2008年7月23日 (水)

223,光り輝けるか

8月に入ると 人並みにやっと? 「後期高齢者への仲間入り」 となりますが、この「後期」という言葉には抵抗があるので、「高貴」を考えていましたが これは「オソレオオイ!」(笑)。
そこで「光輝」という言葉を使うようにしたいと考えています。

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そして、これを機会に次のことに取り組むつもりです。

1,車は廃車にした
 ● ゴルフへ行く時は クラブの送迎バスを利用する
 (仲間がいれば乗せてもらう 笑)
 ● 旅行へ行く場合は「パック・ツァー」を多用する

2,運転免許証は廃棄する
 ● 代わりの身分証明は何にしよう?

3,散策は自分の体力と相談しながら これからも続ける
 ● 体力劣化の自覚症状は なるべく考えない
 ● 散策範囲は東京以外の場所も考える

4,健康第一だが あまり神経質にならない
 ● サプリメントのお世話にならないよう心掛ける

5,神仏には「ポックリ」を心を込めて祈願する
  そしてその時、もしも意識が有れば「お前のお陰で良い人生だった」と言えれば・・・
 ● 怖いのは「認知症系」の病い

6,「老いらくの恋」の願望は常に持ち続ける
 ● 実現するに越したことはないが 夢のまた夢だろう

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まぁこんな事をしながら これからを「光り輝いて精一杯生きられれば」が夢です。

付録;ブログの更新もストレスを感じない程度で行う
 ● 多くの方に見て頂きたいのですが、この更新が思うように行かない

添付画像は、上はまさに「黄昏迫る」。下は光輝高齢者では「日の出の勢い」とは言えないので、「ゆうずき」を載せました。

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2008年7月19日 (土)

221,西巣鴨界隈(その1)

'08/7/10  墓参で「巣鴨(東京)」へ行きましたので、帰りに「西巣鴨」まで足を延ばしました。

1 スタートは5時方向にある「巣鴨駅」で、10時方向に向かいながら「真性寺」・「とげ抜き地蔵」・「庚申塚」まではいつも歩いているコースです。

今回は少し足を延ばして「庚申塚」を右折し、都電に沿って北上すると「お岩通り商店会」になり、直ぐにあるのが「盛雲寺」で、「妙行寺」・「善養寺」と続きます。

巣鴨駅への帰りは5時方向のルートで「總禅寺」を経由しました。

P1100046都電の 「庚申塚停留場」。 前方方向は「大塚」を経由して、終点の「早稲田」に向かいます。

最盛期の都電は41系統が存在し、総延長は213kmに及んだ。
しかし自動車の増加による運行の困難と交通局の経営悪化によって1967年から1972年にかけて181kmの区間が廃止となり、都営バスや地下鉄に転換されたそうです。
そして今ではこの荒川線(三ノ輪橋~早稲田)の約12㎞のみが運行されています。

P1090837 ルート図で「庚申塚」を右折し、白山通りを横断すると道は「お岩通り商店会」となります。

賑やかな「巣鴨地蔵通り商店街」を歩いてきた者にとっては、チョットした異空間です。

P1090842 「お岩通り」を左折し、都電の踏み切りを渡ると「盛雲寺」。

蛇足ですが、高齢者が都電に乗ると、必ず席を譲ってくれます。

P1090838 盛雲寺境内にある「新門辰五郎の墓」・・・1800年(寛政12年)~ 1875年(明治8年)は、江戸時代後期の町火消、鳶職、香具師、侠客、浅草・浅草寺門番である。

娘は江戸幕府15代将軍徳川慶喜の妾となる。また勝海舟とも交流があったと言われる。

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「妙行(ミョウギョウ)寺」の山門横に立っている石碑で、左は「忠臣蔵」の浅野家ゆかりの墓として、浅野内匠頭の祖母、高光院殿と弟大学長広公夫人蓮光院殿のお墓がある。「浅野家夫人の名前の中に瑤泉院供養塔」、そして右の石柱には「お岩様之寺」と彫られています。

P1090847_edited妙行寺・本堂・・・寛永元年(1624年)四谷で創建され、明治42年(1909年)に現在地に移った。

墓地には四谷怪談のお岩さんの墓があることで有名。

ほかに忠臣蔵の浅野家の墓や浅野内匠頭夫人で大石内蔵助を陰で支えたといわれる瑶泉院の供養塔、魚河岸の魚などを供養する「魚河岸供養塔」や「うなぎ供養塔」があります。

  【 続く 】

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222,西巣鴨界隈(その2)

