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2007年11月23日 (金)

158,日光街道一人旅(はじめに)

「日光街道一人旅」の長いブログがこれから始まりますが、例によって例の如くで「画像中心の紙芝居式」ですが、どうぞ宜しくお付き合い下さいますようお願い致します。

ここでは、各行程の事などを載せてみたいと思います。

Tokyonikkou 左図は日光街道の概略で、私が途中で宿泊したのは8ヶ所ですが、その場所を赤丸で示しました。

解説によると・・・江戸時代は徳川家康の廟所が久能山から日光東照宮に移されて、将軍の日光社参が制度化されるようになり、この街道が一段と整備された。

なお、千住~宇都宮間の17宿は奥州街道の宿駅を兼ねている。この街道の道程は、江戸日本橋から武蔵国(埼玉県)下総国(茨城県)下野国(栃木県)を通り、日光に至る21宿(23宿という説もあるようです)、約36里(約143km)の道中です。

第1日目 10/30  日本橋から草加まで 距離は約19㎞ 出発時刻は9:30、 到着時刻は15:20

第2日目 10/31 草加から春日部まで 距離は約21㎞ 出発時刻は8:20 到着時刻は16:00

第3日目 11/1 春日部から栗橋まで 距離は約25㎞ 出発時刻は8:00 到着時刻は16:10

第4日目 11/2  栗橋から小山まで 距離は約26㎞ 出発時刻は8:00 到着時刻は16:45

第5日目 11/3  小山から雀宮まで 距離は約24㎞ 出発時刻は8:30 到着時刻は16:00

第6日目 11/4 雀宮から徳次郎まで 距離は約21㎞ 出発時刻は8:00 到着時刻は16:00

第7日目 11/5  徳次郎から今市まで 距離は約21㎞ 出発時刻は8:30 到着時刻は16:00

第8日目 11/6  今市から日光まで 距離は約日光駅までが約8㎞ 出発時刻は8:30 日光駅着は11:00

日本橋から日光駅までの総距離は約165㎞(寄り道したところも含んでいます)・・・この距離は距離測定(サイト名は『きょり測』)により計ったもので、これは地図の上で歩いたコースをプロットしていくと、その区間の距離や歩数が出てくるものです。

日光に着いてから市内見物のため散策。散策距離は約6㎞

この後、日光駅15:15発「湯元温泉行き」のバスに乗車し、「湯元温泉」で完歩の祝杯を一人で寂しく挙げ、ここで泊まることにしています。 

下の画像は、車道と並行している杉並木の遊歩道です。

P1060029_2 P1060027

下の地図とノートは道中肌身離さず持っていたもので、地図はA4用紙で約70枚くらい有るでしょうか、ビニールケースに入れていつでも見ることが出来るように、或いはニラメッコしながら歩いていました。 そしてノートはその都度 場所と時間を記入するようにしていました。

P1050931 P1050930

終わったみると、呆気ない幕切れと同時に、何とバカバカしいことに挑戦してきたのだろう という思いがしてきます。何故なら帰りは「日光駅」から「東武浅草駅」まで特急で約2時間! こう考えるとやはりバカバカしいですよね

けれども腰痛(脊柱管狭窄症)のために数十㍍も歩けなかった私ですが、それが昨年の秋('06/10)に手術をしたお陰で 歩けるようになったことの悦びと満足感』 を噛みしめながら、次は何処に挑戦しようか という思いも湧いてきています。

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146,日光街道一人旅(一)

'07/10/30~11/6 にかけて 「日光街道」を お江戸日本橋から日光まで 歩いてきましたので、シリーズ物になりますがご覧いただけますと幸いです。

泊まった宿場?は、草加・粕壁(春日部)・栗橋・小山・雀宮・徳次郎(トクジラ)・今市・そして日光(鉢石(ハツイシ)で、7泊して日光へ到着しました。総歩行距離は約150㎞で、1日の歩行距離は19~25㎞/日 くらいでしょうか。

第一回は、「日本橋」から最初の宿泊地である「草加」まで を載せます。

10/31 a.m 9:30  日本橋をスタート

Nihonnbasisouka

スタートは7時方向の「お江戸日本橋」で、途中にある目ぼしい所に立ち寄り、写真などを撮りながら北上して行きます。

この日のルートは、ブログ「東京ってオモシロイ」で千住までは歩いたことがありますから、わりと歩きやすかったコースだったのですが、それから北方向は未知の土地です。

P1050630_2 スタートは午前9時30分

出発を記念?して、偶々通りかかった方に撮ってもらいました。

P1050634「伝馬町牢屋敷跡」

江戸の牢屋敷は慶長年間(1596~1615)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
面積は2618坪(8639㎡)あり、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があり、獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容因人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が収容されたこともある。と解説されています。

