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2007年10月26日 (金)

141,歩行トレーニング ①

前回「日光街道一人旅」を考えているということと、この為の歩行トレーニングをしていると申し上げました。

そのトレーニングルートは下図の「サイクル&遊歩道」なのですが、毎回同じ道を歩いていては飽きてしまうので、少しルートを変えて歩いてみました。

すると東京と同じように 千葉にもオモシロイ所がありそうなので、時間があったら「東京ってオモシロイ」と同じように散策したい と思うようになっています。

Photo これがその散策ルート(黒線)で、1時方向の「子安神社」、下がって「大賀ハス種発見の池」、7時方向に下がって「検見川神社」。

4時方向に移動し「最後の清国皇帝薄儀(ふぎ)の弟 愛新覚羅薄傑(アイシンカクラフケツ)の旧居、その近くにある「神谷伝兵衛の元別荘」。

次は8時方向の「見浜園」、海浜幕張駅を過ぎ、1時方向の「昆陽神社」に寄って散策は終わりました。

なお、私の家は1時方向ですが地図には入りませんでした。

P1050307 「子安神社 社殿」

千葉風土記によると・・・室町時代、千葉介21代幕張城主馬加睦奥守平康胤氏の奥方が妊娠し11ヶ月になっても兆しがなく心痛し日頃崇敬している船橋三山の二宮神社、畑の子安神社、武石の三代王神社、幕張の子守神社、四社の神主を呼び寄せ幕張の浜で安産祈祷した処、間もなく奥方が無事に男子を安産し時に西暦1445年(文安2年)9月16日であった。  康胤はじめ家臣、領民が欣喜し四社の御神徳に報ゆる為の祭りを安産の御礼として拳行した、この行事を知って新たに菊田、大原、時平、八王子、高津比め神社の五社が参加し九社のお祭りとなる。時に西暦1727年享保12年(八代将軍吉宗)の頃から七年目毎に行われる大祭となっる。(千葉市風土記)

P1050309 社殿の裏になりますが、ここは古墳だそうで、神社の口伝では桓武時代に子安古墳を神体としたのが始めという、とのことらしいです。

P1050286 神社の近くではサツマイモの収穫をしていましたが、「大きすぎて美味くないだろう」と言っていました。

P1050293 同じく 神社近くの民家ですが・・・

P1050295 これは「長屋門」というのでしょうか?

このような旧家?がこの付近に散在しています。

P1050287 昭和26年(1951)3月、千葉検見川東京大学グランド地下より発見された3粒の蓮の実は、蓮の権威者大賀一郎博士により、約2000年前のものと鑑定され、その年の5月発芽し翌年7月18日見事に開花した。 この池から種が発見されたそうです。

その後、千葉公園など各地に移植され、毎年薄紅色の美しい花を開いている。 また、ここから世界各地にも送られ、友好親善を深めている とのことです。

                              【続く】

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142,歩行トレーニング ②

千葉市歩行トレーニング散策の続きです。

P1050315 「検見川神社 社殿」 由緒・・・歴史と伝統のある検見川の地に鎮まります検見川神社の御創祀は、およそ1200年前平安時代前期第56代清和天皇の御代にまで遡ります。
当時は、人臣として初めての摂政である藤原良房が清和天皇の外祖父として実権を掌握し、養子基経と共に摂関政治を藤原氏が確立した時代であります。
この天皇の御宇貞観11年(869年)全国に流行した疫病を鎮めるため、その消除を全国規模で祈りました。その時、下総国(現在の千葉県)で素盞嗚尊(すさのおのみこと)が祀られ、災厄消除を祈った場が当地(嵯峨という地名を持つ)であったのです。古来より国家単位の災いをも取り除くほどの神威の轟きます地なのです  と解説されています。

P1050313 神社境内にある「天然記念物 君が代岩」 (高さは1メートルくらいでしょうか。)

説明によると・・・木曽義仲ゆかりの地である信州木曽郡日義村で発見されたもので、木曽山中に長年の風雪により大小無数の岩石が次第に固まり、大きな岩に成長したもの となっています。

P1050325 最後の清国皇帝薄儀(フギ)の弟 愛新覚羅薄傑(アイシンカクラフケツ)が
新婚生活を送った家 として保存されていて、一般公開もしているようです。

P1050326 「浅間神社」

薄傑の家の裏にある神社ですが、50年ほど前までこの鳥居の手前は遠浅の海でした。

P1050333 大正7年(1918)にできあがったといわれているこの洋館は、明治・大正時代の実業家の神谷伝兵衛が別荘として建てたものです。

市内に残る鉄筋コンクリート建築としてはもっとも古いもので、たいへん貴重なものです。建物の外観は一階ピロティー正面に5つの連続アーチが見られ、建物全体の外壁は白いタイルで仕上げられています。このような特徴は,ロマネスク様式に通じるものです。