(その2)では、妙行寺・善養寺を巡り、巣鴨駅への帰り路、途中にある「總禅寺」に立ち寄りました。

P1090848 墓地内にあった「お岩さんの由緒」。 

左下に配置が書かれていますが、お岩さんと瑤泉院供養塔が並んでいます。 この二人は夜な夜などの様な話しをしているのでしょうか? 興味がありませんか

P1090854_editedお岩さんの墓・・・夫・田村伊右衛門との折り合いが悪く病身となり寛永13年に亡くなった。それ以来田村家には色々な災いが続き、妙行寺の住職の法華経により一切の因縁が取り除かれた そうです。

お岩さんに同情し、信仰すると自分の不遇が救われる、という法華経の功徳が,当時江戸中の評判となった。

四百年近く経つ今日でも,悪縁切りや怨敵退散、家庭和合、心願成就などの祈願に訪れる人が絶えない のだそうです。

P1100041「忠臣蔵」の浅野家ゆかりの墓で、浅野内匠頭の祖母、高光院殿と弟大学長広公夫人蓮光院殿のお墓だそうです。

左端が「瑤泉院の供養塔」。

P1090851 浅野内匠頭の正室「瑤泉院」が永代供養料として金三十両を納めたという寄付を記念した「供養塔」が建立されたそうです。

この日('08/7/10)も、シニアの団体さんがお参りしていました。

P1090858妙行寺の右隣にある「善養寺」の本堂で、中には「閻魔大王」が鎮座しています。

825年(天長2年)上野山中に慈覚大師によって創建。1624年~1644年(寛永年間)下谷善養寺へ移転。
1972年(明治45年)現在地へ移転したそうです。

P1090866 堂内に安置されている「閻魔大王」で、本堂にお参りすると、高さ3mのえんま大王像には光で照らされ迫力満点。

閻魔大王はお地蔵様の化身といわれ、閻魔大王が検察官・裁判官、お地蔵様が弁護士のような関係 だそうです。
巣鴨はとげぬき地蔵尊・江戸六地蔵尊のひとつ真性寺の地蔵尊があるお地蔵様の町。

P1090869 本堂の左奥にある「尾形乾山の墓」・・・尾形乾山は1663年(寛文3年)京都の呉服商尾形宗謙の三男として生まれました。
兄は有名な尾形光琳。
1731年(享保16年)69歳の頃に輪王寺宮公寛法親王を頼って江戸に下り、入谷に窯を築いて陶器や絵画の制作に手腕を発揮し、晩年をおくりました。
1743年(寛保3年)81歳で没 と説明されています。

P1100025_2 「總禅寺の山門」で赤門とも呼ばれているようです。

このお寺の由緒などは判りませんが、この山門は風格があります。

P1100030總禅寺にある「手塚治虫」の墓で、説明によると本名:手塚 治(1928年~1989)は、日本の漫画家、アニメーター、医師。大阪府豊能郡豊中町(現在の豊中市)に生まれ、兵庫県宝塚市育ち。医学博士の学位を持つ。

戒名は伯藝院殿覚圓蟲聖大居士。血液型はA型。 日本のアニメの先駆者。漫画の神様とも呼ばれている そうです。

との事ですが、私は本もTVも殆ど読んだことも、観たこともないのです。

P1100028 墓石の左にあるモニュメント?で、いかにも「手塚治虫」らしいものです。 

   

 【 今回もお越し下さいまして有り難うございました 】

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2008年7月14日 (月)

219,ほおずき市(浅草・東京)その1

昨年が「ほおずき市」の初体験でしたが、今年も '08/7/10 にお参りしてきました。

台東区の解説によると・・・ 『毎年、7月9日.10日は浅草観音の 「四万六千日(シマンロクセンニチ)・ほおづき市」 である。
このどちらかの日に観音様にお詣りすると、四万六千日もお参りした功徳があるのだそうだ。

四六時(一日)の千日分が四万六千だという説や、お米の一升は四万六千粒にあたり、この日にお参りすると一生無病息災になれるのだという説、また源義朝が石橋山の合戦で敗れ、浅草寺境内に陣したのが七月十日で、その時に集まった軍勢が四万六千騎あったという説など色々ある。