屋敷跡の今は寺院・小学校・公園になっていまして、公園には吉田松陰の辞世の歌碑もあります。

P1050641浅草 「浅草寺の雷門」 浅草寺の説明は省きますが、スタートしてからチョウド1時間かかって雷門を通過しました。

P1050648「小塚原刑場跡」に安置されている「首切り地蔵尊」で、南千住駅の近くにあります。 走っている電車は常磐線です。

ここは品川の「鈴ヶ森刑場」と並ぶ江戸時代の刑場跡とのこと。

P1050652 千住宿にある「一里塚跡」

ここまでの歩行時間は2時間強。

P1050664 「鷲(オオトリ)神社」

ここまで4時間歩行

P1050665 「火あぶり地蔵尊」・・・奉公に出ていた娘に母危篤の知らせが届き、主人に暇を願い出たが許されず、主人の家が焼けてしまえば母に会えると火をつけた。娘は捕縛され火あぶりの刑となった。村人は娘を哀れに思い地蔵を建てた という伝説があるそうです。

なお、この場所は処刑場だった とも言われているようです。

約5時間半経過

P1050674 草加駅前広場にあるもので、「煎餅を焼く「おせんさん」と呼ばれている彫像です・・・昔、日光街道は草加松原の茶店で、おせんさんという女性が団子を売っていました。おせんさんは売れ残った団子の処分に困っていましたが、ある日、侍が「団子を捨てるのはもったいない。つぶして乾かし、焼き餅 として売ってはどうか」とアドバイス。おせんさんが焼くこの餅 は評判を呼び、街道の名物となったそうな。

さすが「草加」は煎餅の町らしく、多くの煎餅店が店を開いています。

15時20分 草加の宿にチェックイン、歩行距離は19㎞弱、時間は約5時間50分(昼食や休憩を含む)

   【 続く 】

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147,日光街道一人旅(二)

今回は第2日目で 『草加から春日部まで』 についてです。

10/31 a.m 8:20  宿をスタート

Ksoukakasukabe 6時方向にあるのが「草加宿」で、きょうは黒点線のように北上しながら「春日部」を目指します。

歩くルートは国道4号線がメインですが、ときどき旧街道を歩きます。これは多くの方々が「日光街道のサイト」を開いているので、これを参考にしながら自分で勝手に「旧街道」と決めて歩きました。

その1例が中央に「旧日光街道」となっていますが、これは「越ヶ谷駅」手前で国道4号線から外れるルートで、たぶん「越ヶ谷宿」を通る旧街道だと思います。

P1050686 「草加の松並木」で、メインストリートはこのような歩道橋で渡るようになっています。

前方は草加市街地です。

P1050687 上のルート図では表示できなかったのですが、松並木道を外れ愛宕橋を渡ると、そこは「旧街道」とのことで途中には「馬頭観音の祠」がありました。

上のルート図では「草加一里塚」となっている辺りです。

P1050689 「清蔵院」の境内にあった野仏です。

ここは上の「祠」の5分ほど北に歩いた所にあったお寺さんです。

P1050697 越ヶ谷の旧街道で見た住宅ですが、時代を感じましたのでパチリ。

P1050719 松尾芭蕉が奥の細道を歩いた際、立ち寄ったと伝えられる春日部の「東陽寺」・・・14時頃通過

P1050741 同じく春日部にある美しく、見事な「成就院の山門」・・・14時50分頃通過

P1050725_2 春日部市内で見た一般家屋ですが、これも如何にも時代ががっています。

p.m 4:00 宿にチェックイン 歩行距離は約20㎞ 時間は約7.5時間

   【続く】 

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148,日光街道一人旅(三の1)

