208,月と草花
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蔵前駅から地下鉄で「清澄白河駅」まで乗り、また歩き始めました。
この界隈の狙いは「清澄公園の藤」、「清洲橋」、「永代橋」、そして周辺の散策です。
清澄白河駅の左にある「臨川寺」で、境内には「芭蕉由緒の碑」があります。
説明によると、この石碑には「臨川寺」は芭蕉が朝夕に赴いた(1680年頃)道場で、仏頂禅師が芭蕉の位牌をかいた因縁から、俳人神谷玄武が京都にある林双寺に建てられた芭蕉墨直の墨跡を写して建立した」 という趣旨の碑文が掲載されています。
この「芭蕉由緒の碑」の横に、碑文にある林双寺にある芭蕉墨直の墨跡を写して、神谷玄武が建立した石碑「墨直しの碑」もあります となっています。
本誓寺境内に安置されている「迦楼羅石像」で、説明によると・・・仏教を守護する神様とされていますが、元はガルーダと呼ばれるインド神話に登場する神鳥です。そしてこの像の石質は花崗岩で、甲冑を付け、2臂、2翼、3叉の火災光背を持ち、嘴を有し横笛を吹く姿で彫られている となっています。
この「本誓寺」は文亀元年(1501)小田原に創建され、その後江戸桜田、八重洲海岸、馬喰町と移転し、天和3年(1683)現在地に移ってそうです。(場所はルート図でいうと「臨川寺」の下になります)
「清澄庭園」・・・一説には江戸時代の豪商・紀伊国屋文左衛門(1669~1734)の屋敷跡であったと伝えられている。その後、享保年間(1716~36)に上総国関宿の城主久世大和守の下屋敷となり、庭園が形作られたそうです。
1878(明治11)年に三菱財閥の創始者・岩崎弥太郎(1835~85)がこの敷地を購入。社員の慰安や貴賓を招待するために1880(明治13)年「深川親睦園」として開園した。その後も造園 工事は進められ、隅田川の水を引いた大泉水を始め、築山、枯山水、さらには全国から取り寄せた名石を配しての「回遊式林泉庭園」として完成させた と説明されています。
「清澄公園」・・・明治時代に岩崎家が造園した清澄庭園の西部分を戦後整備して造られました。
庭園として完成当時には西洋館などがあったそうですが、関東大震災により、日本館とともに焼失してしまいました。
ここへ来た理由はこの大きな藤の木と花を観たかったからで、後ろの塔は「江戸時計塔」と呼ばれているようです。
面積は、34,921㎡で清澄庭園より約4,000㎡小さいですが、中央の広場を囲んで数々の樹木が植えられていて、憩いの「開放公園」に なっています。
【続く】
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この頁では隅田川沿いを歩いてみることにします。
「清洲橋」・・・説明によると、関東大震災の震災復興事業として永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである となっています。
当時世界最美の橋と呼ばれたドイツケルン市にあった大吊り橋をモデルにしていて、長さは186メートル、幅は22メートルだそうです。
「永代橋」・・・永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりもやや北側、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所で、隅田川で四番目に作られた橋。
永代橋を通る水上バスですが、色々な船型があるようで見ていても楽しくなります。
「永代橋の崩落事故」・・・文化4年(1807年)年8月19日、深川富岡八幡宮の12年ぶりの祭礼日に詰め掛けた群衆の重みに耐え切れず、落橋事故を起こした。 橋の中央部よりやや東側の部分で数間ほどが崩れ落ち、後ろから群衆が次々と押し寄せては転落し、死者は実に1500人を超え、史上最悪の落橋事故と言われているそうです。 当時の橋の長さ約200メートル、幅約6メートル、高さ約3メートルだったそうです。
この崩落事故の供養塔が目黒の「海福寺」境内に移設・建立されています。
ここはかつての「石川島造船所跡」で、江戸時代には鬼平こと「長谷川平蔵」が提唱して造られたという「人足寄場」があった所です。
だいぶ日が西に傾いてきましたが、正面の橋が「豊海橋」で、この橋の向こう側は「日本橋川」になって、日本橋へと通じています。
蛇足ですが。小説「御宿かわせみ」はこの橋の袂に在ったのではないか という人も居るようです。
この道路に架かる橋の名も江戸時代から「巽橋」と呼ばれていたようです。
【今回もご覧下さいまして有り難うございました】
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'08/4/30 「藤の花が満開」というTVニュースを見て、急遽花見を兼ねて出掛けることにしました。
事前に調べてみると、行く予定の「亀戸天神」のほかに、浅草に「曙湯」という銭湯も藤では有名らしいことが判ったので、併せて行くことにします。
スタートは5時方向の「亀戸駅」、ここから北上しながら「亀戸天神」「龍眼寺」「法性寺(ホッショウジ)」を経由し、西方向の浅草へ向かいます。
なお、亀戸界隈は梅を観に行っているので、点在している多くの見所はパスしました。
参道や境内にも多くの露店が建ち並び。賑わいを倍増していました。
参道の両側は藤棚になっていて、奥に見えるのが社殿です。ここは戦災にあって壊滅したそうですが、何本かの藤が戦災にめげず芽を出し、それが今に至っているとか。
境内に植えられている藤の株は100株以上あるそうです。
二段の藤棚には今を盛りと咲き誇っていますが、この花はよい匂いがする ということを初めて知りました。
江戸時代から「くず餅」の店として商っている「船橋屋」で、亀戸天神の直ぐ左にあります。
この日は大入りのようで、店の前には行列が出来ていました。
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亀戸天神から11時方向に行くと、この「龍眼寺」がありまして、ここは江戸時代には「萩寺」として知られていたとのことです。 門柱の左の石柱には「萩寺 史跡」と彫られてい
