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2008年4月20日 (日)

202,高遠城址公園

’08/4/17 曇り空の中を定刻8時、私共を乗せた「日帰り 高遠城址公園 お花見バス」が発車しました。

説明によると・・・ 高遠城址公園 は長野県伊那市高遠町東高遠にある名城「高遠城」を中心に整備された公園である。

高遠城は戦国時代、武田信の家臣であった山本勘助が縄張りした堅城で城主は武田氏一族が務めた。 別名兜山城ともいわれる。 1582(天正10年)、城主・仁科盛信(信玄五男)の時落城するが、この時籠城していた信玄の娘・松姫(盛信の妹)と、攻城軍の総大将織田信忠(織田信長嫡男)は元婚約者同士であり、落城にまつわる悲劇として知られている。

城は南アルプの裾野にあり、春になるとこの地にしか咲かない1,500本のタカトオコヒガンサクラ(サクラの一種)が咲き乱れ、城は赤みを帯びた鮮やかな桜色に包まれる となっています。

Photo ルートは3時方向の「千葉」から10時方向の「諏訪」まで中央高速道で行き、そこから一般道で「高遠」まで下って来ます。(帰りも同じルートでした)

諏訪に着いた頃からポツリ・ポツリ、現地に着いた時はポツリ・ポツリからシト・シト状態、残念でしたが雨中の花見になってしまいました。

今回のブログは説明を省略して、スナップ写真」のみを載せるようにしました。

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「観光バスツアー」の宿命で、必ずこのような場所に立ち寄ることになっています。

P1080840_2 P1080839 

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【 画像だけの更新になってしまいましたが、お越し下さいまして有り難うございました 】

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2008年4月18日 (金)

198,赤坂界隈(その1)

'08/4/15 に所用で「千駄ヶ谷」へ行ったので、せっかく来たのだからと言うことで「赤坂界隈」を散策してきました。

Photo_2 スタートは9時方向の「千駄ヶ谷駅」で、神宮外苑を抜け5時方向の「氷川神社」、直ぐ右隣の「南部坂」を往復し、北上しながら「日枝神社」「赤坂不動尊」「清水谷公園」を通り、3時方向の「半蔵門」。

更に北上して「靖国神社」からゴールの「飯田橋駅」までのコースでした。

P1080771 駅前の歩道橋から神宮外苑と高層ビルは赤坂方面のもの。

ビルの名前は?です。

P1080774 同じく駅前から「新宿方面」の眺めで、正面の高層ビルはドコモビルだそうです。

P1080777 外苑の銀杏並木

P1080778 同じく銀杏並木

P1080776 同じく銀杏並木ですが、枝垂れ桜が満開でした。

P1080775 綺麗に見えたのでパチリ

以上が神宮外苑でのスナップです。

    【 続く 】

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199,赤坂界隈(その2)

神宮外苑から5時方向に下がってくると「報土寺」があります。

P1080780 報土寺では本堂など改修中だったので「鐘楼」を撮りましたが、この鐘は明治41年(1908年)鋳造のものだそうです。

P1080779報土寺にある 「雷電為右衛門(1767~1825)墓」・・・天下無敵の名力士と言われた江戸時代中期の大関(当時は横綱という番付は?)で、相撲成績は、254勝10敗、引き分け他21、勝率96.2%、身長197㎝、体重169㎏

あまりの強さに「つっぱり」「張り手」「かんぬき」「さば折り」を禁じ手とされたという逸話があるそうです。

このような話も・・・45歳で引退した雷電は4年後に起きた江戸大火炎上したこの寺に釣鐘を寄進したが、ここに「天下無双雷電」と刻んだため幕府によって住職は江戸払い、雷電は蟄居謹慎となつたお寺なのだそうです。

P1080781 報土寺の築地塀・・・安永九年(1780年)に三分坂下の現在地に移転してきたお寺ですが、この築地塀はこのころに造られたものといわれています。    右は三分坂(サンプンザカ)

P1080791 「赤坂氷川神社」・・・享保15年(1730年)徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもの だそうで、東京都の有形文化財に指定されています。

