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2008年1月31日 (木)

169,駒込・王子界隈(その1)

'08/1/26 駒込駅から王子駅まで散策してきましたので、今回はその時のことをお話ししたいと思います。

Ohji地図からは外れていますが 右下方向が「駒込駅」で、そこからスタート。11時方向に向かうと、曲がり角にあるのが「旧古河庭園」、通りを挟んだ斜向かいには「平塚神社」。 更に11時方向へ向かうと「一里塚」右折すると「七社神社」があります。

ここはもう飛鳥山に近くで、「渋沢史料館」と「妙見寺」が向かい合わせの位置。

王子駅を過ぎ、12時方向に少し歩けば「装束稲荷」があり、「王子稲荷」の隣には「名主の滝公園」。

王子駅の方に戻れば「王子神社」の下に「音無渓谷」があります。

P1070236 駒込駅の傍にあった蕎麦屋ですが、ここ駒込は「染井の里」と呼ばれていて染井さくらの発祥の地だそうです。

P1070242「旧古河庭園」・・・旧古河庭園は明治の元勲・陸奥宗光の邸宅を、古河家が所有し完成させたという和洋折衷の庭園です。
一般に開放されたのが昭和31年4月30日から。  面積は30,780.86平方メートルと、東京ドームの0.7倍。
入園料は150円、65歳以上は70円

P1070244 「平塚神社 参道」・・・平塚神社は平塚城跡だそうで、中世の豊島郡一帯に大きな勢力を張った、豊島氏の居城といわれています。
栄華を誇った豊島氏と平塚城も、文明10年(1478)太田道灌に攻められ落城したそうです。
東京とは思えないような静かな佇まい。

境内は「駐車場」として貸し出しているのでしょうか、参道には車がビッシリと並んでいました。

P1070249 社殿の裏に建っていた「甲冑塚」・・・社殿の裏には源義家から鎧を賜り、それを埋めたという甲冑塚があります。

「武略神に通じ、騎射神の如し」と謳われた平安末期の英雄である八幡太郎源義家公と二人の御弟を元永年中(1118年)よりお祀りしている。(ただし、この「甲冑塚」はご神体である為、非公開とのこと。 とは知りませんでした)

P1070250 「西ヶ原一里塚」・・・西ヶ原一里塚は、江戸の日本橋から日光まで続く「日光御成道(日光街道とは違うルートですが、幸手宿で合流したそうです)」の二里目の一里塚です。

この一里塚は、徳川時代に設置されたままの旧位置を留めている都内で唯一の一里塚です。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功しました。大正11年3月8日には、国指定史跡に指定されています。

P1070254 「七社神社」・・・説明によると、江戸時代には西ヶ原村の鎮守で、無量寺境内の高台、現在の旧古河庭園内にありました。 明治初年に、神仏分離により現在の地に移されたそうで、七社神社前遺跡からは、原型をとどめた古代人のブレスレット・鉄釧 (てつくしろ 北区指定有形文化財。北区飛鳥山博物館蔵)が出土した、となっています。

P1070257 七社神社の境内には、旧古河邸の古河家寄贈の孔子と孟子の石像があります。

    【 続く 】

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170,駒込・王子界隈(その2)

P1070259 西ヶ原一里塚から少し北上すると「妙見寺」があり、何の変哲もないお寺さんでしたが、若いお嬢さんがお地蔵さんにお参りをしていたので撮ってしまいました。

P1070263_2 P1070261

「渋沢史料館」・・・日本の近代経済社会の基礎を築き、生涯「道徳経済合一説」を唱え、実業界のみならず社会公共事業、国際交流の面においても指導的役割を果たした渋沢栄一[1840(天保11)~1931(昭和6)年]の全生涯にわたる資料を収蔵、展示しています。
1998(平成10)年3月増設、開館した史料館本館に隣接する旧渋沢庭園は旧渋沢邸の一部で、国の「重要文化財」に指定された大正期の2つの建物、「晩香廬(右)」と「青淵文庫(左)」が庭園とともに当時のままの姿で残っています。

P1070266 P1070267「飛鳥山公園」・・・桜の名所で有名。
山の小高い地点に飛鳥明神社が祀られていたため、飛鳥山と呼ばれるようになった。
江戸時代初期まで滝野川村の領域だった。
寛永10年(1633年)に幕府が王子権現の社領とした。以後王子村の領域と認識されるようになった。将軍吉宗の治世に、江戸市民の娯楽のためお花見の名所となった。
享保5年(1720年)桜270本を植樹。
享保6年(1721年)全部で1000本となった。
享保18年(1733年)水茶屋10ヶ所花見のため許可された。以後現在までお花見は江戸市民に定着した。