今回のルートは 『春日部から栗橋まで』 についてです。

11/1  a.m8時半  宿を出発

Kasukabekurihasi 6時方向にある「春日部」をスタートし、点線のように北上しながら「栗橋」を目指します。

このルート図には書いてありませんが、「権現堂堤」を過ぎると直ぐ左に入る「旧街道」があるのですが、ほぼ4号線と並行しているので記入してありません。

この辺りは関東平野のほぼ中央になるのでしょうか、周りを見ても山は見えず、街道の周囲もビルや家が建て込んでいる状態です。

P1050752_2 春日部の町のことで言い落としたことがあります。それはメインストリート周辺にはこのような彫像が点在していて、心を和ませてくれたことです。

P1050755 春日部から少し歩くと、もうこのような「日光道 道標」がありました。

P1050756 道標から更に40分ほど北上すると、「小渕山観音堂」がありましたが、この様にいかにも古い建造物というのも魅力的でした。

P1050761「馬頭院」というお寺さんの境内に建てられていた「石碑」ですがいかにも古そう。ただ碑の内容については不明です。

P1050766 「杉戸宿」の旧街道沿いにあった民家ですが、これも由緒がありそうな家屋でした。

P1050781 「幸手宿」近くの旧街道に建っていた「日光道 道標」

P1050783 「権現堂堤」の桜並木

NHKの「街道てくてく旅」でこの堤が放映された時、ここには「彼岸花」が満開でした。

    【 続く 】

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149,日光街道一人旅(三の2)

今回は 『粕壁から栗橋まで』 の続きで、(三の2)とします。

P1050785 権現堂堤から橋を渡り、すぐに左折するとこの旧街道で、国道4号線とほぼ並行していますが、ここは国道とはまるで違って車は殆ど通りません。

お断り;ルート図にこの旧街道を書きませんでしたが、ここは国道4号線とほぼ並行しているので省略しました。

P1050786 この旧街道に建っている「道標」で、ここには「右 つくば道」と彫られていまして、たぶん筑波方面への分岐点ではないのでしょうか。

別の側面にも彫られていますがよく見えません が たぶん「日光道」となっているのでしょう。

P1050799 栗橋駅の東口 左前方にある「光了寺・静御前の墓」

光了寺といっても本堂がある訳でなく、ここには「静御前の墓」が安置されていて、その前は休憩所のようになっています。

P1050798 これが「静御前の墓」と云われるもので、墓石には「静女之墳」と彫られていますが、ガラスのような物でしっかりとガードされていました。そのためか どうも写真が撮れません。

P1050810_2 「栗橋関所跡の碑」で利根川の土手にヒッソリと建っていました。

栗橋関所は日光街道が利根川を越す要地に「利根川通り乗船場」から発展した関所の一つで「房川渡中田・関所」と呼ばれていました。東海道の箱根、中仙道の碓氷と並んで重要な関所 だったそうです。

P1050803 栗橋はやはり宿場だけありまして、多くのお寺さんが在りますが、ここは「深広寺」。

この石塔は栗橋町指定文化財の六角名号塔で、南無阿弥陀仏の6文字が6面に刻まれ、全部で21基あります。1基の高さは360センチメートルで、承応元年(1657)に建てられたそうです。

P1050804「浄信寺」・・・帰命院と言う庵室を、乗譽玄徹上人が永正二年(1505年)以前に開山した寺で、その後1569年頃日譽源貞上人が当山を再興された と解説されています。

    【 続く 】

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150,日光街道一人旅(四の1)

今回は 『栗橋から小山まで』 の行程です。

11/2  a.m8:00  に宿を出発。 きょうはこの行程の中では1番長い距離を歩くことになっていて、少し緊張しています。

Kurihasioyama 画面に入りませんが。7時方向が「栗橋」、1時方向が「小山」です。

長い利根川の橋を渡ると、直ぐに左折して旧街道に入ります。旧街道は橋の袂から「古河」を通り、「一里塚跡」の手前までの区間で、赤線で表示しました。

P1050814 利根川橋から見た宇都宮線(東北線)の鉄橋ですが、朝靄なのか、曇っているのか・・・

P1050818 「光了寺」・・・源義経についての記録は多いが、愛妾“静”についての史料は甚だ乏しいのです。

義経を慕って鎌倉を出て、奥州へ向かうまでの記録は見られますが、その先は全く不明です。しかし、伝承としては、古河近辺が終焉(しゅうえん)の地とされています。奥州へと出立した静が、病いを得て遂に目的を果たせず死に至った地が古河周辺と伝えられています。
古河市内旧日光街道中田宿にある光了寺(この画像のお寺)に、宝物として静女の守本尊の蛙蟆龍(あまりょう)の舞衣(まいごろも)、義経形見の懐剣、鐙(あぶみ)など貴重な遺品数点が蔵されています。・・・事前予約すると見せて頂けるようです。