四万六千日の縁日にあわせて立つのが、ほおずき市。観音境内の空き地に約250軒のほおずき店が並ぶ。よしず張りに裸電球がぶらさがり、ガラス風鈴つきの「千成ほおずき」が売られる。
「千成りほおずき」は、栽培が難しく、その出来不出来は天候に左右されるといい、殆どが江戸川区鹿骨(ししぼね)町で作られている。』 

P1090835 「浅草観音境内」(パノラマ)です。

実際は人や店が多いのですが、それが写せなくて残念です。

P1090892店頭風景と「ほおずき娘さん」たち

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220,ほおずき市(浅草・東京)その2

(その2) では浅草寺境内のスナップを載せました。

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P1090876_2 浅草名物「雷おこし」の製造実演&直売。

メーカーの「常盤堂の解説によると・・・浅草寺誌によりますと、徳川十一代将軍‘家斉’(1787~1836)が浅草寺の総門・雷門(慶応年間火災で焼けたもの、広重などの錦絵に出てきます)を再建した寛政七年(1795年)頃の記録に出ておりますので、約二百年前から作られ、売られていたと思われます となっています。

 【 今回もお越し下さいまして有り難うございました 】

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2008年7月 8日 (火)

216,成田山新勝寺「祇園会」(その1)

「成田(千葉県成田市)で 祇園祭 が行われている」 というTVを観たので、さっそく  '08/7/6 に行ってきました。

千葉に住んでいながら、成田でこの様な祭りがある ということを初めて知ったのですから、何ともはや情けない千葉県民です。

先ずはじめに「成田山新勝寺」を画像で簡単にご紹介したいと思います。

Photo 「成田山新勝寺境内」の配置図ですが、山の斜面に建物が建てられています。

6時方向にあるのが最近完成した「総門」。そして12時方向に登りながら「大本堂」「額堂」「「光明堂」そして「平和の大塔」へと続いてゆきます。  (お断り;この配置図は新勝寺のパンフからお借りしました)

P1090750 「総門」 ・・・開基1070年記念事業として2006年に竣工。  総欅造り、高さ15m、桁行14.m、梁行6.m。  

2階部には不動明王や千手観音、大日如来など8体の木製仏像が安置されている そうです。

P1090679 「仁王門」・・・国の重要文化財。  参道から大本堂へ至る急な階段の途中に建つ。入母屋造の八脚門で、文政13年(1830年)の建立。

P1090812 「大本堂」・・・本尊の「不動明王像」を安置する。 入母屋造り二重屋根の鉄筋コンクリート造で、規模は間口95.4m、奥行59.9m、棟高32.6m。1968年建立

P1090695_2 「三重塔」・・・ 国の重要文化財。 正徳2年(1712年)建立の塔。

高さ25mの中規模の塔だが、近くにある大本堂に比較して小さく見える。軒裏には垂木(軒を支える棒状の部材)を用いず、雲文を刻んだ板で軒を支える板軒とする。初層は各面の中央を扉とし、その両脇の柱間には十六羅漢の彫刻を施す。この他、柱、長押、貫などの部材に地紋彫りを施すなど、近世建築らしく装飾性豊かな塔である と解説されています。

P1090705 三重塔の右隣が「一切経堂」・・・享保7年(1722年)に建立された転輪経蔵で、現在は文化財保護のため回すことができなくなってしまいましたが、願い事を唱えながら3回まわすと、不思議に願い事がかなうといわれています。

その右が「鐘楼」・・・元禄14年(1701年)に建立されました。高さ18m、約7m四方の勾欄をめぐらした入母屋造袴腰付の丹塗の建物で、安政と明治の頃に補修が行われています。楼上の鐘は昭和43年(1968年)竣工の大本堂建立にあわせて鋳造されました。鐘は高さ約180cm、口径90cm、重量は1068kg だそうです。

P1090697 「額堂」・・・国の重要文化財。文久元年(1861年)に建てられた入母屋造、全面吹き放し(建具や壁を造らない)の堂で、絵馬を掲げるための建物である。