P1080795 境内の「ご神木」ですが、チョウド傍に女性が座っていましたので大きさがご想像頂けると思います。

P1080785 同じく境内にある「ご神木」

このように境内には古木も多く、都心とは思えない雰囲気のある神社です。

P1080796 同じく境内にある「史跡」の案内板で、浅野内匠頭の未亡人(瑤泉院)がこの敷地内に住んでいた。

と書かれていますが、驚いたことに戦時中の昭和18年3月に建てられたようで、このように考えると、この「案内板」も史跡かも知れません。

P1080788 浅野内匠頭夫人が出てくれば、忘れたならないのが「南部坂雪の別れ」ですが、「南部坂」はこのような狭い坂道で一方通行です。

右側は写っていませんが、石垣があってその上は「アメリカ大使館宿舎」になっています。

一説によると「南部坂雪の別れ」はフィクション と言われているようですが・・・

P1080789 坂の下から見た「南部坂」で、右端には「南部坂」の石柱があります。

   【 続く 】

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200,赤坂界隈(その3)

Akasaka 「南部坂」や「勝海舟屋敷跡」の場所ですが、氷川神社を中心にするとこのようななります。

氷川神社と南部坂は、赤坂界隈(その2)に載せました。

(11時方向にある「地下鉄赤坂駅」は '08/3 に竣工した「赤坂サカス」の傍ですが、歩いていながら全く気が付かず、どうも年寄りには関わりが無いのかも知れません)

P1080803 「勝海舟邸跡」・・・ここには36歳(1859年)から45歳(1868年)まで住んでいて、この期間は坂本龍馬と出会ったり、咸臨丸の艦長として渡米したり、西郷隆盛と江戸城の無血開城会見など、ここの屋敷に住んでいた頃の出来事だそうです。

P1080804 「勝海舟邸址の碑」・・・ここも勝海舟邸跡ですが、50歳(1872年)から亡くなる77歳(1899年)まで ここに住んでいたとのことですが、この石碑には「勝安芳邸址」と刻まれています。
説明によると・・・亡くなるまで居住した所にある石碑で、参議・海軍卿・枢密顧問官・伯爵として顕官の生活を送り、傍ら氷川清話などを遺した場所だそうです。

この時の屋敷跡は東京市に寄付した とのことです。

P1080806

「勝海舟邸址の碑」の遠景ですが、碑の左にある大銀杏は海舟が気に入っていたもの と言う話があるようです。

    【 続く 】

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201,赤坂界隈(その4)

Photo 6時方向の「南部坂」から北上しながら、日枝神社・清水谷公園・半蔵門を通り、ゴールの「飯田橋駅」を目指します。

P1080807 「日枝神社の大鳥居」・・・山王鳥居と呼ぶそうで、日枝神社特有の形なのだそうです。また石段の右側はエスカレーター付きなので登るのは楽です。

一説にはここに古墳があった という説もあるとか。

P1080808 P1080810_2 「神門(左)と社殿(右)」・・・説明によると、創建の年代は不詳だそうで、文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院)の鎮守である日吉社を勧請したのにはじまるとされる。

慶長9年(1604年)からの秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。明暦3年(1657年)明暦の大火により社殿を焼失したため、万治元年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する となっています。

P1080816 赤坂見附駅の近くにある「赤坂不動尊」・・・解説によると。慶長5年(1600年)建立だそうで、江戸時代紀州家の祈願寺となり、広く信仰され大いに栄えました。以来、江戸、明治の大火、関東大震災、戦災にも難を免れた霊験あらたかなお不動様 となっています。

東京でも指折りの繁華街に、この様な不動尊があるとは驚きでした。

P1080821P1080823(左)明治11年(1878年)、この付近に自宅を構えていた大久保利通が暗殺されるという事件が起きた(紀尾井坂の変)。この事件は人々に衝撃を与え、後に暗殺の現場となった当地に大久保利通哀悼碑が建てられたのがこの石碑だそうです。   右の画像は公園内にある池ですが、紅葉?していたのでパチリ。

P1080829「半蔵門」・・・江戸城の半蔵門で、服部半蔵の屋敷が門前にあり、半蔵が守っていた門と言われています。
この場所は甲州街道(新宿通り)の起点となっていて、甲州方面の敵から江戸城を守るとともに、逆に江戸城に危難が迫った折には甲州方面に逃げるという要衝だったとのことです。

