173,「江戸市中引き廻し」(其の一)
時代劇を見ていると、奉行が「江戸市中引き廻しの上 火焙りを申し渡す」なんていうセリフを聞くことがあります。
この「引き廻し」というのはどの様なコースを歩くのか興味があり、調べてみたら私が持っている安政三年(1856)の地図ソフトに、このコースが点線で載っていましたので これをなるべく忠実に歩いてみることにしました。
この地図が、その「引き廻しコース」を今の地図になるべく忠実になぞったもので、数字はこのコ-スにある主だった場所を表したものです。
①;伝馬町牢屋敷跡 ②;日本橋 ③;新橋駅 ④;田町駅 ⑤;赤坂見附駅 ⑥;豊川稲荷社 ⑦;迎賓館 ⑧;四谷駅 ⑨;神楽坂駅 ⑩;本郷3丁目 ⑪;上野駅 ⑫;浅草駅 ⑬;引き廻しの折り返し地 今戸橋 ⑭;浅草橋駅
スタートは '08/2/5 ⑭ の浅草橋駅で午前10時に出発、時計回りのコースを歩きます。
浅草橋駅の傍にある浅草橋袂に建っている「浅草見附跡の碑」・・・神田川にかかる浅草橋は、江戸日本橋から奥州路、浅草観音、新吉原へ行く重要な道筋に江戸三十六門の一つで、寛永13年(1636)に作られ江戸防衛の要だったとのこと。
明暦3年(1657)の江戸大火では、囚人の逃走をふせぐために門をしめ切ったため、一般市民の避難路が絶たれ多くの焼死者を出した。
こうした悲しい出来事もあったが、明暦以後吉原が盛んになると、このあたりから柳橋にかけて船宿ができ、船遊びも盛んになり、猪牙舟(ちょきぶね)という粋な二挺櫓の廓通いの舟が出来たのも浅草御門付近だそうです。 今もこの橋から隣にある「柳橋」に掛けては屋形船はたくさん舫って居ます。
① の「伝馬町牢屋敷跡」・・・江戸の牢屋敷は慶長年間(1596~1615)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。そして、明治8年(1875)5月廃止されるまで存続していたものである。
記録によればその規模の広大で、面積は2618坪(8639.4平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。
獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦3年(1657)の収容因人は130人であり、安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が収容されたこともある。
今は「大安楽寺」というお寺・十思公園・小学校などになっています。
『身はたとひ 武蔵の野辺に朽ちぬとも 留置まし大和魂』 と彫られていますが字が見えず失敗でした。
10時20分通過
風情がすっかり無くなってしまった②「日本橋」です。 10時50分通過
なお、私の持っている江戸時代の引き廻しルートでは、この日本橋は渡らずに「江戸橋」を渡っています。
日枝神社(茅場町)・・・日枝神社の山王まつりについて、江戸時代から続く伝統のある大祭です。江戸三大祭として多くの人々に知られています。
1週間にわたって繰り広げられるその中でもっとも華麗な王朝絵巻として有名な神幸祭が6月9日(金)に京橋・日本橋にて執り行われます。
午前8:00に神幸祭はスタートし、氏神さまが領地を巡行します。
10日(土)と11日(日)には町会ごとの氏子神輿が繰り出すそうです。 11時00分に通過
「京橋」・・・かつて存在した京橋川に架けられていた中央通りの橋である。日本橋より東海道にて京方向に向かう場合、最初に渡る橋が京橋であり、京橋はまさに京方向へ向かう街道の橋であった。 京橋川は1959年(昭和34年)に埋め立てが完了し、京橋も撤去された と説明されています。
当時の京橋の「親柱」が残されています(画像)
「京橋大根河岸青物市場跡の碑」・・・寛文の時代(1661~1673)、元は数寄屋橋にあった青物市場が火災に罹災し、水運の良い京橋川付近に移設されました。当時、大根の入荷が多かったとか。以来、明治・大正と長年にわたり繁栄を続け、関東大震災後には問屋68軒、仲買人105人を擁する大規模市場だったようです。
昭和10年「中央卸売市場法」の実施に伴い、築地へと移転したそうです。
11時25分に通過
【 続く 】
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)































最近のコメント