新しい年になると「初」という文字を付けた行事が行われるようで、1/18 は「初観音」なので検索してみたら、浅草の観音様で「亡者送り」という行事があることが判りました。
そこで早速 浅草寺(東京)へその行事を見にゆくことにしました。
行事説明によると・・・江戸時代中期から始められた「温座秘法陀羅尼会」で、1月12日午前6時から始まり、、一山住職全員が出仕する中、浅草寺住職(貫首)が第一座に登壇して開白(かいびゃく:始まり)となり、18日午後5時頃からの結願(けちがん:最後の一座)に至るまでの7日間に「観音秘密供養法(観音密供)」を行う。
18日夕刻、いろいろな法要が終わると突如本堂内の明かりがすべて消されます。
これと同時に本堂裏手からは松明を持った鬼が二人出て、本堂正面の階段を駆け降り、境内を巡ったのち、「神供」を投入した銭塚地蔵堂脇の穴に松明を投入して行事は満了を迎えます。

その鬼の姿から俗に「亡者送り」とも呼ばれています。
こうして諸尊への祈願とともに施餓鬼(せがき)作法により悪霊も鎮められ、年頭の除災招福の祈願が達成されるのです。(私のような信仰心のない亡者には、それこそ馬の耳に念仏の世界です)

'12/1/18 (水)に歩いたルートで、10時方向にスタートの日暮里駅があり、5時方向がゴールの浅草寺ですが、両方ともこのルート図に入らないので「至る」としました。
途中立ち寄ったのが 御行の松・背面地蔵・浄閑寺 南下しながら一葉記念館・一葉旧居跡碑・飛不動・鷲(オオトリ)神社・旧吉原を抜け 山谷堀遊歩道を下り、行事が行われる浅草寺(浅草観音)まで。
11時方向に「蛇行している道路」とありますが、ここは「音無川(石神井川)」が流れていたので蛇行した道路になっています。
蛇足ですが、この音無川は三ノ輪を通って山谷堀になり、隅田川に注いでいました。


御行の松(左)と不動堂(右)
江戸時代に寛永寺の住職であった輪王寺宮(皇族出身)が、この松の木の下で行法を行ったことに由来するとも言われているが、定説はないようです。
説明によると・・・初代の御行の松は、「江戸名所図会」や「広重の錦絵」にも描かれた有名な松であったが、昭和3年に枯れてしまい昭和5年に伐採されたそうで、現在の松の木は3代目。
枯れた初代の木の一部は境内に展示されている。(左写真の屋根の中)
また、終戦後、枯れた初代の木の根を掘り起こして彫った「不動明王像」が不動堂(右写真)の中に祀られているそうです。
ちなみに、初代の「御行の松」は、大正15年(昭和元年)に天然記念物の指定を受け、当時の測定によると、木の高さ13.6m、幹周囲4.1mあったそうです。
また、枯れて伐採した時に年輪から樹齢を調べたところ、約350年と判定された。
この「御行の松」の所在地は今でも根岸(6丁目)ですが、説明によると「根岸の里の侘び住まい」という言葉を聞きますが、根岸の里ってこの御行の松のあたり一帯のことだろう、と言われているようです。
根岸の名前の由来は、上野の山の「根もと」にあり、沼地・田圃の水際だった、ということ。江戸名所図会によれば、根岸は上野の高台を控え、音無川の豊かな流水に恵まれた閑静な地で、だから鶯や蛙の声もよそとは違うと、いった意味とのこと。
この風光明媚な地をめでて文人墨客が根岸の里に「別荘」を持ち、文人墨客だけでなく大店の寮(別荘)も浅草の橋場とともに江戸の二大別荘リゾートであった。
とはいうものの、文化文政の頃(1820年頃)の戸数はわずか230戸で、確かに「侘び住まい」の雰囲気かも知れません。
余談:私はこの根岸と聞くと思い出すのが、TVドラマ「慶次郎縁側日記(北原亜以子原案)」の舞台のような気がしてならないことです。
道路はこのような蛇行を繰り返しながら三ノ輪に向かいますが、ここには「音無川」が流れていたところで、1934年に暗渠化されて現在は下水道となっているそうです。
背面(ウシロムキ)地蔵は正保4年(1647年)の建立で、背丈は2メートルほどでしょうか。
その昔奥州街道の傍、 道路仏として西向きに立てられておたが、 後に明和元年 (1764 年) 道筋が寺の東側に改り、 地蔵尊を前向きに建て直したところ、 不思議な事に一夜のうちに元の向きになったと人々に伝えられてこの名前が起こったと言われている。
現在でも、 めずらしい縁起のお地蔵様として多くの参拝者が訪れているそうです。