P1050817 この光了寺に建てられていた石柱ですが、やはり「静御前」と関係があるようです・・・光了寺は元は栗橋町にあり、静を葬ったので、その遺品が寺宝として保存されています。

後鳥羽院の寿永2年に大変な日照りに見舞われ、高僧を招き雨乞いをしても雨が降らないので百人の舞姫を集め次々に雨乞いの舞を舞わせ百人目の静が踊ろうとした時、天皇が静に御衣を与え、その御衣で舞ったところ、たちまち大雨が降ったという。この衣が「蛙蟆龍の舞衣」で、今も光了寺に保存されています。

栗橋駅前(JR宇都宮線栗橋駅)に静の墓があり、古河市内下辺見(しもへみ)には、義経の死を耳にし橋の上で奥州行きを思案したと言われる思案橋や、古河市水海(みずうみ)には、静結びの柳、静の椿などの遺跡があります・・・以上は古河市観光協会からお借りした解説です。

P1050826 「一里塚」  歩いていて判ったのが、大きな樹が茂っているところには神社かお寺。このように1本の樹が立っているところには「一里塚」或いは祠があるのでは と判断しながら歩くようになりました。

P1050825 上の画像の大きな木の下にはこの様な祠があり、ここもそうですが、お寺には「十九夜塔」がとても目に付くようになりました。

「十九夜塔(じゅうくやとう)」・・・小山市内では十九夜講といって,主に9や19のつく日に女の人が集まって灯明(とうみょう:ろうそく)や線香をあげ、十九夜念仏(ねんぶつ)を唱えてお産が軽くすむように祈願(きがん)しました。十九夜様は女性のための神さまとして,おもに安産を祈願するなど、女性からの信仰を集めていました。(古河市観光協会の解説をかりました)

しかしこれは小山市だけに限らず、どこの地域でもこのような行事は行われていたようです。

P1050834 古河の「長谷観音」・・・ここは古河公方(こがくぼう)足利成氏(あしかがなりうじ)が、1493年に古河城の鬼門除けとして鎌倉の長谷寺より勧請したもので、鎌倉・大和の長谷寺とともに“日本三大長谷”の一つに数えられているそうです。

P1050833 長谷観音の「ご本尊」・・・日本三大長谷のひとつで、背丈2メートルの十一面観世音菩薩立像が安置されています。

たまたま住職さんが居て、「どうぞお撮りなさい」ということで撮らせて頂きました。

    【 続く 】

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151,日光街道一人旅(四の2)

『栗橋から小山まで』 の続きで 四の2 としました。

P1050836 「古河城下高札場跡」の碑

古河市は観光に力を入れているようで、神社・仏閣はもとより、このようなところにも案内標示板(右)があり、そこにはスタンプとスタンプパッドが置いてありました(案内板の下)。

P1050838 「大聖院」古河駅前にある立派なお寺です。解説によると・・・古河公方足利晴氏が妻の兄北条氏康のために開基。古河藩家老の小杉監物、南画の枚田水石の墓、及び大日如来種子板碑等がある となっています。

P1050841 「西光寺 大仏」・・・このお寺の説明は余り無く、大仏のあるお寺 となっています。(古河駅の近くに在ります)

P1050851 「国道4号線」に立っていた標識ですが、一里塚の面影は全くありません。

それでも江戸から十七里歩いてきたわけで、感無量といったところです。

P1050854 「是より大平道」の道標・・・かつては日光への裏街道だった と言われているようです。

P1050863 「浄光院の山門」で、二階が鐘楼になっています。現在の本堂は安永4年(1775)に再興されたもので、境内には観音堂や江戸時代の石造仏などがある そうです。

この辺りから、このような二階に鐘楼のあるお寺が、時々見ることが出来るようになりました。

P1050865

「千駄塚古墳」道標・・・古墳は径70m高さ10mの円墳で2段にきずかれています。墳丘のまわりには幅20mのほりがめぐらされています。円墳としては、県内でも指折りの大きさです。古墳の上に浅間神社がまつられていることから、別名浅間山古墳ともよばれています。
古墳内部の発掘調査はされていないため、いつごろきずかれたものかはっきりとわかりませんが、6世紀ごろと考えられています と解説されています。

