア像

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湯島聖堂「入徳門」・・・木造、平家建。切妻造り。延面積14.16m2
宝永元年(1704)建造で、聖堂内、唯一の木造建造物 だそうです。

右は湯島聖堂の築地塀(この坂道は「昌平坂」です)

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左は神田明神の石段で、「男坂」と呼ばれています。

右は神田明神・・・説明によると、『江戸東京に鎮座して1300年近くの歴史をもつ神田明神。
江戸時代には、「江戸総鎮守」として将軍様から江戸庶民にいたるまで江戸のすべてを守護されました』

神田明神の祭神は「大黒様(大己貴命 オオナムチノミコト)」、「恵比寿様(少彦名命 スクナヒコナノミコト)」、「将門様(平将門命 タイラノマサカドノミコト)」だそうです。

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左は 「随神門」・・・昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念として建立したもので、総檜・入母屋造 とのこと
右は 参道入口にある「甘酒屋」。
有名な物として、6mのムロ(土室)で釜の中でお粥と糀(コウジ)を一定温度で保持して作る甘酒で、砂糖を使わない自然な甘さに人気があるそうです。

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明神下通りと有名な?蒲焼屋
この蒲焼き屋は江戸時代地図(安政3年・1856年)にも今の場所に載っているので、そうとうな老舗なのでしょう。

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小料理屋

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「明神下」といえば「銭形平次親分」の出番ですが、恋女房の「お静さん」とはどの辺りに住んでいたのでしょうかねぇ。
と言うことで調べてみたら・・・銭形平次は野村胡堂の名作「銭形平次捕物控」の主人公であり、平次の住居は「明神下御台所町」ということになっていて、江戸時代の地図に載っているし、今回そこを歩いていました(上のルート図では蒲焼屋のあたりです 尤も銭形平次は架空の人物ですが 笑)

江戸時代の住所表示には「明神下御台所町」はあるのですが、明治時代には「同朋町」「台所町」になり、現在では「外神田」という表示になっていて、どうも味も素っ気もなくなってしまったようです。
(独り言:誰が町名を決めるのか知らないけれど、センスがないですねぇ)

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ちゃんこ料理屋

この「明神下通り」の両側には小さな商事会社が多いようで、画像のような食事処が軒を連ねている という訳ではありませんが、このような所で夕食を というのは私には贅沢すぎるような気がします。

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湯島天神
左は・・・男坂下の右に安置されている「復興地蔵」
『1923年(大正12年)9月1日の関東大震災は東都に未曽有の惨禍をもたらした。
当時の町会長を中心として有志は罹災者の安寧と想起復興を願い三百年来火伏寺として伝統を持つ心城院の協力を得て災害復興地蔵尊(向って右側)を当地に建立して震災で亡くなった方々の冥福と地元の平和発展を祈った。

その後1945年(昭和20年)3月10日の東京大空襲には隣接町会がほとんど焼土と化した中で、この町会は一軒の損失もなくその難を免れた。
これは「お地蔵さん」の御加護によるものと往時の人々の心に深く刻まれた』 と説明されています。

右はその「湯島天神・男坂」です。

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湯島台下にあった珍しい井戸ですが、車道にポツンとあるのも居場所を間違えたようで、何か変な感じがします。
近くにいた人に「まだ水は出るのですね?」
と尋ねたら
「この辺は湯島台の下になるので湧水は豊富だったらしく、昔はこのような井戸は何ヶ所もあったようだが今はこれだけになってしまった。水は飲めないが水は今でも出ますよ」とのこと。
井戸の形も私が子供の頃に見慣れていた物とは違っているようです。

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不忍池でのスナップ

【長編?の投稿になりましたが、これで終わりです】

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