画像は公園に停車中の機関車と都電で、乗り降り自由になっています。

P1070274 「王子駅前」を走る現役の「都電」

P1070276 「装束稲荷神社」・・・かつてこの辺りは一面の田畑で、その中に榎の木がそびえていました。
毎年大晦日の夜、関東各地から集まって来た狐たちがこの榎の下で衣装を改め、王子稲荷神社に参詣したといういいつたえがあることから、木は「装束榎」と呼ばれていました。狐たちがともす狐火によって地元の人々は翌年の田畑の豊凶を占ったそうで、今でも大晦日の夜に「狐の行列まつり」があるそうです。
榎は現存しませんが、現在は榎のあったそばに装束稲荷神社と装束榎の石碑(左側)があります。

Photo 「装束榎」・・・安藤広重「王子装束ゑの木 大晦日の狐火」(これはあるサイトからお借りしたものです)

12月31日の夜(23:00-0:30)、姉妹社のこの「装束稲荷神社」から狐のお面や装束を身につけた人々が行列し、「王子稲荷神社」へ正月の参拝をする「狐の行列まつり」が行われるそうです。

Photo 或るサイトからお借りした、装束榎が描かれている「江戸名所図絵」ですが、左上の山の中腹に「王子稲荷社」があります。

     【 続く 】

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171,駒込・王子界隈(その3)

P1070282 「王子稲荷神社 社殿」・・・康平年中に征夷大将軍、源頼義により「関東稲荷総司」の称号を頂く。小田原北条氏についで、徳川将軍家代々の祈願所と定められてきた。
現在の御社殿は十一代将軍家斉公により新規寄進されたもの だそうです。

そして落語「王子の狐」の舞台にもなっています。

P1070284

社殿裏手を少し登ると狐が住んでいた跡があり、「お穴さま」として今も保存されている。
ここはほんとに狐が住んでいたのだそうで、これが化かし損ねたあの母狐一家が住んでいたの所かもしれないが、真偽のほどは??

P1070283 境内には願掛け石があり、御石様とも呼ばれ、座布団4~5枚の上に鎮座しています。願を掛けて持ち上げて、石が軽く感じられれば願いが叶うという。

蛇足・・・私も試そうと持ち上げようとしましたがこれが以外に重く、腰痛を再発したら元も子もないので諦めました。

P1070290 「名主の滝公園」入口(薬医門:鎌倉末期に現れた門の形式で、武家や寺院や名主の門に使われた)で、王子稲荷の右隣にあります。

「名主の滝」・・・江戸時代に王子村の名主畑野孫八が、鬼怒川の風景を模してヤマモミジなどを植えた自邸の庭を開いたのが始まりで、名前の「名主」はそこに由来する。

園内には、男滝・女滝・独鈷の滝・湧玉の滝の4つの滝が復元されている。  それと ヘイケボタルが自生していることが確認されており、夏にはそれ以外にホタルを放って行う観察会も催される。と解説されています。

P1070293 江戸時代、この周辺には七つの滝があったそうで、園内にある「男滝」もその一つでしょうか?

この滝の水源は言わぬが花 と言うことに・・・

P1070299 「王子神社(王子権現)社殿」・・・王子田楽は王子権現社(現在の王子神社)に伝承された民俗芸能で、始まりは、中世の頃といわれています。江戸時代には、旧暦の7月13日に境内の舞台(現在は滅失)で、花笠を被り、衣装を着けた躍り手が十二番の演目を奉納したことが、当時の地誌などに記されているそうです。

P1070300 王子神社境内にある天然記念物の「大銀杏」

この木の右後ろの樹木は「飛鳥山公園」で、この間が音無渓谷になっています。

P1070305 「音無渓谷」・・・江戸時代この付近は音無渓谷と呼ばれ、安藤広重の「名所江戸百景」にも描かれ、江戸の名所の一つに数えられていた。音無の名の由来は、八代将軍吉宗が紀州の音無川にちなんで命名したもので、享保6年(1721)に吉宗が川沿いに100本の紅葉を植えさせ、飛鳥山の桜と共に江戸庶民の行楽地の一つであった。

また江戸時代には石神井川の水は近郊農村で農業用水だけではなく、脱穀製粉にも使われ、水車のある田園風景が拡がり、川沿いの傾斜地では宇治茶に劣らない風味と評判を呼んだ茶栽培が行われていた と説明されています。

【今回もお越し下さいまして有り難うございました】

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2008年1月22日 (火)