浄閑寺本堂(左)と新吉原総霊塔(右)
吉原の遊女がここに投げこまれるように葬られたので俗に投込寺と呼ばれた。
本堂の裏にはそうした遊女の供養のために 「生れては苦界 死しては浄閑寺」 という言葉が填め込まれた(石垣の右側)新吉原総霊塔が建てられている。
この供養塔は1793年に建立され、現在の塔は1929年に改修されたもの。
浄閑寺に埋葬された遊女は2万人を超え、その平均年齢は22歳弱だったといわれ、どの女性も粗末な格好でムシロに巻かれていた とのことです。
浄閑寺境内には他に、しばしばこの寺を訪れた永井荷風が遊女たちの死をあわれんで書いた詩を刻んだ石碑と、荷風の歯2本、小筆1本を納めている筆塚が、この総霊塔の前にあります。


一葉記念館(左)と記念館前に建つ石碑(右)
記念館・・・昭和36年に台東区が開設した樋口ー葉の文学資料館。
推敲の跡がにじむ『たけくらベ』の草稿、雑貨店の仕入帳、師・半井桃水に宛てた書簡、身につけていた着物やかんざしなどが陳列されている そうですが、私はまだ見学したことがないのです。
記念館前は児童公園になっていますが、その片隅に建つ石碑
碑文は女史の旧友歌人佐佐木信綱博士作並びに書による次の歌二首が刻まれている。
紫の古りし光にたくへつべし
君ここに住みてそめし 筆のあや
一葉女史たけくらべ記念碑
『 そのかみの 美登利信如らも この園に
来あそぶらむか 月しろき夜を 』
佐佐木信綱

明治26年7月20日、荒物屋を営むため本郷菊坂町から下谷竜泉寺町に引越してきた一葉の荒物屋 は家賃が1円50銭、二軒長屋、間口二間、5坪という粗末なものでした。
最初は荒物屋のつもりでしたが、その後子供向けの菓子や玩具が多くなりましたが、全然もうからなかったとのこと。
僅か、10ケ月で三人(母親・一葉・妹の邦)の商人生活は終わりましたが、この界隈を背景にして不朽の名作「たけくらべ」「わかれ道」「大つごもり」などの題材を得ました。
この石碑はその旧居を偲んで地元の人々が昭和35年に建てたもの だそうです。
この「邦子(一葉の2歳年下の妹)」のことを調べていたら次のような解説がありましたので、これをお借りしたいと思います。
『姉と違い邦子は大柄の色白でした。ほがらかで人あしらいもうまく、竜泉寺町で荒物屋を始めた時、店番は邦子が担当しました。
一葉の死後 邦子が相続戸主となり姉の残した負債も引き受けましたが、「日記は焼き捨てよ」との遺言にそむき、姉の残した原稿や小説の草稿、反古紙にいたるまで一枚も粗末にせず、姉の業績の保存・整理・浄書に努めました。
近代作家の中でも樋口一葉の研究が量と質で突出しているのは、邦子の存在あってのことです。
明治31年、父の代から親戚付き合いをしていた西村釧之助の世話で吉江政次を入り婿として結婚。翌年には釧之助の文房具店礫川堂を譲り受け、店の経営をしながら六男四女を産み育てましたが、大正15年7月1日、52歳で亡くなりました。』


飛不動尊の本堂(左)とご本尊(右)
解説によると・・・『創建後まもなくのこと、この寺の住職が修行のため、ご本尊のお不動様を背負い、はるばる大峯山まで運んだ事がありました。江戸の寺ではご本尊が留守の間、お不動様の分身を携えた人々が集まり、お不動様を観想しそれぞれ一心に祈りました。
すると、お不動様は一夜にして大峯山から江戸に飛び帰り、祈った人々の願いを叶えて下さいました。以来「空を飛び来て、衆生を守りたもう、お不動様」飛不動尊と呼ばれるようになりました。
古くより病魔や災難を飛ばしてくれる「空飛ぶお不動様」として信仰されていたことがうかがわれます。お不動さまのご縁日は28日です。ご本尊のご開帳は12年ごとの酉歳に行われます。
最近では航空機の発達と空飛ぶお不動さまとが結びつき、航空関係に携わ人々や、旅行される多くの人が航空安全と道中安泰を願い参拝されます。
また航空安全はすなわち”落ちない”と言う事で、受験合格のご祈願でお参りする学生や、珍しいのは遠くへ飛ぶようにという願いからでしょうか ゴルファーのお参りも多いとか』