P1080830 「靖国神社」・・・明治2年(1869)6月29日、明治天皇によって建てられた東京招魂社が始まりで、明治12年(1879)に「靖国神社」と改称されて今日に至っています。

靖国神社には幕末の嘉永6年(1853)以降、明治維新、戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、満洲事変、支那事変、太平洋戦争などの時に尊い生命を捧げられた246万6千余柱の方々が身分や勲功、男女の別なくお祀りされています。

ここまで来ればゴールの「飯田橋駅」はもうすぐです。

 【 今回もお越し下さいまして有り難うございました 】

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2008年4月 8日 (火)

195,「谷中から上野へ」(その1)

今年の桜はいつまでも元気?に咲いているようですが、そろそろ櫻吹雪のように散り始めるのでは という焦るような思いで、'08/4/4 に「谷中」から桜の名所「上野」を目指して散策してきました。

Photo ルート図(その1)で、スタートは2時方向の「日暮里駅」からですが、この周辺はお寺が多くルート図に各々の名前が入りませんので、歩いた順に数字で記入しました。

ここでは8時方向にある「根津神社」までになっていますが、ルート図(その2)では、「根津神社」からゴールの「京成上野駅」までを載せる予定です。

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P108064208/ 3/30 に開通した「舎人ライナー」です。 

「日暮里駅」から2時方向に線が延びていますが、これが舎人ライナーの路線で、地図上では北方向に延びています。

そして何故「舎人ライナー」なのかよく判りませんが、この路線上に「足立区舎人」という名前の場所があるからかも知れません。

P1080647 の「本行寺(月見寺)」・・・江戸時代から観月の地として有名だったので「月見寺」とも呼ばれ、風流を愛した江戸の粋人たちに好まれたようです。

太田道灌が斥候台を築いた道灌物見塚跡(道灌丘碑)をはじめ、様々な史跡があり、見応えたっぷりのお寺です。

P1080643 境内にある 小林一茶 の句碑

「陽炎や 道灌どのの 物見塚」

P1080645同じく境内にある 種田山頭火 の句碑

「ほっと東京に来ている月がある」

P1080649 の「経王寺」・・・荒川区教育委の説明によると、1868年(慶応4年)の上野戦争の時、敗走した彰義隊を匿ったとして、新政府軍の攻撃を受け、山門には今もその銃弾の後が見られます。となっていまして、門には数発の弾痕が残っています。

蛇足ですが、日暮里の名物として「羽二重団子」がありますが、彰義隊が敗走する時この店に兵器などを残していったそうで、今でもこれらを保管しているとのことです。

P1080650 の養福寺仁王門・・・宝永年間(1704~11)の建築と伝える。表側に安置されている仁王像の胎内から、宝永4年(1707)の銘札が発見されているそうです。

 

P1080653 「シャレ・スイス・ミニ」・・・③の養福寺から少し北上すると、通りの右側にあるスイス風の洒落た喫茶室で、オーナーはスイス人とのこと。

1階とテラスが喫茶室で、2階は語学などの教室になっているようです。

なお何人かで予約すると本場の「チーズ・フォンデュ」も食べることが出来るそうです。

 

P1080654 の「延命院の椎の大木」・・・樹齢600年と言われる。幹周り5.5Mの巨木だったが2002年に幹内部の腐朽で右側の大枝が崩落し現在の形になったとのこと。東京都指定天然記念物(昭和5年指定)。

延命院の西側の崖の辺りで縄文時代後期の貝塚が発見され、日暮里延命院貝塚と呼ばれてるそうです。

        【続く】

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196,「谷中から上野へ」(その2)

P1080659 の「夕焼けだんだん」とこの石段を下りると、TVなどでも紹介される「谷中ぎんざ」(下正面)になります。

夕焼けが美しいことと、下町情緒が感じられる名前として「森まゆみさん」が命名したそうです。なお、森さんは地域誌「谷(中)根(津)千(駄木)」の創刊者。

(この石段と谷中ぎんざを結ぶ方向が西になります)

P1080661 朝倉彫塑館・・・彫塑家朝倉文夫(1883~1964) が住居兼アトリエとして自ら設計・監督をし、8回におよぶ増改築の後、昭和3年から7年の歳月をかけて新築。昭和10年、現在の形となったそうです。

