(その2)からの続きで、ここでは「吾妻橋(浅草)」から「清洲橋」迄のことを投稿します。
前回までは「岩淵水門」から「吾妻橋(浅草)」まで来たので、これからはさらに河口の「勝鬨橋」を目指します。
この日(3/16 (金))は東京に用事が出来たので早いとこ用事を済ませ、前回打ち切った「浅草」に向かいました。
浅草・雷門の風景ですが、相変わらず混雑しています。

浅草へ来ると何故か「スカイツリーを撮らなければ」という思いになってしまいますが、何故なのでしょう?
これが前回打ち切った昼間の「吾妻橋」
吾妻橋の西詰めにある交番ですが、浅草観音に近いせいなのでしょうか寺院風の造り
「駒形橋」


左:駒形橋の西詰めにある「駒形堂」・・・本尊は「馬頭観世音」だそうですが、江戸時代には広重の錦絵になったり、吉原の遊女2代目高尾が
君は今 駒形あたり 時鳥(ホトトギス)
と仙台候の伊達綱宗を慕って詠んだ名句が残ってのいる場所です
右はどじょう料理で有名な「駒形どぜう」
「厩(ウマヤ)橋」
元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所で、1872年(明治5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。
以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されたのだっそうです
「蔵前橋」
私個人の思いですが、どうも橋の色が馴染めません
総武線鉄橋を渡る電車と水上バスが巧い具合に重なりました。
この水上バスは松本零士がデザインした宇宙船のような「ヒミコ号」で、2004年3月26日から浅草・お台場間を運航しているそうですが、どの型の船に乗るのかはその時にならないと判らない だと思います。
「両国橋」
江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。
しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。
事態を重く見た幕府は防火・防災目的のために架橋を決断することになる。
架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った のだそうです。


左:両国橋東詰に建っている句碑
「大高源五(忠臣蔵で有名な赤穂四十七士の1人)の句碑
日の恩や 忽ちくだく 厚氷
右:両国橋の遊歩道で殺陣の訓練をしていた「柳谷 真吾さん」
もちろん刀は本物ではありませんが、重さは同じに作ってあるそうで1キロ強、持たせてもらいましたが ズシッ とした重みがありました。
今は舞台が主ですが、映画やTVにも時々出演するそうで、天然理心流(剣術)の門下であり、駆け出しの俳優をやってるそうで、学ぶ姿勢を崩さないから資質は無くとも下積みを長く積み、後に表舞台に出る予定。
最近は経験の為に各ジャンルの役者業に挑戦している のだそうです


両国橋の傍にある「柳橋」
お茶の水の傍を流れる神田川が、隅田川と合流するところにあります。
昔は隅田川の船遊び客の船宿が多く花街として新橋と共に東京を代表する場所になり、柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われていたそうです。
両国橋から数分の所にある「薬研堀不動院」
有名なのは年末に開催される「納めの歳の市・大出庫市」。
かつて東京の歳の市は、深川八幡から始まり、浅草観音、神田明神、愛宕神社などを経て、最後にこの薬研堀不動尊で終了したことから、「納めの歳の市」と言われるようになったとされる。
12月27日から29日にかけて、正月用品をはじめ東日本橋の問屋街からの衣料品・雑貨などを売る露店が並び、周辺は大にぎわいとなる のだそうです。
同じく両国橋の傍にある「塩原橋」
神田川とは逆方向にある「竪川」が隅田川に合流するところにある橋で、何の変哲もない橋ですが、ところがそうではなくて「塩原多助一代記で有名な江戸時代の豪商で、裸一貫から身を起こし大商人へと成長。
本所(今の墨田区周辺)には 過ぎたるものが二つあり
津軽屋敷に炭屋塩原
と歌にまで詠われるほどの成功をおさめた塩原太助が、この橋の傍に住んでいたことからこの橋の名前が付けられたのだそうです。


塩原橋の傍にある「江島杉山神社」
左:岩屋へ通じる道(いわやみち)
右:岩屋内にある「杉山和一の石像」
説明によると・・・神奈川県藤沢市の江ノ島弁財天(市杵島比売命)と、鍼術の神様・杉山和一(1610~94年)総検校がまつられています。
杉山和一は、鍼の神様、視覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されています。
◎弁財天と杉山和一との関係
杉山和一は、三重県津市の出身で江戸時代初期の人です。
幼くして失明し、江戸に出て出瀬琢一に鍼術を学び、更に江ノ島弁天の岩屋にこもり鍼術の一つである管鍼術を授かりました。
この和一の名声を聞いた五代将軍徳用網吉が和一を「扶持検校」として召し抱え、日夜自分の治療に当たらせました。
しかし、高齢だったために侍医・御典医という役職には就きませんでした。和一はすでに多くの弟子を教育していたので、代わりにその弟子達が江戸幕府や大名の鍼科の御典医となりました。
網吉は和一に、江ノ島弁天に月参りをして感謝しているのを不憫と思い、元禄6年(1693)5月16日に当地本所一つ目に1860坪余りの屋敷を賜い、同6月18目には弁財天像、先の屋敷内西側989坪余りに弁財天の社地を下賜しました。
当地下賜の逸話に、網吉が和一に「何かはしいものはないか」と問われ、「一つ目が欲しい」との返答に当地が撰ばれたと言います。
和一は、鍼治療に際し管の中に鍼を入れるという方法を創案・大成しました。これは現在日本の鍼治療の方法の主流となっていて、世界にも伝わっています。
杉山流鍼治稽古所…和一が延宝8年(1680)には視覚障害者に鍼・按摩を教育し、世界一古い障害者教育でもあります。
江戸時代の後期より本社二の鳥居の手前・南側にその教育施設「杉山流鍼治稽古所
四間余二五問」が有りました と説明されています。
この両国橋周辺にはこの他にも見所(吉良上野介屋敷跡・鼠小僧次郎吉の墓がある回向院・勝海舟生誕の地など)がありますが、今回はパスしました。
「新大橋」


新大橋を過ぎると有るのが「芭蕉記念館」
左: 草の戸も 住み替る代ぞ
ひなの家
の句碑
右;「芭蕉庵跡 碑」(これは萬年橋の袂にあります)
余談ですが、この芭蕉庵跡の碑は「芭蕉稲荷の境内」にありますが、なぜ稲荷社と芭蕉が一緒なのでしょうか、よく判りません。


「萬年橋」
小名木(オナギ)川が隅田川に合流するところにあります。
私の場合ですが、萬年橋というと時代小説の「鬼平犯科帳」などを連想してしまいます。
それとこの橋の袂から眺める「清洲橋」が見事 と説明されていましたが、今日は逆光でどうもサマにならないようです。


「清洲橋」
隅田川に架かる多くの橋の中で一番優美な形をしているのではないでしょうか?
それに骨組みも頑丈そうですし・・・
説明によると・・・関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。
「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。
2007年(平成19年)、都道府県の道路橋として初めて勝鬨橋・永代橋と共に重要文化財に指定された となっています。
【(その3)はこれで終わり、(その4)に続きます】
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