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2007年12月31日 (月)

161,向島・浅草界隈(その1)

「東京ってオモシロイ」のネタ探しに、年末の「向島・浅草界隈」を散策してきましたので久し振りに更新します。

Mukoujimaasakusa_21時方向から7時方向に流れているのが「隅田川」で、7時方向にある「浅草駅」からスタート。

右岸の「隅田公園」から神社やお寺さんのある所を北上し、「桜橋」を渡って「今戸神社」から南下しながら「浅草寺」を抜けて「浅草駅」までのコースです。

なお、この周辺は見所が多いので、このブログも連載になってしまいそうです。

P1010033 「浅草駅」から「雷門」に出ると直ぐに目に付くのがこの人力車。

値段はよく判りませんが、2人乗り/30分コースで8000円位、2人乗り/1時間コースで15000円位らしいです。

P1010034 浅草駅から隅田川を渡る橋が「吾妻橋」 その橋の上を颯爽と歩いていたのが如何にも下町のオバチャン。 失礼でしたが後ろから撮らせてもらいました。

P1010008 吾妻橋の傍に建っているのが「勝海舟銅像」、礎石標示板には「勝安房」となっていますが、仲々のイケメンです。

ただ何故ここにこの像が在るのかは判りませんが、1、生まれがこの近く(両国)だから。 2,この像の傍に「墨田区役所」が在るから なのでしょうか。

P1010041 「隅田公園」この築山の向こう側が隅田川になっていて、 ♪ 春の麗らの隅田川・・・ の舞台です。

この公園は、水戸徳川家の下屋敷・小梅御殿が在った跡で、当時約2万坪の敷地だったそうです。もちろんサクラの名所としても有名で、春になると花見客で賑わうのでしょう。

P1010009 「牛島神社(牛嶋神社)」・・・本所総鎮守の社として知られています。
本殿前には全国的に珍しい三輪鳥居(三つ鳥居)と「狛牛」があります。

P1010010 牛島神社境内に安置されている「撫で牛」・・・自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなで ると病気がなおるという信仰で体だけではなく、心もなおると いう心身回癒の祈願物である。 奉納したよだれかけを子どもにかけると健康に成長するとい う伝えもある そうです。

P1010052 墨田公園内のある「釣り堀」ですが、利用料は30円也! 但し、釣り竿やエサなどはないので持参が条件だそうです。

   【 続く 】

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162,向島・浅草界隈(その2)

隅田公園は隅田川に沿って細長く続いていまして、釣り堀から更に北上しながら歩きます。

P1010025_2 「三囲(ミメグリ)神」・・・社殿は震災や戦災にも無事で、幕末安政年間(1854~59年)の建築と伝えられる由緒あるものだそうです。
三囲(ミメグリ)の由来は、社を改築しようとした時、土の中から白狐にまたがる老翁の像を得、白狐がこの像を3回廻ったところから三囲の名が起きたといわれている そうです。

P1010019三柱鳥居。京都の木島神社にあるものが有名な全国的にも珍しい鳥居で、その名の通り柱(六角形?)が3本あり、三方向から見てもちゃんとした鳥居の形に見える面白い鳥居です。
前に立っていた立て札には「京都三井家にあったもの」とあり、鳥居の中心には井戸があります。

P1010017 ニッコリしている狛犬? 狛狐?ですが、この様な顔は珍しいのだそうです。

なお、この神社境内は狭いのですが、多くの歌碑などが在りますので、ご興味のある方には嬉しいのではないでしょうか?

「弘福寺」への道すがらですが、正月飾りに忙しいそう。

ここは料亭のようですが、いつでも正月が迎えられそうです。

P1010026 P1010027

P1010053 「弘福寺本堂」・・・延宝二年(1674)に鉄牛和尚によって開かれた黄檗宗の寺で、本尊は恵心僧都作の釈迦如来像。
本堂の屋根に特徴があるのは、この寺は鳥取藩池田家旧菩提寺でもあるそうです。

P1060900_2 弘福寺境内に安置されている像で、寛永年問(1624~44)に、風外(ふうがい)和尚が真鶴山中で修業中に、父母に孝養を尽せぬことをいたんで刻んだものと伝えられてますが、後にこの弘福寺に移されました。