休館日:毎週月・金曜日(祝日の時は、翌日)、年末年始
入館料:一般個人400円、小中学生150円

P1080664 築地塀・・・粘土で瓦を幾重にも積み重ねて造った土塀で、江戸末期のものだとか。

ここへは朝倉彫塑館の前を過ぎ、少し行くと右手に「観音寺」があるので、そこを右折するとこの「築地塀」があります。

P1080665長安寺にある「狩野芳崖の墓」・・・幕末から明治の日本画家。文政11年(1828)長州(山口県)に生まれる.

19才で江戸に出て狩野勝川の門に入る。芳崖は晩年の号維新の変革で一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていたが、岡倉天心と共に図画取調所(美術学校の前身)を設ける。

「悲母観音図」は3年精魂を打ち込んで描いた作品で、当時としては明治以降唯一の国宝指定を受ける。また、「不動明王図」は重要文化財と説明されています。

「長安寺」は、の築地塀の場所の近くにあります。

P1080672  「全生庵本堂」・・・山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。

なお鉄舟との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されていて、8月には幽霊が公開されるようです。

P1080671 「山岡鉄舟の墓」・・・山岡鉄舟は明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣であって、江戸無血開城の時の「勝と西郷の会見」の事前根回しのため駿府まで行っています。

西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われているそうです。

P1080669 同じく全生庵にある「弘田龍太郎の墓」・・・「鯉のぼり」「千曲川旅情の歌「叱られて」など、数々の名作を世に出した作曲家(1892~1952)。

東京音楽学校を卒業したのち、本居長世に師事した。唱歌、童謡などのへだてなく作曲をこなした人で、墓石の右には彼が作曲した「叱られて」の碑が見えます。

P1080674 境内に建っている「お仙と鈴木春信(江戸の人で、享保10年から明和7年(1725~70)まで活躍した浮世絵画家)の碑」が建っています。

調べてみるとお仙の碑文を書いたのはあの永井荷風で大正8年(1919)のこと。
【荷風の撰文】
『女ならでは夜の明けぬ、日本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋のかぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年部門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃』

ただし、笠森稲荷は谷中に3ヵ所あって、お仙の出ていた水茶屋「かぎ屋」はこの大円寺ではない。谷中の墓地が公共墓地になった後、明治6年(1872)に作られた功徳林寺がその位置である。笠森とはもともとは瘡守(かさもり)で、江戸時代には恐ろしい病気であった梅毒?を治してくれるお稲荷さんという 説もあるようです。

P1080676_2 の「枇杷橋跡(合染橋跡)」・・この画像で赤い庇の所を右折すると「蛇道」と呼ばれる道になっています。

以前はここに川(藍染川)が流れていたそうで、歩行ルート図を見て頂くと の所にある鎖線が蛇行していますが、これが川を暗渠にした跡で今では蛇行した道になっています。

蛇足ですが、夏目漱石の「三四郎」の一節をお借りしたいと思います。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。

この「石橋」というのが、どうやらここにあった合染橋では という説があります。

          【続く】

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197,「谷中から上野へ」(その3)

Photo_3 「谷中」を通り過ぎ、これからは10時方向の「根津神社」からのルート図になります。

横に移動して「臨江寺」、迂回しながら「護国院」、そして上野公園に入って5時方向のゴール「京成上野駅」に向かいます。

P1080682 根津神社・・・説明によると、拝殿(国指定重文)は宝永二年(1705)、五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。(宝永三年完成)

この社殿は拝殿の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造建築で江戸の神社建築としては最大の規模を誇る となっています。

P1080685

根津神社楼門・・・正面右側の随身は水戸光圀公がモデルと伝えられているそうです。(国指定重文)

P1080683 境内にある「乙女稲荷神社」からは、この様に長い鳥居が続いています。

P1080686 「臨江寺本堂」・・・ここに「蒲生君平の墓」があると言うことなのですが、残念ですが公開はしていないようです。

蒲生君平の墓については、日光街道を歩いた時に宇都宮のお寺でお参りしたので、今回もお参りを と思っていたのです。

P1080690 護国院・・・説明では、享保2年(1717)火災に遭い、同7年再建されたのがこの本堂である。
堂は間口七間(18.2メートル)奥行五間(13.6メートル)外部は丹塗り、内部は柱の上部から上が極彩色、細部の様式は唐様である となっています。