168,日刊「ゲンダイ」に載りました

'08/1/8 「日刊ゲンダイ」の記者さんから取材を受けました。

テーマは「すぐ始めるセカンドライフ準備」というタイトルですが、定年後の在り方などについて の取材でした。

私の場合は 1993年に60歳で定年になりましたが、会社からはもう少しどうか? との有り難い話があったのですが、「宮仕えは真っ平」と言うことで自由の身になった訳です。 しかし これに代わって収入の道は年金だけになり、これからの生活は果たして出来るのだろうかというと言う不安は付きまといました。

こんな不安定な気持ちの時にウオーキングを始めたのですが、これが思わぬ効果があったのです。 それは歩いている「色々なことを考えることが出来る」と言うことでした。

P1070061_3

これは取材の時のスナップですが、失礼でしたが記者さんの顔はマスキングしました。

その一つに「エイカイワ教室」へ通うということを思い付き、さっそく近くの公民館へ通い始め、どうせなら一人で海外旅行もしてみたい と考えが膨らみ、多い時には 4回/週 違った教室へ通い続けたのです。

なぜ海外へ と思ったのは定年になった時、「カミサン孝行?」でスイスへ初めての海外旅行したのですが、スイスは小さい国なのでエイゴが出きれば何とかなるだろうと直感したからです。

教室と並行してウオーキングも徐々に距離を伸ばし、温泉巡りなどもするようになっていました。

Photo まぁ こんなことから取材が始めりまして、1/16 発売の「日刊ゲンダイ」に掲載された次第です。(画像はそのコピーです)

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2008年1月21日 (月)

166,お茶の水から浅草へ(その1)

'08/1/12~14 神田明神で「大黒まつり」が開かれることを知り行ってきましたので、その時のスナップなどを入れながら纏めてみようと思います。

今回行ったのは 1/14 でしたが、この日は曇り空、そのうえ風は冷たかったのですが、どうせ行くのなら と言うことで浅草方面まで足を延ばし、帰りは上野駅までのコースになってしまいました。

Photo 左が今回の散策コースで、スタートは8時方向の「お茶の水駅」、「神田明神」にお詣りし、2時方向にある「永見寺」を見学。 水平方向にある「下谷神社」でお詣りし、そのまま「京成上野駅」までのコースです。

P1070118 お茶の水駅そばの「聖橋」からの眺めで、下の川は「神田川」、鉄橋を渡っているのは「地下鉄丸の内線」です。

左上に鉄橋が見えますが、これを過ぎると「秋葉原駅」となります。

3時方向に電車の先端だけが見えますが、これは「中央線」で東京方面へ向かいます。

神田川について・・・三鷹市の井の頭池を源とし、善福寺川、妙正寺川を合流したのち、JR水道橋駅付近で日本橋川を分派し、隅田川に注ぐ全長25.48kmの河川です。
上流は、寛永6年(1629)に上水道として開削され、昔は、文京区関口大滝橋より上流を神田上水、下流JR飯田橋駅付近の船河原橋までを江戸川、さらに下流を神田川と呼んでいました。
一時は水質が悪化していましたが、今では水もきれいになりアユの遡上が見られるようになりました。そこで「アユが喜ぶ神田川」をめざし、いきものにやさしい川づくりを進めています。(東京都建設局のサイト)

P1070121

江戸幕府が開かれると、当社は幕府の尊崇する神社となり、元和2年(1616)に江戸城の表鬼門守護の場所にあたる現在の地に遷座し、幕府により社殿が造営されました。以後、江戸時代を通じて「江戸総鎮守」として、幕府をはじめ江戸庶民にいたるまで篤い崇敬をお受けになられました。(神田明神サイトから借用)

P1070147

「神田明神にて12日から14日まで、大黒さまと恵比寿さまが雅楽の奏者に続いてやってきます。大きな大黒像の前で神事と大黒さまの舞。たくさんの福を授けてくださいます!」

とPRしていましたが、時間の関係で大黒さんお一人との出会いでしたが、この子は巨大なお顔の大黒さんにビックリしてしまったようで、すっかり固まっています。

P1070142 この大黒さんは石像で、高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として昭和51年(1976年)建立された そうです。

大黒さんの前には「茅の輪くぐり」が置かれています。

「茅の輪くぐり」・・・茅の輪で作られた大きな輪は、正月から6月までの半年間の罪やけがれを祓う夏越しの大祓えに使用され、それをくぐることにより疫病や罪穢れが祓われる と言われているそうです。