P1090699 「光明堂」・・・ 国の重要文化財。  元禄14年(1701年)建立。釈迦堂が本堂になる前の旧本堂である。

P1090702 「平和大塔」・・・境内最奥に建つ、鉄筋コンクリート造、高さ58.1mの多宝塔形の仏塔で、1984年の建立。外観は二重塔だが内部は5階建てである。塔の基壇部分にある1階は霊光殿と称し、大塔入口と写経道場のほか、絵馬などの文化財を展示している。2階は明王殿と称し、不動明王を中心とする五大明王の巨像を安置し、昭和曼荼羅、真言宗祖師伝などの絵画で荘厳されている。3階・4階はそれぞれ経蔵殿、法蔵殿と称し、信徒が奉納した不動明王の小像を多数安置している。5階は金剛殿と称し五智如来像を安置する と説明されています。

  【 成田祇園祭へ続く 】

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217,成田山新勝寺「祇園会」(その2)

この「祇園祭」は・・・「成田山祇園会(ナリタサン ギオンエ)」 は奥之院にお祀りされている、ご本尊不動明王の本地仏である大日如来に五穀豊穣、万民豊楽をはじめ 諸願成就を祈願する成田山奥之院の祭礼です。

寺録によると、江戸中期の亨保年間(1716~1736年) にはすでに行なわれていたと伝えられており、成田山と町の人々が一体となって繰り広げる関東でも屈指の夏祭で、成田祇園祭とも言われて いるそうです。

大日如来のご尊体とした御輿が渡御し、合わせて10台の山車(だし)や屋台(やたい)が一斉に町に繰り出す。

町内によっては、見物客でも、法被や足袋を履いていれば山車や屋台を一緒に引いて祭に参加する事が出来る可能性もある。 

そうとは知らず、子供達が山車を牽いていたので私も牽かせてもらいましたが、山車は「子供用」「大人用」の区別はなく、幼児から大人まで一緒になって綱を牽くのが特長かも知れません。

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上の4枚の画像は「山車」を載せましたが、この他にも有るようですが・・・

以下の画像は、山車に関係するようなスナップを載せました。

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P1090713 P1090784_2 この日の千葉地方の天候は晴れ、気温30℃  皆さん気合いが入っているのでしょうが、それでも暑そう       

                  【 続く 】      

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218,成田山新勝寺「祇園会」(その3)

このページもスナップで纏めてみました。

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子供達の衣装も「イッチョマエ」です。

P1090732 P1090830_2 夏祭りの定番スタイルでしょうか、子供達は「アイスクリーム」、大人達の「カンカン帽」。

P1090674 成田山新勝寺への参道で、正面に見える塔が「三重塔」ですが、この道はやや勾配が急な坂道になっています。

Photo_3稚児行列もこの坂を登ってきましたが、山車との時間調整でしょうか立ち止まりました。

この動作もリーダーの指示通りで、疲れていると思いますが姿勢を崩さないのは立派

P1090822 上の画像とほぼ同じ位置から撮ったものですが、老若男女に牽かれた全ての「山車」が、掛け声と共にこの坂を登ってきます。

この場所は祭りのクライマックスらしく、大勢の見物人やカメラマンが待ち構えていました。

【今回もお越し下さいまして有り難うございました】

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2008年6月20日 (金)

213, 勝海舟を追って(その1)

今までのブログは、或る特定の場所を散策しながら 「周辺の名所や旧跡を尋ね歩く」 という内容でしたが、今回は東京にある 「勝海舟」の「揺り籠から墓場まで」と、海舟の周囲に居た人たちを含めて訪ね歩いてみましたので、このことについて載せようと思います。 ただ広範囲にわたりますので地図はなく、所在地を記入しました。

と言いましても全てを知っている訳ではありませんから、至らぬところなど多々あると思います。 もしこの他にご存知の方がいらっしゃいましたらお教え頂けますと幸いです。

【 勝海舟は幼名を麟太郎といい、剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦「咸臨丸」艦長として太平洋を横断渡米。

慶応4年(1868)3月13日高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進軍を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名。

明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、享年77歳。】

Photo 「勝海舟生誕の地」碑

文政6年(1823)1月13日この地、男谷精一郎邸内で生まれました。

男谷家は、精一郎の祖父・平蔵の息子の一人が旗本・勝家の養子に入り、勝小吉(海舟の父親)となった。つまり勝海舟とは従兄弟同志になる。

Photo_2 この碑は、この様に子供達が無心に遊ぶ「両国公園(墨田区両国4-25)」の一隅に建っています。

Photo_4 「勝海舟揺籃の地」碑 (墨田区緑4-11) にあるビルの入口に建っています。

本を読むと、この頃は「岡野孫一郎」の傍に住んでいたようで、江戸時代の地図(1856年)にはこの名前が載っています。

Photo_5 「能勢妙見山東京別院 (墨田区本所 4-6)」

海舟が9歳の時、犬に急所を噛まれ、父親の「小吉」がここへ日参し、水垢離をして快癒を祈願した と言われています。

水行は年中行事になっているらしく、毎年2月に行われる とのことです。

Photo_6 それを記念?して建てられた「勝海舟の胸像」が、境内にあります。

Photo_7 少・青年時代に参禅した 向島・弘福寺の山門(墨田区向島 5-3)