境内では桜の花びらが舞っていたので パチリ

P1080695 だいぶ影が伸びてきましたが、上野の山に入ると花見客が大勢来ています。夜桜見物でしょうか・・・

P1080696 と思っていたら、居ました。それにしてもこんなに沢山の宴会、これではその熱気で染井吉野も散ってしまうでしょう。

P1080700 上野公園の名物?「似顔絵描き」

いつ頃からこの商売が始まったのか判りませんが、15分程で完成させる技術はさすがで、描く人(お客)の顔をじっくり見ていると、職業や性格の見当がつく絵描きさんも居るそうです。

【今回もお越し下さいまして 有り難うございました。】

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2008年4月 7日 (月)

191,「清澄界隈」(その1)

'08/4/3 櫻が咲き誇っている という報道を聞くと落ち着かなくなり、懲りもせずまた「東京散策」をしてきました。今回の目的地は今まで行きそびれていた「清澄界隈」です。

Photo スタートは1時方向の「錦糸町駅」、先ず駅前バスターミナルに有る「伊藤左千夫住居跡の碑」、西方向に移動して「勝海舟揺籃の地碑」、そしてルート図のちょうど真ん中にある「遠山金四郎・長谷川平蔵住居跡の碑」。(ここは地下鉄菊川駅の傍にあります)

9時方向の「深川神明宮」、南下して「霊巌寺」「成等院」、9時方向に移動して「清洲橋」「萬年橋」、ここから北上しながら「江島杉山神社」を過ぎ、「回向院」を経由してゴールの「両国駅」へと歩きました。

P1080483 錦糸町駅前のバスターミナルのど真ん中に「伊藤左千夫住居跡の碑」があります。

今から100年近く前、ちょうど現在のJR錦糸町駅前に彼は牛舎を設け、牛を飼い、牛乳の製造・販売業を営む傍ら、作歌に励んだそうです。

P1080481 これが「住居跡の碑」に刻まれている碑板で

「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」

と彫られています。

P1080487「史跡・勝海舟揺籃の地碑」・・・ 父・小吉は本所南割下水内で何度か転居後、海舟九歳のとき本所入江町の旗本、岡野孫一郎の地所内に落ち着くが、ここに「勝海舟揺籃の地」の碑があります。

子母沢寛著の小説「父子鷹」を読むと、この岡野孫一郎の話も出てきます。

P1080488 地下鉄「菊川駅」から東へ100㍍ほど行くと、鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川平蔵の屋敷が菊川のこの地にありました。
そして、その同じ場所に40年後、ドラマや芝居でお馴染みの「遠山の金さん」こと「北町奉行遠山金四郎」も屋敷を構えました。
しかし平蔵のほうが敷地は大分広かったそうです。

P1080489 「新大橋通り」に面して建っている住居跡の碑ですが、進行方向が東になり、逆方向へ行くと隅田川に架かる「新大橋」になります。

P1080491地下鉄「森下駅」交差点に建っていた「火消し纏?」で、ここからは深川に入り祭りには事欠かない場所のようです。

「森下の由来」・・寛文年間(1660)頃。この町の西に酒井左衛門尉の屋敷があり、その中に深い森があったので「森下町」という名が付いたそうです。

P1080492 「深川神明宮 社殿」・・・「深川」の地名のもととなった、由緒正しいお宮。

かつて深川八郎衛門がこの地を開拓、庭に伊勢神宮の御分霊を奉斎していた。慶長元年、江戸に入府した徳川家康がこの地を巡視、地名を尋ねたので、「まだ住む人もなく地名もない」と答えたところ、家康は八郎衛門の姓「深川」を地名にしたという。以来深川氏は代々名主を務めるようになり、深川家の屋敷の一隅に祭られていた小さな祠は「深川神明宮」として多くの崇敬を集めるようになった のだそうです。

P1080495_2「芭蕉通り」と名付けられた通りですが、道の両側に植えられている櫻が満開。

この先に「芭蕉記念館」があるから「芭蕉通り」なのでしょうか?