風外の両親の像だから風邪にも強かろうと、爺像は喉頭の病に、婆像は咳止めにご利益あるとして、今でも風邪除けの信仰を集めているそうです。

P1010059 格好の良い「弘福寺山門」・・・山門は京都宇治の万福寺を模したもので、勝海舟も青年時代にこの寺で参禅した そうです。

付記・・・勝海舟はここから近い両国駅近くで生まれましたが、その生誕の碑が両国にあります。

P1010035 「長命寺本堂」・・・宝寿山長命寺は元和元年に宝樹山常泉寺という小庵でしたが、徳川三代将軍の家光公が鷹狩りの折りに腹痛を起こし、住職の差し出した井戸水で薬を飲み快癒、以後、長命寺と改号し現在に至っているそうです。

P1010039 「長命水井戸」・・・ここの井戸水を飲んでおさまったことから長命水と名づけられ、後に寺名となったということで、境内には長命水の石組みが残っています。

残念だった?のは、本堂もこの井戸も新しく建てられたようで、趣がイマイチ感じられないことでした。

     【 続く 】

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163,向島・浅草界隈(その3)

Mukoujimaasakusa 「弘福寺」の隣り合わせにあったのが「長命寺」ですが、長命寺と言えば有名な「さくら餅」の店(左)があり、そして通りを挟んであるのが「こと問い団子」の店(右)があります。

「桜橋」を挟んで「常夜灯」「竹屋の渡し跡碑」「今戸橋橋柱」そして「花の碑」などが点在しています。

P1060906P1010061

P1010043 「常夜灯」・・・牛島神社の常夜燈として建立されたが、これを残して神社は昭和7年現在の隅田公園に移転した。

江戸時代、隅田川を往来する船はこの常夜燈を目あてにかじをとったという。

P1010048 「竹屋の渡し跡碑」・・・「向島の渡し」とも言われ、待乳山聖天のふもとにあったことから「待乳(まつち)の渡し」とも呼ばれたとのこと。「竹屋」の名は付近にあった茶屋の名に由来する そうです。

この周辺近くには、「今戸橋跡」や「花の碑」などが点在しています。

P1010052 「今戸橋の橋柱」・・・今戸橋は待乳山聖天の裏側にあった橋で、ここには「山谷堀」が流れていたのですが、今は暗渠になって橋柱と欄干の一部が残っています。

ルート図に青点線が11時方向に延びていますが、これが「山谷堀」があったところで、少し先には「新吉原」がありました。

P1010055 ♪春の麗らの隅田川・・・ でお馴染みの「花」(武島羽衣 作詞・滝廉太郎 作曲)の歌詞碑

P1010067 正月の準備も済ませた 「今戸神社」・・・今戸神社は元今戸八幡宮でした。京都の岩清水八幡宮を勧進したお宮なのです。昭和になって近くの白山神社と合祀して名を『今戸神社』と改めたのです。
江戸時代には、この今戸辺りは料理屋が立ち並び、文人風流人が集まる風雅な土地柄でした。今戸神社境内(当時は今戸八幡宮)は都鳥と花の名所で知られ、梅が見事だったといいます。しかし、戦災で焼けてしまい、旧跡は残っていないそうです。

P1010068今戸神社境内にある 「沖田総司終焉の碑」と「今戸焼発祥の地碑」

沖田総司・・・近藤勇斬首から2ヶ月後、近藤勇の死も知らずに亡くなった。 辞世の句は「動かねば闇にへだつや花と水」とされる。墓所は、東京都港区元麻布三、専称寺ほか。

なお、没時年齢については沖田家累代墓碑の24歳、沖田家文書の25歳、『両雄士伝』(小島鹿之助)における上洛時の年齢(22歳)から計算した27歳の3説が存在する。また、終焉地も千駄ヶ谷のほか、今戸(台東区)説もあるが、現在では、今戸に一時逗留した後に千駄ヶ谷に移り、そこで亡くなったとする説が有力  だそうです。

今戸焼き・・・今戸炊が素朴だといわれているのは、それが福助や招き猫、たぬきの腹鼓といった人形や、蚊遣りのぶたなどの庶民的素材を扱っているからばかりではない。たとえば、これらの人形のうしろにつけられた大きな切り込み。それは、そこに火種を置いた江戸の人々の生活の名残りであることを見逃してはならない と解説されています。

        【 続く 】

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164,向島・浅草界隈(その4)

今戸神社から少し下がると「待乳山(マツチヤマ)聖天」があります。

P1010063 「待乳山聖天本堂」・・・関東三聖天のひとつ待乳山聖天は浅草寺の子院である。縁起によると、推古朝の3年(595)に突然待乳山が盛りあがり、金龍が天下ってこの山を守ったというから浅草寺創建より古い。待乳は真中知(まつち)に通じ、その事から土師真中知の墓所かともいわれる。
本尊は聖天歓喜天で、夫婦和合の御利益がある。