Photo_8 その「弘福寺の本堂」

Photo_9 徹夜で剣術の訓練に励んだ「向島・牛島神社跡」で、弘福寺の裏手にあります。

本などでは「王子権現」となっていて、北区の王子権現かと思っていたのですが、ここだそうです。

なお今の「牛島神社」は、もう少し南の墨田公園内に移築されています。

Photo_10 浅草「正定寺(台東区松が谷2-1)」当時の剣術の師匠であった「島田虎之助の墓」

直心影流島田派の剣客で、浅草新堀の彼の道場には勝海舟も通った

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214, 勝海舟を追って(その2)

海舟は 24歳の時、本所から「赤坂田町」に越してきていますが、この屋敷跡の標示はなく、場所は港区赤坂 3-13 付近 いまの赤坂みすじ通り辺りのようです。ただ小説などを読むと可成りのボロ屋敷だったようです。

この赤坂田町には24~37歳まで住んでいて、蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開きました。

その後「壮年時代住居跡(港区赤坂 6-18)」に越しています。

Photo_16 この銅像は墨田区役所(墨田区吾妻橋 1-23 )傍にあり、江戸無血開城に当たった40歳半ばの頃の姿を表しているそうです。

像の大きさは約2.5m、台座を含めると約5.5mとのこと。

Photo_11 37~46歳までの壮年時代を過ごした「屋敷跡(港区赤坂 6-13)」で、この頃が一番活躍した時代ではないのかなぁ と思っています。

1,38歳の時、咸臨丸艦長として渡米 
2,40歳の時、坂本龍馬が門人となる 
3,45歳の時、龍馬暗殺される 
4,46歳の時、西郷と江戸城開城の会見を行う 
5,46歳の時、静岡へ移動 
6,47歳の時、勝安房を安芳と改名

Photo_12「咸臨丸の模型」 (墨田区役所 ロビー)

38歳の時、この船の艦長として初渡米

Photo_13 「西郷との会見場所の碑(港区芝 5-33)」で、田町駅の右手傍にありますが、ここは3回目の会見が行われた場所で、薩摩藩の蔵屋敷があったそうです。

Photo_14大雄寺(台東区谷中6-1) にある「高橋泥舟の墓」

勝と西郷の会見に先立って活躍した と言われる「幕末の三舟」の一人で、山岡鉄舟、勝海舟が含まれ、西郷との会見に当たる訳ですがその経緯に2つの説があるという事です。

1説)慶喜から戦後処理を一任された海舟は、西郷との交渉役に泥舟を推薦するが、泥舟は慶喜の身辺警備のため江戸を離れることが出来ず、その代わりに推薦されたのが鉄舟であった。

2説)泥舟は慶喜に対し鉄舟を推薦し、これを受けた鉄舟は海舟に会い、海舟の手紙を持って西郷と会見した。

ただ何れにしても、泥舟の推薦がなければ鉄舟の登場はなく、鉄舟は海舟の手紙を持って西郷と会見しなければ、官軍と幕府軍は戦火を交え、日本は混乱し、更には国が二分され、最悪の場合は当時のインドや支那(いまの中国)のように外国に占領されたかも知れない とまで言われているそうです。

この様なことで、鉄舟と西郷の「根回し会見」は重要なものであったのではないか と思います。
この鉄舟が西郷に会うため静岡に行きますが、この時、海舟の屋敷で保護していた薩摩藩士の「益満(マスミツ)休之助」を同行させ、無事に静岡まで行くことが出来たそうです。

なお泥舟は、鉄舟の義兄に当たります。

Photo_15 全生庵(台東区谷中5-4)にある「山岡鉄舟の墓」

山岡鉄舟は 明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣。
西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われている そうです。

Photo_21 これが「全生庵の本堂」ですが、この寺は山岡鉄舟が開祖したと言われています。

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