「江東みちしるべ」によると・・・創建は応永2年(1395)と伝えられている龍眼寺は、萩寺の名で知られ、江戸時代の地誌「江戸名所図会」には萩を愛でる人々で賑わう様子が描かれている。
この龍眼寺境内にある「庚申塔」ですが、万冶2年頃(1660)頃のものだそうです。調べてみると「明暦の大火」の2~3年後のもののようです。
「法性寺境内」にある「柳塚」と呼ばれているようで「昔はなし 柳塚」の碑。 柳家一派が建てたもので、裏側の名文が剥落して内容が判りません。明治の頃のもので、いわれなどはよく分かっていない ということです。
隅田公園の傍にある「墨田区役所」ロビーには、勝海舟ゆかりの「咸臨丸」の模型がありました。
勝海舟は両国で生まれ、幼少時代は錦糸町駅の近くに住んでいた とのことでこの様な展示品があるのでしょう。
この石柱も少し勝海舟と縁があるもので、青年時代「王子権現」で剣術の練習をしていた と言われていますが、その王子権現がこの「牛島神社」だったそうです。
いまの牛島神社は隅田公園に移動していますが、以前はここに在ったことで、この「旧跡」碑があります。場所は「弘福寺」と「隅田川」との間に建っています。
歩いたルートとは前後しますが、この墓は勝海舟の剣術の師匠である「島田虎之助」の墓で、浅草・松ヶ谷の正定寺にあります。
島田虎之助・・・直心影流島田派の剣客。文化11年(1814)、豊前国中津(大分県中津市)に生まれる。
天保9年(1838)江戸に出て、男谷精一郎(勝海舟の従兄弟で幕末の剣聖といわれた)の内弟子になる。剣技の上達はめざましく、1年あまりで師範免許を受け、男谷道場の師範代を勤める。同14年浅草新堀に道場を開く。その道場には勝麟太郎(のちの海舟)が通った。
虎之助は男谷に次ぐ幕末の剣豪といわれた。しかし嘉永5年(1852)9月16日、39歳の若さで病没。墓の撰文は男谷精一郎(信友)による そうです。
これは「三囲(ミメグリ)神社」の狛犬?で、地元の人からは「コンコンさん」と呼ばれているようですが、如何にも愛嬌のある顔をしています。が奉納は享保2年(1803)だそうです。
【続く】
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本所から「言問橋」を渡り、浅草に入ります。 先ずは1時方向にある「銭湯の曙湯」、そこから「花屋敷」「浅草観音」を通り、9時方向の「正定寺」「聖徳寺」にお邪魔。
南下して「誓教寺」、そして5時方向にある「地下鉄・蔵前駅」から「清澄白河駅」まで地下鉄を利用しました。
蛇足ですが、今までの「東京ブラブラ歩き」では、「現地に着いてからの乗り物は利用しない」と決めていたのですが、今回はそのルールを破ってしまいました。
藤の花見」で検索していて見付けた場所ですが、この様な所も調べている人が居て驚きましたが、私にとっては嬉しい発見でした。
「浅草ひさご通り商店街」のスナップですが、職人さんが提灯を貼っていました。
ここは有料なのですが、モギリのお嬢さんにお願いして少し中に入って写したものです。
浅草ロックを走っていた人力車ですが、乗っていたのは綺麗どころの姐さん達。
前から撮ろうと思ったのですが人力車は以外に速いもので、残念ながら・・・
鏝絵の名人といわれた「伊豆の長八」の墓で、ルート図の中央にある「正定寺」にあります。
伊豆の長八(本名・入江長八)は江戸末期の文化12年(1815年)伊豆国松崎村明地(現在の伊豆松崎町)に農家の長男として生まれた。
12才のとき同村の左官の親方関仁助のもとに弟子入りし、23才のとき江戸へ出て絵を狩野派の喜多武清に学び、かたわら彫塑の技を修めてこれを左官の業に応用し、漆喰を以て絵を画き或は彫塑して華麗な色彩を施し、新機軸をひらいて遂に長八独特の芸術を完成させた そうで、伊豆の松崎には「長八美術館」があります。
なお、ここには前の頁に載せた「島田虎之助(勝海舟の剣術の師匠)の墓も在ります。
正定寺の並びに「聖徳寺」があり、そこには玉川上水を造ったことで有名な「玉川兄弟の墓」があり、向かって右が兄、左が弟の墓石だそうです。(都の指定旧跡です)
玉川上水・・・江戸時代、玉川兄弟が江戸の水源を確保するために私財を投じて工事を行い、1653年(承応3年)4月4日開削工事開始、同年11月15日開削工事完了。翌年1654年(承応3年)より江戸市中への通水が開始された。羽村(現在の東京都羽村市)から四谷大木戸(現在の東京都新宿区四谷)までの43kmが露天掘りで、四谷水番所からは木樋や石樋などで地下水道となっていた のだそうです。
聖徳寺から松ヶ谷1丁目交差点を挟んで少し南下すると「誓教寺」があり、そこには「葛飾北斎の墓」があります。
この画像は誓教寺境内にあった「北斎の胸像」で、生涯で90回以上の引っ越しをした とも言われています。
墓石正面に「画狂老人卍墓」と大書し、右側面に辞世の句「ひと魂でゆく気散じや夏の原」が刻まれているそうです。(都の指定旧跡です)
開設によると・・・宝暦10年9月23日?(1760年10月31日?) - 嘉永2年4月18日(1849年5月10日))は、江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師の一人である。
森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。
葛飾派の祖となり、ゴッホなど印象派絵画の色彩にも影響を与えた。代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある。
これから地下鉄で「清澄白河」へ行くのですが、これらのことはまた改めてご報告したいと思います。
【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】
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