なお、私は古墳には行きませんでした。
P1050869小山市街地にある「持宝寺」・・・ですが、特に解説がなく、立派な二階建ての山門 とだけ記録します。

これできょうの目的地である「小山」に着きましたが、栗橋を出発してから感じたことは、道路沿いのドライブインやファミレスがメッキリ少なくなったことです。

それと「古河市」に比べて「小山市」は、どうも観光に力を注いでいる様子がとても薄いようだ を感じました。

    【 続く 】 

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152,日光街道一人旅(五)

きょうの予定コースは 『小山から雀宮まで』 の行程です。

11/3 a.m8時に小山の宿をスタート。

小山での戊辰戦争・・・1868年4月16・17日の2日間、現在の栃木県小山市で、江戸脱走の旧幕府軍(総督大鳥圭介、参謀土方歳三)と、新政府軍の東山道先鋒総督府軍(参謀板垣退助)の先鋒軍(香川敬三、有馬藤汰等)が激突してくりひろげた局地戦争があったそうです。

Oyamasuzume 今回もルート図の全てが入りませんが、7時方向がスタート地の「小山」で、12時方向が目的地の「雀宮」です。

相変わらず北上しながら歩くのですが、同じような平坦な道路と ビルと家の連続で、いささか飽きてきています。それと道が真っ直ぐなのも飽きる原因 などと勝手なことを考えながら歩いています。

P1050878 小山駅近くにある「興法寺」の山門・・・849年、慈覚大師が室の八島へ下向の際、小山荘に一宇を建立し妙楽院と号したのが始まりと伝えられ、940年、藤原秀郷が小山城内に移し、徳王山妙楽院興法寺と号したという ことです。

上記の戦争は、やがて宇都宮攻防戦、会津戦争へと伸張していきますが、このお寺境内にあるお地蔵様の砲弾痕は、この戦争の時に生まれたものと言われています。 私はこのお地蔵さんのことを知らなかったので見落としてしまい、残念でなりません。

P1050887 天翁院・・・小山市は鎌倉時代、鎌倉幕府の有力武家 藤原秀郷流 小山氏の居城である祇園城(ぎおんじょう)の城下町であった。小山一族はここに眠っている とのこと。

P1050895 「小金井一里塚」・・・江戸時代の五街道のひとつである日光街道沿いにつくられ、江戸(東京)日本橋から22里(約88㎞)の地点にあります。二つの塚がほぼ完存していることなどから、日光道中で唯一国指定史跡に指定されています。

(蛇足ですが、逆光で撮ってみました。)

P1050897 「慈眼(ジゲン)寺」の山門・・・古く上野の豪族新田一族の祈願所であり、徳川将軍の日光社参の休憩所として有名であったという。
境内の観音堂と鐘楼は江戸時代のもので、華麗で品格があるといわれている そうです。

P1050898 これが江戸時代に建立されたと云われる「観音堂」です。(慈眼寺境内)

P1050899 同じく江戸時代に建てられたと言われる「鐘楼」です。

P1050905 「旧街道」 と言うことなのですが、畦道のようなのでどうも信じられません。けれどもここを数十㍍歩くとこの先は細い道ですが舗装されていました。

色々な方の「日光街道歩行記」を読んでも、この場所のような所が紹介されていたので、たぶんここで良いのだろう と信じて歩きました。

P1050918 石橋宿の「愛宕神社」では秋祭りでしょうか、ちょうど「お神楽」が演じられていて、出し物?は「「天の岩戸」らしく、天手力男神(アメノタジカラオノカミ)が熱演していました。
神楽殿の前では子供達が袋を持って、振る舞われるお菓子が撒かれるのを待っています。

P1050928雀宮駅近くで発見した「100㎞標識」 

私には 『高が標識 然れど標識』

   【 続く 】

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153,日光街道一人旅(六)

きょうの行程は 『雀宮から徳次郎(トクジラ)』 までで、宇都宮を通過して行きます。

11/4 a.m8時に宿を出発。

ここで蛇足ですが・・・「戊辰戦争での宇都宮城の戦い」 について 『慶応4年(1868年)に伝習隊などの旧幕府軍が下総市川国府台から日光会津へ撤退する途中に起きた戦いで戊辰戦争の戦闘の一つ。日光の寺社群が戦火に巻き込まれることを回避した結果、決戦の舞台が宇都宮となった。この戦いの結果、宇都宮城をはじめ、宇都宮城下の歴史的建造物はことごとく失われた』 そうですが、宇都宮のお寺を巡ってみると、戊辰戦争で戦死した人たちのお墓が多くあるようです。

