214, 勝海舟を追って(その2)
海舟は 24歳の時、本所から「赤坂田町」に越してきていますが、この屋敷跡の標示はなく、場所は港区赤坂 3-13 付近 いまの赤坂みすじ通り辺りのようです。ただ小説などを読むと可成りのボロ屋敷だったようです。
この赤坂田町には24~37歳まで住んでいて、蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開きました。
その後「壮年時代住居跡(港区赤坂 6-18)」に越しています。
この銅像は墨田区役所(墨田区吾妻橋 1-23 )傍にあり、江戸無血開城に当たった40歳半ばの頃の姿を表しているそうです。
像の大きさは約2.5m、台座を含めると約5.5mとのこと。
37~46歳までの壮年時代を過ごした「屋敷跡(港区赤坂 6-13)」で、この頃が一番活躍した時代ではないのかなぁ と思っています。
1,38歳の時、咸臨丸艦長として渡米
2,40歳の時、坂本龍馬が門人となる
3,45歳の時、龍馬暗殺される
4,46歳の時、西郷と江戸城開城の会見を行う
5,46歳の時、静岡へ移動
6,47歳の時、勝安房を安芳と改名
38歳の時、この船の艦長として初渡米
「西郷との会見場所の碑(港区芝 5-33)」で、田町駅の右手傍にありますが、ここは3回目の会見が行われた場所で、薩摩藩の蔵屋敷があったそうです。
勝と西郷の会見に先立って活躍した と言われる「幕末の三舟」の一人で、山岡鉄舟、勝海舟が含まれ、西郷との会見に当たる訳ですがその経緯に2つの説があるという事です。
1説)慶喜から戦後処理を一任された海舟は、西郷との交渉役に泥舟を推薦するが、泥舟は慶喜の身辺警備のため江戸を離れることが出来ず、その代わりに推薦されたのが鉄舟であった。
2説)泥舟は慶喜に対し鉄舟を推薦し、これを受けた鉄舟は海舟に会い、海舟の手紙を持って西郷と会見した。
ただ何れにしても、泥舟の推薦がなければ鉄舟の登場はなく、鉄舟は海舟の手紙を持って西郷と会見しなければ、官軍と幕府軍は戦火を交え、日本は混乱し、更には国が二分され、最悪の場合は当時のインドや支那(いまの中国)のように外国に占領されたかも知れない とまで言われているそうです。
この様なことで、鉄舟と西郷の「根回し会見」は重要なものであったのではないか と思います。
この鉄舟が西郷に会うため静岡に行きますが、この時、海舟の屋敷で保護していた薩摩藩士の「益満(マスミツ)休之助」を同行させ、無事に静岡まで行くことが出来たそうです。
なお泥舟は、鉄舟の義兄に当たります。
山岡鉄舟は 明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣。
西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われている そうです。
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