鷲(オオトリ)神社となでおかめ
酉の市で有名な浅草鷲神社の正面と、社殿に置かれていた「なでおかめ」
酉の市は「とりのまち」が本義。「まち」とは祭りのことで、「神を掻き込む」「酉は取り込む」という縁起から、熊手を求めて商売繁盛を願う祭りとなった。
なでおかめ・・・顔の各場所により違うご利益を授かると伝えられており、鷲神社は商売繁昌の神様なので金運の鼻が多くの方に撫でられている とのことですが、なでる場所とその効能は・・・
おでこ をなでれば賢くなり
目 をなでれば先見の明が効き
鼻 をなでれば金運がつく
向かって右の頬 をなでれば恋愛成就
左の頬 をなでれば健康に
口 をなでれば災いを防ぎ
顎から時計回り になでれば物事が丸く収まると云う
【鷲神社「なでおかめ」の由来】
「おかめ」の歴史を古事記、日本書紀に準じて簡略に説明します。
おかめとは天宇津女命(アメノウズメノミコト)のことと言われております。
天の岩戸神話の中で須佐之男命(スサノウノミコト)が高天原に天照大御神(アマテラスオオミカミ)を訪ねるが謀反を疑われ悪行の限りを尽くし、天照大御神の岩戸籠りの原因になってしまい、光を失ってしまった世に光を取り戻すため高御産巣日神(タカミムスヒ)は神々を召集して方策を練り、祭祀と神遊を催しました。
その時に舞を舞い天照大御神を導き出し世に再び光を取り戻した立役者の神と言われているのが 天宇津女命(アメノウズメノミコト)です。
おかめはお多福とも言われ福が多く幸せを招く女性の象徴という事から縁起が良いとされ、酉の市の縁起熊手にも江戸より飾り付けられています。
(以上は鷲神社の資料からお借りしたものです)


吉原大門跡(左)と見返り柳の碑(右)
吉原遊郭は300メートル×400メートルの広大さで、そこに3000人もの遊女がいたと言われる。
遊女や遊郭を相手にする商売も吉原遊郭周辺に広がっていたようで、吉原遊郭を中心とした巨大な市場ができていた。
1958(昭和33)年に売春防止法が施行されたため、公の売春街である赤線としての吉原遊郭は廃止された。なお、「吉原」の地名も1966年に消え、現在は「千束」となっています。
かつて京都の島原遊郭の門口に柳があったことから、それにならって吉原でも柳を植えていた。
その柳の辺りで、享楽を堪能した客が去りがたい思いを抱いて遊郭を振り返ったのが「見返り柳」の由来とのこと(私にはこの様な経験はありませんが・・・)


天麩羅で有名 『土手の伊勢屋』
太平洋戦争末期、東京大空襲から奇跡的に焼け残った天麩羅の『伊勢屋』。
手入れされた見事な博物館級の店内で百年を越す伝統の味を堪能することができます
この二軒の建物は、元々は土手の前にあった“山谷堀”の島状の中洲のような場所に建っていたので橋を越えないと玄関へたどり着けなかったという。
創業は明治22年(1889年)と約120年の歴史を誇る老舗。
関東大震災で焼失した店舗は、昭和2年(1927年)に再建、入口の左手には“屋台棚造り”という引き窓があって天麩羅を揚げている姿が見える造りになっている。
天麩羅がかつて江戸庶民の屋台食だった名残が建物の構造に残っていて、東京・下町、山谷の食の文化の歴史を今に伝えている。
伊勢屋の左隣は桜鍋で有名な『中江』
もちろん私はどちらの店にも未だに縁がありません(苦笑)


「山谷堀遊歩道」・・・山谷堀は江戸を水害ら守るために、元和6(1620)年に築かれた運河ですが、昭和50年代に埋め立てられて暗渠となり、緑道が整備され今は「山谷堀公園」になっています。
左写真は何の変哲もない「紙洗橋」の橋柱ですが、ここにはこんな面白い話が・・・
『買う気もないのに品物を手にとったり、値段を聞いたりするだけで、相手を「からかう」という意味などに使われる「ひやかし」とか、「ひやかす」の言葉は、この「紙洗橋」に関係がある?ようなのです。
この橋の付近で屑紙を漉き返して「浅草紙」を製造していたようで、漉き職人にとっての山谷掘りは用水を供給してくれる貴重な源泉でしたし、樋で漉場へ水を引くのみならず、堀端に水槽を設けて「ひやかし」(紙漉きの工程)にも使われたようです。
紙を漉く準備として、夕刻になると翌日の紙料作りをしました。そのためにまず紙の原料となる屑紙を水の入った水槽の中に入れる作業を行い、充分に水を吸収させて軟らかくしました。この工程を「ひやかし」と呼んでいて屑紙をしばらくの間は水に浸して置きました。
この浸して置く時間は暇なので、職人は時間つぶしのために近くにある遊廓「吉原」に出掛け、店の遊女を見て歩いた ということです。
客待ちをしている遊女をからかうだけでしたので、遊女を買う気も無いのにからかうだけで帰ってしまう彼らは、「紙をひやかしてきた連中、というわけで「ひやかし」と呼ばれたそうです。
これは先日放送されたNHKの「ブラタモリ」でもこの様なことを言っていました。


「亡者送り」の行事は6時からなので、浅草寺境内を歩き回りましたがヤハリ五重塔が目に付いてしまいます。
右はストロボ無しで撮ったもので色補正なども無しですが、こんな風に撮れているなんて思いもしませんで、カメラの性能が私などが考えているより遙かに優れているのだろうと実感してしまいました。
さて、「亡者送り」ですが、良い場所で待ち構えていましたが、イザ行事が始まると何処ともなく大勢の人が押し掛けてきて、この1枚だけが何とか生き残りました。

長いブログになってしまいましたが、お付き合い下さいまして有り難うございました。
最近のコメント