Suzumetokujira 6時方向が「雀宮」で、ここから北上し、「宇都宮」に点在している寺院を巡り、11時方向の「光明寺」を通り、「日光街道」から西方向にそれて「ろまんちっく村 温泉館」がゴールの予定です。

蛇足ですが、「徳次郎」と書いて「トクジラ」と読み、日光街道の宿場だったのですが今は宿泊する所が無いようなので、この「ろまんちっく村温泉館」に決めました。

P1050941 「報恩寺」・・・寛永16年(1639)奥平家昌の正室による開山といわれるお寺で、画像の山門は江戸時代初期の茅葦の山門だそうです。

また境内には、宇都宮氏の墓碑と見られる古い五輪塔や、戊辰戦争で戦死した官軍の薩摩戦死者墓や長州大垣諸藩の「戦死烈士之墓」がありました。

P1050935宝蔵寺およりの鐘」・・・宇都宮氏が寄進したといわれ、市の文化財に指定されています。

名前の由来は、お休みの意味もあるそうですが、一説には鐘の音が一里四方に聞こえたからとか、身分の高い人が「お寄り」になった時に撞いたから との説があるようです。

このお寺も、山門の二階が鐘楼になっています。

P1050961 「蒲生君平の墓」(桂林寺)・・・中央の樹の右下にあります。

明和5年 ~ 寛政10年 (1768~1813)生家は下野国宇都宮の燈油商で、父の名は福田正栄という。父の没後、兄が家業を継いだ。君平は自ら経史を学び、鹿沼石橋町の儒者・鈴木四郎兵衛(沢民)に師事。幼い頃、祖母より蒲生氏郷の庶族なることを教えられ、長じて自ら姓を蒲生と改めた。
荒廃した歴代天皇陵を調査して、1808(文化5)年著わした「山陵志」は幕末尊王論のさきがけとなった。

また、前方後円墳が「車塚」の名称で呼ばれていることに注目し、古墳を横から見た形を貴人の乗る屋形車に見立て、引く部分を前方、車の部分を後円とし「前方後円墳」と名づけた と言われているそうです。

P1050962 街道沿いに建っていたいかにも古そうな商家。

P1050964_2 道路の両側に建ち並んでいたビルや家が、或る交差点を過ぎると突然このような並木通りになり、変化が出てきて嬉しくなってしまいました。

P1050971 「光明寺の山門」・・・江戸時代は、日光御成街道が通じ人通りも多く、また幕府直轄領であり、宇都宮宿と徳次郎宿の中間に位置しているため、徳川家墓参時大名の休憩所としての役割もはたした そうです。

またこのような話しも伝わっているようです・・・源義経を慕い奥州下向の静御前が休憩され、守り本尊(薬師如来)を土中に納めて、塚を築き、携えた桜の杖を挿して武運を祈った。
後にこの杖に根が生じ大木となり珍花を咲かせたので、これを静桜、桜本薬師さんと呼んで信仰を深めた。今の桜は12代目、薬師如来は秘仏として、安置されている とのこと。

このお寺の山門に入ると、お経でもなく、お詠歌でもないような「得も言われぬ」ものが聞こえてきまして、聴いていると何故か気持ちが落ち着いてきましたので、山門の中のベンチに腰を下ろし 暫く聴き入ってしまいました。

P1050969 この境内に建立されている「ボケ封じ観音」があったので、ボケ防止とコロリと逝くようお願いをしました。が、観音様に縋り付いているお年寄りを見ると身につまされてしまいます。

P1050975 杉の木が現れてきて並木になってきました。 この細い路は車道と並行している歩道です。

P1050985 「ろまんちっく村の駐車場」・・・この施設の事業目的は 農林業振興の拠点、②農林業体験の場の提供
緑・花・自然とのふれあいの場の提供、温泉保養・食と健康づくりの場の提供 

とのことですが、まぁ今流行りの温泉ランドのようなものと思いますが、宿泊設備は良く整備されていて、とても満足しました。

          【 続く 】

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154,日光街道一人旅(七の1)

