⑥ の「夕焼けだんだん」とこの石段を下りると、TVなどでも紹介される「谷中ぎんざ」(下正面)になります。
夕焼けが美しいことと、下町情緒が感じられる名前として「森まゆみさん」が命名したそうです。なお、森さんは地域誌「谷(中)根(津)千(駄木)」の創刊者。
(この石段と谷中ぎんざを結ぶ方向が西になります)
⑦ 朝倉彫塑館・・・彫塑家朝倉文夫(1883~1964) が住居兼アトリエとして自ら設計・監督をし、8回におよぶ増改築の後、昭和3年から7年の歳月をかけて新築。昭和10年、現在の形となったそうです。
休館日:毎週月・金曜日(祝日の時は、翌日)、年末年始
入館料:一般個人400円、小中学生150円
⑧ 築地塀・・・粘土で瓦を幾重にも積み重ねて造った土塀で、江戸末期のものだとか。
ここへは朝倉彫塑館の前を過ぎ、少し行くと右手に「観音寺」があるので、そこを右折するとこの「築地塀」があります。
長安寺にある「狩野芳崖の墓」・・・幕末から明治の日本画家。文政11年(1828)長州(山口県)に生まれる.
19才で江戸に出て狩野勝川の門に入る。芳崖は晩年の号維新の変革で一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていたが、岡倉天心と共に図画取調所(美術学校の前身)を設ける。
「悲母観音図」は3年精魂を打ち込んで描いた作品で、当時としては明治以降唯一の国宝指定を受ける。また、「不動明王図」は重要文化財と説明されています。
「長安寺」は、⑧の築地塀の場所の近くにあります。
⑨ 「全生庵本堂」・・・山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。
なお鉄舟との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されていて、8月には幽霊が公開されるようです。
「山岡鉄舟の墓」・・・山岡鉄舟は明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣であって、江戸無血開城の時の「勝と西郷の会見」の事前根回しのため駿府まで行っています。
西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われているそうです。
同じく全生庵にある「弘田龍太郎の墓」・・・「鯉のぼり」「千曲川旅情の歌」「叱られて」など、数々の名作を世に出した作曲家(1892~1952)。
東京音楽学校を卒業したのち、本居長世に師事した。唱歌、童謡などのへだてなく作曲をこなした人で、墓石の右には彼が作曲した「叱られて」の碑が見えます。
境内に建っている「お仙と鈴木春信(江戸の人で、享保10年から明和7年(1725~70)まで活躍した浮世絵画家)の碑」が建っています。
調べてみるとお仙の碑文を書いたのはあの永井荷風で大正8年(1919)のこと。
【荷風の撰文】
『女ならでは夜の明けぬ、日本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋のかぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年部門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃』
ただし、笠森稲荷は谷中に3ヵ所あって、お仙の出ていた水茶屋「かぎ屋」はこの大円寺ではない。谷中の墓地が公共墓地になった後、明治6年(1872)に作られた功徳林寺がその位置である。笠森とはもともとは瘡守(かさもり)で、江戸時代には恐ろしい病気であった梅毒?を治してくれるお稲荷さんという 説もあるようです。
⑩ の「枇杷橋跡(合染橋跡)」・・この画像で赤い庇の所を右折すると「蛇道」と呼ばれる道になっています。
以前はここに川(藍染川)が流れていたそうで、歩行ルート図を見て頂くと ⑩ の所にある鎖線が蛇行していますが、これが川を暗渠にした跡で今では蛇行した道になっています。
蛇足ですが、夏目漱石の「三四郎」の一節をお借りしたいと思います。
『谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。』
この「石橋」というのが、どうやらここにあった合染橋では という説があります。
【続く】