P1010059 この神社のトレードマーク?・・・健康と和合の象徴である「二股大根」で、文政年間に新吉原神楽講中が奉納したもの だそうです。

P1010058 このように石段にもトレードマークが施されています。

左は巾着は財宝を表し、商売繁昌に通じ、いずれも尊天さまの御利益を願ってのものとされている そうです。

P1010057 初詣を待つ「待乳山聖天」

「大根まつり」・・・大根は清浄、淡白な味わいのある食物としてすべての人に好まれ、しかも体内の毒素を中和して消化を助けるはたらきがあるところから、聖天様の「おはたらき」をあらわすものとして尊ばれ、聖天様のご供養に欠かせないお供物とされています。
 私たちはそのお下がり(おさがり)を頂くことによって、聖天様のお徳をそっくり頂戴し、身体と、心の健康を得ることが出来る ということで、 1/7午前11時から2000食 風呂吹き大根が振る舞われるそうです。

P1010061 車夫さんから「待乳山聖天」の説明を熱心に聞いている「ギャルズ」。

P1060899 姥ケ池跡碑・・・昔は隅田川に通じた大池で、明治24年に埋め立てられた。 姥ケ池の伝説は、浅茅ケ原の一軒家に老女と若い娘が住んでいて、道行く旅人を家に泊めてはその頭を叩き殺していた。それを知った浅草観音は旅人に変身してその家に泊まり、老女は例によって旅人をしとめるが、なんと殺したのはわが娘であった。なげき苦しんだ老女は仏眼を開き、大きな竜となって池の中へ消えていった。その池は花川戸公園辺りに位置し、園内には人工の池が作られ、碑もおかれている と説明されています。

P1010084 「迷子しらせ石標」・・・江戸時代、仁王門前に安政7年(1860)に建てられた物の復元で昭和32年建立(ですからまだ新しい)。 江戸時代には至る所で目にした迷子しらせ石標も、現在では菊屋橋の永見寺と湯島天神境内、そして浅草寺のものだけとなった。 この石標は正面に「南無大慈悲観世音菩薩まよひこのしるべ」と書いてある通り、迷子や尋ね人の掲示板の役割を果たした。石標の左側には「たずねる方」と刻まれている。迷子や尋ね人を探す方の人はここに貼り紙をして知らせ、右側の「しらす方」では、心当たりの方が知らせるようになっていた。裏には「安政七年庚申歳三月建、施主新吉原松田屋嘉兵衛」とあるように、安政の大地震による廓の犠牲者の慰霊碑 と解説されています。

この「迷子しらせ石標」は、お江戸日本橋の傍にある「十石橋」の袂にもありまして、これは復元されたものではなく、江戸時代のままだと思います。

P1010083 浅草寺境内では、「正月飾り」の店も準備を始めていました。

   【 続く 】

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165,向島・浅草界隈(その5)

今回は「浅草寺境内とその周辺」のことをお話ししようと思います。

P1060891 浅草寺境内のパノラマです。

P1010074_2  だいぶ日も西に傾いてきた境内のスナップです。

P1060876 「伝法院」・・・建物のうち、客殿.玄関.使者の間.大台所の一部は、安永6年(1777)の建物である。大名屋敷を思わせる立派な門構えで、玄関上の瓦には菊の御紋が入っているそうです。 但しここへは立ち入ることが出来ません。

蛇足・・・「伝法肌」とはその昔、ここの門番が住職法親王様の威光を頼んで無茶なことをしたことから、粗暴な振る舞いをする悪い意味でしたが、その後転じて男伊達(おとこだて)のある気風(きっぷ)のいい者を指して「伝法肌」と言われるようになりました。

この右方向が浅草寺になり、左手に「伝法院通り」があります。

P1060887 伝法院境内の「池」・・・建物の背後には、大泉池を中心とする廻遊式庭園があり、江戸時代初期の築造といわれ、池畔には、至徳4年(1387年)在銘の梵鐘や京都表千家の不審庵を模した茶室天祐庵がある(非公開です)。

P1060874 「伝法院通り」の入口です。

「江戸まち・伝法院通り」の解説によると・・・約200メートルの伝法院通りには、名所や見どころがたくさんあります。
中には、通りを散策しながら見つけだすポイントや職人さんたちの熟練した「技」にうなるポイントなど、歩くだけではもったいない見どころ満載 となっています とのことですが、確かにオモシロイものがあります。