きょうの行程は 『徳次郎から今市まで』 で、歩きたかった杉並木にいよいよ入るはずです。

11/5  a.m8時30分 宿をスタート

Tokujiraimaichi 日本橋から北上してきた道は、この辺りからコースを西方向に変え、そして杉並木と集落が交互に現れてきました。

P1060006 小高い塚の上に建つ「一里塚の碑」

P1060003 上の一里塚と日光街道を挟んで在った、名もない「野仏」

P1060011 「コーヒーブレイク」で立ち寄ったケーキ屋さん。

P1060012 この店に飾ってあった「NHK・TVの日光街道てくてく旅」のスナップで、この店に立ち寄って休んでいったそうです。

主演?の四元さんはだいぶお疲れ気味。

P1060017 「杉並木の寄進碑」・・・日光杉並木の石碑寄進した松平正綱は天正四年(1576)生まれ。
十七歳で家康側近に仕え後年大名になった。家康に心服し、遺体が日光山に改葬される時は葬列に加わり、二代将軍の日光参拝の時は供を務め、日光山大火の後始末にも功績をあげ、慶安元年(1648)に没した。七十三歳。家康三十三回忌の年であった。

正綱はなぜ杉並木を寄進したのか。今市市歴史民俗資料館の半田慶恭館長は「家康公が眠る東照宮の参道を厳かな雰囲気に包み、神君の権威を高めようとしたのでしょう。参拝者が安らぐ街道整備の狙いもあったと思う」という。東照宮もおなじような見解だ と解説されています。

P1060023 杉並木・・・日光街道杉並木日光・例幣使・会津西の三街道の全長37kmの両側にわたって約13,000本の杉がそびえる「日光杉並木街道」。
世界一長い並木道としてギネスブックにも載っているこの杉並木は植栽されてから、もうすぐ390年が経とうとしています。
現在日本で唯一、特別史跡と特別天然記念物の二重指定を受けている貴重な文化遺産であり日光市が世界に誇る「郷土のシンボル」
です。
杉並木は、家康の家臣・松平正綱が日光東照宮に寄進するため植栽したもので、
寛永2年(1625)頃から20年余りの歳月を費やした一大事業でした。植栽された杉は約20万本と推定されます と解説されています。

P1060028 中にはこのような杉もありましたが、雷が直撃したのでしょうか。

   【 続く 】

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155,日光街道一人旅(七の2)

(七の1)の続きで、徳次郎から今市 に向かう続きです。

P1060030 杉並木の中に在る「来迎寺」の野仏たち

P1060031 この杉並木には車が走っていませんが、場所によっては道路が二股に分かれていて、車は2車線道路を走るので、このような車の走らない空間が出来ています。

P1060035 「さくらすぎ」・・・杉の割れ目に桜の種が落ちて芽が出たもので、1本の木のようになっていて春には桜の花を咲かせるそうです。

P1060041 「七本桜一里塚」に立っているよく写真で見かける並木ホテル杉がある。
この杉の空洞に近づいてよく見ると確かに大人4人が入れそうな大きな広さで、このため「ホテル」と呼ばれるようになったという。なおこの塚は特別史跡、特別天然記念物の両方に指定されているそうです。
私が背負っているザック(高さは約50㎝)を傍に置いてみました。

P1060046 「今市の追分地蔵堂」・・・日光街道と例幣使街道の分かれ道に祭られていることから、追分地蔵と呼ばれています。このお地蔵様には、日光の含満ケ淵の親地蔵や源頼朝の奥州征伐にかかわる話など多くの伝説が残されています。

いつごろのものか年代はわかりませんが、江戸時代の8代将軍吉宗の日光社参の時にはお地蔵様にかかわる話があることから、それ以前からあったらしいとのこと。

画面の左側は日光街道、右は「例幣使街道」で、ここでY字形に合流しています。

P1060050 「追分地蔵尊」・・・石でできた座ったお地蔵様としては北関東一の大きさで、市の文化財に指定されている そうです。高さ約2㍍、重さ約8トン

追分地蔵の伝説・・・石屋が大谷川で石を採掘していました。大きな石に、鑿(のみ)を入れたところ、大きな石から、なんと血が流れ出てきました。ビックリした石屋は大きな石を掘って見ると、それは大きな大きなお地蔵さまだったのです。

そのお地蔵さまを、今市の町の中心にあるお寺(如来時)に祀ったところ、夜な夜なお地蔵さまが泣くではありませんか、そのうち町に疫病が流行ったりと、悪いことが続くので
これはきっと、お地蔵さまが日光から流されて来てとっても、とっても、日光が恋しくて泣くのかもしれない とお寺さんから場所を移し、日光街道と例幣使街道の分かれ道へお地蔵さまのお顔を日光へ向けて祀りました。