   【 続く 】

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192,「清澄界隈」(その2)

P1080496

小名木川に架かる「高橋」からの眺めで、水門の先には「萬年橋」があり、そこからはもう隅田川です。

P1080501霊巌寺・・・寛永元年(1624年)、霊岸島(中央区)に創立。明暦3年(1657年)の振袖火事で焼失、この地に移転した とのことです。

境内には「松平定信の墓」と「江戸六地蔵」があります。

P1080504 「松平定信の墓」・・・説明によると、徳川吉宗の孫。26歳で白河藩主となり、天明の飢饉では的確な藩政で餓死者を出さず名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、1787年老中となり十一代将軍家斉を補佐した。
農村崩壊、財政破綻、外国船の接近など、問題山積の幕政打開のため、寛政の改革を行った。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず家斉と対立し、老中を解任された。

馴染み深い話としては、鬼平として名高い「長谷川平蔵」の提言で、「越中島」に「人足寄場」を設けたことでしょうか。

P1080505 江戸六地蔵とは・・・一は「品川の品川寺」で1708年造、 二は「新宿の大宗寺」で1712年造、 三は「巣鴨の真性寺」で1714年造、 四は「浅草の東禅寺」で1710年造、 五は「深川の霊巌寺」で1717年造、 六は「江東区富岡の永代寺」で1720年造 とのことです。

P1080507 「出世不動尊」・・・幕府より隅田川沿いの湿地を埋め立てて寺を建立することを許されたが、難工事を強いられていた。その頃近江三井寺の不動堂住職期妙の夢の中に本尊の不動尊像が現れ「手助けをしたいので江戸に連れて行くように」とお告げがあった。

霊巌時の工事の中、お堂を建てて安置したところ、工事も順調に進み、後に不動寺に安置され上人から『出世不動』と命名された。1653年この地に移転、関東大震災後、長専院と合併し、以来「深川の出世不動」として広く信仰を集め親しまれている。

余談ですが、現役時代にこの不動尊を知っていれば出世も・・・と今は残念の思いです。

P1080513 紀伊国屋文左衛門の墓・・・江戸中期の豪商で、紀州ミカンを江戸に運ぶ商売で利益を得、後に材木商として江戸に進出、柳沢吉保に取り入り幕府の御用達商人になる。中でも上野寛永寺の用材調達で巨万の富を得た。

吉原で奈良屋茂左衛門と大尽遊びを競った話などの豪遊伝説が残っている。

柳沢吉保の失脚後は廃業し、落魄した生活を送ったそうです。

P1080511 「紀伊国屋文左衛門の碑」・・・紀伊国屋文左衛門を顕彰する野村吉三郎氏の揮毫による大きな石碑です。

なお紀伊国屋文左衛門のお墓は、この大きな石碑の左にある 小さな墓石がそれです。

P1080498 「雄松寺」にある「度会園女(わたらい そのじょ) の墓」・・大坂で芭蕉が旅に病んで亡くなったときに看取ったのが、弟子の「度会園女」であった。夫の死後東下りして、深川で目医者をしていたそうです。

    【続く】

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193,「清澄界隈」(その3)

ここでは「深川江戸資料館」・・・江戸時代(1842年頃を想定)の深川の町並みや庶民の生活ぶりを再現。
長屋2棟をはじめ八百屋、米屋、火の見櫓、猪牙舟の浮かぶ掘割、船宿のたたずまいなどをはじめ、家の中の生活用品類一つ一つにまで細かく気を配って再現してあるそうです。

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P1080500 これは「展示物」ではなく、一見すると蕎麦屋のようですが歴とした「公衆トイレ」。

P1080537 清澄庭園の前にある「本誓寺」では、既に「花まつり」の準備も済んでいるようです。

P1080540 清澄庭園の隣の「清澄公園」にある藤の古木と時計塔。(この公園は「清澄庭園」の隣にあります。)

P1080558 P1080559

 

コーヒーブレイクで立ち寄ったパンとコーヒーの店で、清洲橋と萬年橋の間にヒッソリと店を開いていました。(店の店員さんたちには「ブログに載せたいので」とお願いして了解を頂いてあります)