P1060880 屋根の上には「鼠小僧」が居たり

P1060884 「火事と喧嘩は江戸の華」などと言われますが、江戸の頃には大変火事が多くあり、浅草寺の本堂もこの頃何度も焼失してしまっています。
街中のあちらこちらに火の見櫓が見られたのも江戸の風景のひとつ だそうです。

P1060886 「番屋」が在ったりですが・・・

P1060871これが 究極の「浅草の風景」ではないかなぁ と思いましてシャッターを押しました。

【今回もお越し下さいまして有り難うございました】

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2007年12月 4日 (火)

159,小石川後楽園(東京)①

先日('07/11/7)行ってきた奥日光では「紅葉はもう遅い」、とのことで残念に思っていましたが、ある時「東京の紅葉がキレイ」ということを知りました。

こんな事で思い立って '07/12/1 に行ってきたのが「小石川後楽園(東京)」でした。

Photo 6時方向にあるのが「水道橋駅」で、「小石川後楽園」は少し左上にあり、入口は一ヶ所で赤丸を付けました。

この周辺は見所が多くあって、散策には好適と思いますので、「後楽園」に入る前に、この近くのご紹介をしようと思います。

Photo 10時方向にある「伝通院」には徳川家康の生母お大の方をはじめ、千姫・孝子(家光夫人)などの女性たちを葬る徳川将軍家の菩提寺である。寺名はお大の方の法名伝通院殿によっているそうで、大きな墓石が多くあります。

Photo_2 伝通院の前の道路を挟んである幼稚園の園庭には「せき止め地蔵」。首に唐辛子のレイ?を掛けています。

Photo_3 地図の中央に戻ってくると、「こんにゃく閻魔さま」が安置されている「源覚寺」がありますが、今は立派なお堂が出来ていてその奥に鎮座していますので、残念ですがこの様に近くから拝むことが出来ません。 この境内には、全身が塩で埋もれた「塩地蔵尊」もあります。

Photo_4 12時方向には「樋口一葉終焉の地碑」・・・下谷区竜泉からこの地に明治27年9月より移り明治29年11月死去するまで鰻屋の離れに住んだ。
この地では樋口一葉の代表作である『にごりえ』のほか『大つごもり』『たけくらべ』『ゆく雲』『十三夜』『ゆく雲』など代表作が執筆され、この地で住んだ時期を”軌跡の二年”とも言われているとのことです。

Photo_5 ほぼ中央には「本郷菊坂」があり、ここには樋口一葉の旧居跡があります。一葉の父が亡くなり、母妹と女3人暮らしの借家住まいで、洗い張りや縫い物などの内職を主体にした苦しい生活をしていたが、士族としてのプライドを保っていたという ことです。

Photo_6 同じく「菊坂」にある、樋口一葉が通ったといわれる「伊勢屋質店」・・・一葉一家が生涯通い続けた質屋といわれている。万延元年創立の旧伊勢屋。

昭和57年に質屋業は廃業しているがいまだに当時の面影を残していて、木造店舗跡は登録文化財だそうです。

Photo_7 樋口一葉が幼少時代を過ごしたところで、この「法真寺」のとなりに樋口家の屋敷があったそうです。4才から9才迄住んでいて、屋敷内には大きな桜の老木があり、晩年「桜木の宿」と呼んで懐かしんだそうです。

このお寺の裏には「一葉記念館」があり、予約すれば見せて頂けるようです。

Photo_8 法真寺の前の本郷通りを挟んであるのが「東大の赤門」、そこを入っていくと低くなった所には「三四郎池」があります。

「小石川後楽園」の周辺紹介になってしまいましたが、後楽園のモミジについては、「続き」としてお話ししたいと思います。

    【 続く 】

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160,小石川後楽園(東京)②

「小石川後楽園」の解説によると・・・水戸徳川家ゆかりの回遊式築山泉水庭園(史跡・名勝)。
1629年(寛永6)、初代藩主・頼房[よりふさ]が築いた庭園を、2代光圀[みつくに](水戸黄門)が改修して完成させた。
7万平方m以上の広大な園内には、蓬莱島[ほうらいじま]と徳大寺石を配した大泉水を中心にウメ、サクラ、フジ、ハナショウブなどが植えられ、四季を通じて情緒豊かな景色が広がる。渡月橋、屏風岩、通天橋といった、日本各地と中国の名勝を模した岩や橋もある となっています。

ここでは画像だけを載せ、説明は省略します。 (なお、画像をクリックすると拡大します)

P1060514_3 P1060535

P1060595 P1060602

P1060610 P1060615

P1060529_3 P1060549

P1060624 P1060568

 【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】

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