神谷伝兵衛と言うよりは、浅草の電気ブランで有名な「神谷バー」の名前で知られているのではないでしょうか。

P1050336 同じく1階にあるテラスですが、簡素な感じが気に入りました。

P1050320 「旧千葉街道」にあった 小さな名もない祠

   【続く】

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143,歩行トレーニング ③

③では「幕張副都心」に移ろうと思います。

Photo 左図で8時方向にあるのが「幕張副都心」になります。

帰りは、ここから1時方向に上がりながら「昆陽神社」を経由します。

P1050144 副都心のパノラマ 1

P1050113_2 副都心のパノラマ 2

副都心の解説によると・・・かつて浅瀬の干潟で「浮島の駅」と呼ばれたこの地は、いまや年間1千万が訪れる国際業務都市として生まれ変わった。総面積522ha、就業予定人工15万人、居住予定人口2万6千人。わが国最大規模の新都心は、業務研究、教育文化、商業、住宅などの緒機能が計画的に配され、環境デザインの描き出す街並みは、これまでの日本にない〈新しい都市〉を予感させる。将来、マリン・リゾート施設など、ウォーターフロントとしての機能も加わることによって、さらに多様な人々が幕張をめざすだろう となっています。

P1050510 「見浜園」という日本庭園・・・世界と日本文化の交流をテーマにした「池泉回遊式で、山や川、海、林などが表現してあり、歩きながら変化する景観の自然美を堪能することが出来る と説明されています。

P1050511 庭園の池に写る高層ホテル

P1050214 道路新設のため、新たに移築造営された「昆陽神社・右と秋葉神社・左」

青木昆陽は、サツマイモの栽培を研究していて、現在の千葉市花見川区幕張で始めて試作に成功した といわれている。1735年の ことである。 そのサツマイモのおかげで 当時貧困にあえいでいた農民を飢え から救ったのだ。享保の改革の頃である。

幕張では種イモ17個から2石7斗6升を収穫する成功をおさめた。その後甘藷栽培は次第に増え、天明(1783~88まで続く)・天保(1833~39まで続く)の大飢饉にも、このあたりで餓死するものは皆無であったという。その後、昆陽の徳を讃え、弘化3年(1846)12月、甘藷試作のゆかりの地を前面に望む火伏せの神を祀る秋葉神社境内に昆陽神社が建てられた そうです。

  【今回もお越し下さいまして有り難うございました】

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2007年10月 9日 (火)

140,こんな事を考えながら

既に10年以上前のことですが、定年になってヒマを持て余し気味だった私が思い付いたのが、「東北を歩いてみよう」でした。

何故か判りませんが東北地方というのが好きで、「みちのく」とか「津軽」という言葉がそうさせているのかも知れません。そんなことで「十和田湖から竜飛岬まで」を14日間かけて一人で歩いたことがありました。

その後もこの病?は治らずに長野県の「韮崎から白馬まで」、これも一人で1週間かけて歩いてきました。

そして今度は「日光街道を歩いてみよう」 という思いが沸々と湧いてきています。それは NHK・TVの「街道てくてく旅」?という番組が放送されていまして、これに触発されたのと、私の年齢を考えると「もう後がない」という焦りもあるからです。

Photo

その「日光街道」のことを羅列してみますと・・・

「日光街道(日光道中)」はお江戸日本橋を起点とし、最初の宿場は「千住」となりますが、調べてみると千住へ行くルートが2通りある事が判りました。それは浅草を経由するルートと、上野を経由するルートです。

次に日光街道は「国道4号線を北上すればよい」 と思っていましたが、旧日光街道はこの地図の黒点線のように11時方向に向かい、そして東武線の梅島駅を通る事も判りました。 何故ならその当時は荒川はまだ無く、陸続きになっていたからです。

蛇足ですが、松尾芭蕉の「奥の細道」は、深川から舟でこの「千住大橋」に着き、この千住から歩き始めたそうです。

そして北上しながら「旧街道」は4号線と合流したり、離れたりしながら続いています。これはたぶん宿場(市街地)を通るのが旧日光街道で、国道4号線はこれら市街地を迂回するように 避けて建設されたからではないかと思っています。

日本橋から日光までの距離は約150㎞、これを7泊しながら日光へ と予定していますから、1日当たりの歩行距離は最低でも18㎞/日、最高で23㎞/日を連日で歩くつもりで、今トレーニングを始めています。

なおブラブラ歩きはブログ「東京ってオモシロイ」で慣れているつもりでしたが、実際に15㎞とか20㎞を歩くのは だいぶキツイ思いをしながらのトレーニングになっています。

そしてもしもこの一人歩きが完歩できた暁には、誇らしげに祝杯を上げながらこのブログにアップするつもりです。 但し、完歩はあくまでも予定でありまして未定です。

【今回のブログはこんな内容になってしまいましたが、お越し下さいまして有り難うございました】

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