                    【続く】

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194,「清澄界隈」(その4)

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ここではルート図の左側の紹介で、「清洲橋」から北上し、ゴールの「両国駅」を目指します。

P1080550「清洲橋」・・・隅田川の架橋の中で一番美しいといわれる清洲橋は、震災復興事業の一環として、ドイツライン川にケルンの吊り橋をモデルに作られた。
また名称は、日本橋区中州町と深川区清澄町を結んだ事によ清洲橋とした とのことです。

P1080561 「萬年橋」・・・今から350年ほど前にかけられた古い橋です。昔は虹型の美しい橋で、ここから見える富士山の眺めは素晴らしいものであったため(現在は西側の建物に遮られて見えない)、広重や北斎もこの橋の絵を描いたそうです。

現在の萬年橋は昭和5年に造り替えたもの とのことです。

P1080585萬年橋の袂にある 「芭蕉稲荷」・・・「奥の細道」で有名な松尾芭蕉が深川に移り住んだのは、延宝八年(1680)であった。

芭蕉庵は芭蕉没後に消え去り、その場所も長く行方不明になっていたが、大正六年(1917)大津波のあとに芭蕉遺愛のものと思われる「石の蛙」が見つかった。これを奉ったのが芭蕉稲荷 とのことです。

芭蕉遺愛のものと思われる「石の蛙」は、この近くにある「芭蕉記念館」に置かれています。

P1080594 「江島杉山神社」・・・杉山流鍼術の始祖、杉山検校が将軍綱吉から拝領した宅地内に信仰する江ノ島弁財天と、鍼術の神様・杉山和一(1610~94年)総検校が祀られています。

弁財天は、全ての願いをかなえてくれる神様ですが、特に芸能上達に通じています。
杉山和一は、鍼の神様、視覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されているそうです。

P1080589 社殿の右側にある洞窟内に安置されている「杉山和一の石像」

P1080592_2同じ洞窟にまつられた弁財天は、頭が人間、体が蛇の「人頭蛇身」というものです。

P1080595 両国駅近くの「回向院」境内に安置されている「塩地蔵尊」・・・右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。腐食がひどく年代など判明しませんが古いもの だそうです。

【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】

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2008年4月 1日 (火)

190, ’08 墨堤さくらまつり

'08/3/29 絶好のお花見日和に恵まれ、東京は向島の隅田公園を散策してきましたが、偶然この日は「墨堤さくらまつり」が開かれていて、「桜&綺麗どころ」を充分すぎるほど堪能し、目の保養をさせてもらいました。

P1080333 多くの屋形船も出ている「墨堤公園」の桜並木(パノラマ画像です)

P1080359 墨田区役所の傍に建つ「勝海舟((1823~1899))の銅像」・・・説明によると、旗本小普請組の勝小吉の長男として江戸・両国に生まれる。
1860年「日米修好通商条約の批准書交換のためアメリカに使節が派遣される時咸臨丸を指揮し、日本人初の太平洋横断航海に成功。
帰国してから各職を歴任、1864年には海軍奉行となり神戸に海軍繰錬所を開いて幕臣や坂本龍馬を教育した。
戊辰戦争では西郷隆盛と会見、江戸城の無血開城を決めた。 

P1080379 「隅田公園」

P1080370同じく「隅田公園」で「かっぽれ」を披露するお姐さんたち。(大変失礼ですが、顔にマスキングをさせて頂きました)

P1080380「牛島神社」・・・もと本所区向島須崎町に鎮座していたが関東大震災後、昭和の初め水戸徳川邸跡の現在地に再建された。
当時の縁起書によると貞観 2年(860)滋覚大師の御神託によって須佐之男命を郷土守護神として創祀し、「王子権現」 と称した とのことです。

蛇足ですが、「勝海舟」の小説を読むと「王子神社で剣術の修行」となっているのがこの神社だそうで、東京北区の「王子神社」ではないことが判りました。

P1080401 「長命寺の櫻もち」も長い行列が出来ています。

P1080403 「言問団子」の店も大賑わい。

P1080427 屋形船が幾艘も舫っていて、風流な花見をする人も居て、まさに ”♪上り 下りの 船びとが~ の風情です。