P1070115 本殿から見た境内のパノラマです。

P1070146 境内の一隅には「振る舞いの樽酒」が置かれていて、誰でも自由に頂くことが出来るようなのでパチリ。 私もこの柄杓で1杯頂きましたが、下戸は悲しいもので たった1杯ですっかりゴキゲン

P1070144 境内の東側にある「男坂」ですが、振舞酒ですっかり良い気持ちの私はこの石段を下りる時、手摺りのお世話になりました。

今はすっかりビルの中に埋もれている「神田明神」ですが、昔はこの高台から江戸湾?や海の向こうには房総の山並みが良く見えたのではないでしょうか。

    【 続く 】

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167,お茶の水から浅草へ(その2)

神田明神を出た私は「蔵前通り」を歩き、適当に横丁などを歩きながら「菊屋橋交差点」を目指し、目的地は交差点近くにある「永見寺」というお寺です。

P1070156 永見寺境内にある「金勢和合稲荷大明神の神石」です。

調べてみたら・・・江戸は享保のころ、吉原の売れっ子花魁っていえば玉菊さんだった。この玉菊さんが深く信心していたのが、こちらの金精和合大明神。もうかれこれ250年も経っているのだそうです。

享保(1716~1736)・・・この頃徳川吉宗が主導して色々と改革を進めていた時代 とのことです。

P1070159 同じく境内にある「まよひ子のしるべ」の石柱で、これを正面から見たものですが、いつ頃の石柱なのかの説明がなかったのが残念です。 

この「まよひ子のしるべ石柱」は江戸(東京)に限らず、調べた範囲では 甲府・岡山・京都(中京区)・桑名・兵庫区 などにもあるようで、江戸時代や明治時代に建てられているようです。

P1070158

たずぬる方」・・・側面になりますが、ここには「たずぬる方」となっていまして、迷子を捜す時、特長などを書いて上にある四角い窪みに貼って置くそうです。

P1070160志らする方」・・・逆の側面には「志らする方」となっていまして、
迷子を保護した人がその特長などを書いて、やはり上の四角い窪みに貼って置くそうです。

私はここに刻まれている言葉が好きで、初めてこれを見た時はゾクッとするような感動を覚えました。
それは、「なんて日本人は優しい心を持っているのだろう」と感じたからです。

東京・日本橋近くにある「一石橋」の袂にも、江戸時代に造られた物がありますので、
東京駅や日本橋に来られた時は 一度ご覧になっては如何かと思っています。

東京中央区のサイトによると・・・江戸時代の後半、この一石橋から日本橋にかけては盛り場でした。そのため迷子も多く、町内で責任を持って保護をしなくてはなりませんでした。そこで安政4年(1857年)に、土地の有力者が世話人となって、この石碑を建てました。柱の右側には「志らす方」左側には「たづぬる方」と彫られています。その上にある四角いくぼみは、迷子やたづね人の特徴を書いた紙を貼り、それに心当たりがある人は迷子の消息を書いた紙を右側の窪みに張りました。この石碑は江戸の町に多くの人がいて賑わっていたことを物語っています。

P1070177永見寺から上野駅に向かう途中にある「下谷神社」・・・解説によると、境内の入口横に「寄席発祥の地」の石碑がある。
また下谷神社前の通りを「浅草通り(通称 仏壇通り)」と言うが、江戸時代には新寺町通りと呼ばれた。明暦の大火後、東本願寺をはじめ、多くの寺がこの辺りに移転してきたからである。そのため数多くの仏壇、仏具店、宮大工店が軒を並べている とのことで、確かにこの様な店が軒を並べています。

P1070180 この日は  1/14 で「成人の日」、上野駅前を粋がったアホなオアニイサンが闊歩していました。

P1070184 同じく上野駅前でのスナップです。

P1070182 同じく上野駅前に建っている「あぁ 上野駅の碑」・・・説明によると、昭和30年代後半は日本の高度成長期の出発点であった。当時の日本経済の基礎を支え、労働力の源泉となったのが地方から集団就職で都会に迎えられ「金の卵」ともてはやされた若者たちである。
当時上野は東北から上京するときの玄関であり、「集団就職」や「出稼ぎ」の象徴の駅でもあった。井沢八郎さんの代表作「ああ上野駅」が世に出たのが昭和39年。以来東北出身者を中心に多くの人に愛されて続け、心の励みとなり又人生の応援歌にもなっています。かって集団就職で上京し、現在も東京に住まわれている人を中心に寄付が集まり、「ああ上野駅」の歌碑が駅の一角に建立されました となっています。

 【 今回もご覧下さいまして 有り難うございました 】

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