日光が見えるようになったお地蔵さまは、それからは夜泣く事がなくなりました。それ以来、今市には悪いことも起きず現在に至っているそうな・・・

P1060051 これが合流してくる「例幣使街道」・・・徳川家康の没後、金幣を奉納するために京の勅使が東照宮に向かう際に通った道である。中山道の倉賀野宿を起点として、楡木(にれぎ)宿にて壬生通り(日光西街道)と合流して日光坊中へと至る のがこの街道だそうです。

こんなオモシロイ話しも・・・禄の低い公家が例幣使であったことから道々金品を強要したり、籠をゆすってワザと籠から落ち 金銭を要求したといいます。このことから金品を要求することを「ゆする」と言うようになった そうですが、真偽は?です。

     【 続く 】

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156,日光街道一人旅(八) 

きょうは日光街道一人旅の最終日で 『今市から日光まで』 です。

11/6 a.m 8時30分に宿をスタート。 明け方まで降っていた雨も止んだようで何とラッキィなのでしょうか。

Imaichinikkou_2 もうここまで来れば「日光」は近く。今回の一人歩きでは1番短い距離を歩くだけです。

P1060058_2 「二宮報徳神社」

P1060056_2 報徳神社の社殿裏にある「二宮尊徳の墓」今市市の解説によると・・・二宮尊徳翁は天保13年(1842)56歳の時に幕府の役人に登用され、2年後に日光領仕法の計画を命じられました。
当時の日光神領は田畑は荒廃し、農業経営が成り立たない「潰れ」が多発する状況でした。このような状況から復興させるために、日光領仕法が行われたのです。
実際に仕法が行われたのは嘉永6年(1853)から尊徳翁が亡くなり、その遺命を息子の弥太郎が受け継いだ15年間です。

P1060064_2 「如来寺の本堂」・・・江戸時代には東照宮を造った第3代将軍家光が宿泊するために壮大な御殿が境内に建てられました。また、安政3年(1856年)には二宮尊徳翁が亡くなったときに、葬儀が行われた寺でもあります。

報徳神社の直ぐ傍に在りました。

P1060094_2 「杉並木公園」の中で動いている直径10メートルという水車

P1060098_2 「月蔵寺」の小坊主さんたち

P1060045 「杉並木」ですが、車の乗り入れが禁止されている箇所もあって、所によっては石畳の遊歩道になっていました。

P1060101_2 戊辰戦争の時、砲弾を受けた「弾痕杉」で、左側の幹で縦に裂け目が付いている・・・今から133年前の戊辰の戦いに官軍の大砲の弾丸が当たった「砲弾打込杉」が残っている、この周辺の倒木を調査すると時折り鉛の弾が発見されることがあり、この周辺は幕府軍との激戦区だった とのことです。

杉並木を歩いていると、このような大木もありました・・・日光並木太郎=杉並木のなかで、もっとも大きく美しいといわれる。
並木の中で一番大きな杉であり周囲 5.53m 樹高 38m
姿美しく端正なことにより「並木太郎」というにふさわしい名木 と紹介されてます。(画像は省略)

P1060109_2 「異人石」・・・明治の頃、杉並木を愛した外人が居て、この石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日この椅子に座って杉並木を鑑賞していたそうで、異人石と呼ばれているそうです。
この異人は・・・エルウィン・ベルツ(1849-1913年)。1876年(明治9年)に東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師としてドイツから迎えられ、内科学、生理学、病理学、婦人科学の教授を務めました。「日本医学の父」と称され、教授の傍らツツガムシなどの寄生虫学、脚気、温泉の効用などの医学研究の他に人類学、民俗学でも業績を残しています。また、帰国までの30年間、明治・大正両天皇の侍医をつとめています。という説もありました。

P1060111_2

11/6 a.m11時 「日光駅」に到着。

自分では「疲れていない」と思っていましたが・・・

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157,日光街道一人旅(九)

日光駅まで来ましたが、これから最終地点の「東照宮」へ行き、そのあと日光見物して歩きます。

P1060126_2 「神橋」・・・日光二荒山神社の建造物で国の重要文化財、平成11年世界遺産に登録されました。 

奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋=現在の隣にある車道がそうです)を架けて通行してきました。

今は渡り切ることは出来ませんが、200円出せば橋の上に立つことが出来るようです。