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2008年6月20日 (金)

213, 勝海舟を追って(その1)

今までのブログは、或る特定の場所を散策しながら 「周辺の名所や旧跡を尋ね歩く」 という内容でしたが、今回は東京にある 「勝海舟」の「揺り籠から墓場まで」と、海舟の周囲に居た人たちを含めて訪ね歩いてみましたので、このことについて載せようと思います。 ただ広範囲にわたりますので地図はなく、所在地を記入しました。

と言いましても全てを知っている訳ではありませんから、至らぬところなど多々あると思います。 もしこの他にご存知の方がいらっしゃいましたらお教え頂けますと幸いです。

【 勝海舟は幼名を麟太郎といい、剣は島田虎之助に師事し、蘭学海洋術を学び、万延元年(1860)幕府軍艦「咸臨丸」艦長として太平洋を横断渡米。

慶応4年(1868)3月13日高輪薩摩邸において、大総督付参謀西郷隆盛と会談し、江戸城の開城を決定して、官軍の江戸進軍を中止させ、江戸百万の庶民を戦禍から救ったことはあまりにも有名。

明治32年(1899)1月21日、赤坂氷川町(港区内)の自邸で死去、享年77歳。】

Photo 「勝海舟生誕の地」碑

文政6年(1823)1月13日この地、男谷精一郎邸内で生まれました。

男谷家は、精一郎の祖父・平蔵の息子の一人が旗本・勝家の養子に入り、勝小吉(海舟の父親)となった。つまり勝海舟とは従兄弟同志になる。

Photo_2 この碑は、この様に子供達が無心に遊ぶ「両国公園(墨田区両国4-25)」の一隅に建っています。

Photo_4 「勝海舟揺籃の地」碑 (墨田区緑4-11) にあるビルの入口に建っています。

本を読むと、この頃は「岡野孫一郎」の傍に住んでいたようで、江戸時代の地図(1856年)にはこの名前が載っています。

Photo_5 「能勢妙見山東京別院 (墨田区本所 4-6)」

海舟が9歳の時、犬に急所を噛まれ、父親の「小吉」がここへ日参し、水垢離をして快癒を祈願した と言われています。

水行は年中行事になっているらしく、毎年2月に行われる とのことです。

Photo_6 それを記念?して建てられた「勝海舟の胸像」が、境内にあります。

Photo_7 少・青年時代に参禅した 向島・弘福寺の山門(墨田区向島 5-3)

Photo_8 その「弘福寺の本堂」

Photo_9 徹夜で剣術の訓練に励んだ「向島・牛島神社跡」で、弘福寺の裏手にあります。

本などでは「王子権現」となっていて、北区の王子権現かと思っていたのですが、ここだそうです。

なお今の「牛島神社」は、もう少し南の墨田公園内に移築されています。

Photo_10 浅草「正定寺(台東区松が谷2-1)」当時の剣術の師匠であった「島田虎之助の墓」

直心影流島田派の剣客で、浅草新堀の彼の道場には勝海舟も通った

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214, 勝海舟を追って(その2)

海舟は 24歳の時、本所から「赤坂田町」に越してきていますが、この屋敷跡の標示はなく、場所は港区赤坂 3-13 付近 いまの赤坂みすじ通り辺りのようです。ただ小説などを読むと可成りのボロ屋敷だったようです。

この赤坂田町には24~37歳まで住んでいて、蘭学と兵法学の私塾「氷解塾」を開きました。

その後「壮年時代住居跡(港区赤坂 6-18)」に越しています。

Photo_16 この銅像は墨田区役所(墨田区吾妻橋 1-23 )傍にあり、江戸無血開城に当たった40歳半ばの頃の姿を表しているそうです。

像の大きさは約2.5m、台座を含めると約5.5mとのこと。

Photo_11 37~46歳までの壮年時代を過ごした「屋敷跡(港区赤坂 6-13)」で、この頃が一番活躍した時代ではないのかなぁ と思っています。

1,38歳の時、咸臨丸艦長として渡米 
2,40歳の時、坂本龍馬が門人となる 
3,45歳の時、龍馬暗殺される 
4,46歳の時、西郷と江戸城開城の会見を行う 
5,46歳の時、静岡へ移動 
6,47歳の時、勝安房を安芳と改名

Photo_12「咸臨丸の模型」 (墨田区役所 ロビー)

38歳の時、この船の艦長として初渡米

Photo_13 「西郷との会見場所の碑(港区芝 5-33)」で、田町駅の右手傍にありますが、ここは3回目の会見が行われた場所で、薩摩藩の蔵屋敷があったそうです。

Photo_14大雄寺(台東区谷中6-1) にある「高橋泥舟の墓」

勝と西郷の会見に先立って活躍した と言われる「幕末の三舟」の一人で、山岡鉄舟、勝海舟が含まれ、西郷との会見に当たる訳ですがその経緯に2つの説があるという事です。

1説)慶喜から戦後処理を一任された海舟は、西郷との交渉役に泥舟を推薦するが、泥舟は慶喜の身辺警備のため江戸を離れることが出来ず、その代わりに推薦されたのが鉄舟であった。

2説)泥舟は慶喜に対し鉄舟を推薦し、これを受けた鉄舟は海舟に会い、海舟の手紙を持って西郷と会見した。

ただ何れにしても、泥舟の推薦がなければ鉄舟の登場はなく、鉄舟は海舟の手紙を持って西郷と会見しなければ、官軍と幕府軍は戦火を交え、日本は混乱し、更には国が二分され、最悪の場合は当時のインドや支那(いまの中国)のように外国に占領されたかも知れない とまで言われているそうです。

この様なことで、鉄舟と西郷の「根回し会見」は重要なものであったのではないか と思います。
この鉄舟が西郷に会うため静岡に行きますが、この時、海舟の屋敷で保護していた薩摩藩士の「益満(マスミツ)休之助」を同行させ、無事に静岡まで行くことが出来たそうです。

なお泥舟は、鉄舟の義兄に当たります。

Photo_15 全生庵(台東区谷中5-4)にある「山岡鉄舟の墓」

山岡鉄舟は 明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣。
西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われている そうです。

Photo_21 これが「全生庵の本堂」ですが、この寺は山岡鉄舟が開祖したと言われています。

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215, 勝海舟を追って(その3)

Photo_17 50歳の時、静岡からこの屋敷に移る。

その後 朝敵とされた慶喜の赦免や、横浜に旧幕臣を送り込んで横浜港発展に寄与したり、静岡に旧幕臣を送り込んで茶の生産を勧めたそうです。

55歳の時、西郷が西南戦争で死去(49歳)
65歳の時、伯爵を受ける。

ここが 50~77歳までの晩年期を過ごした「勝海舟屋敷跡」で、この銀杏の木は当時からあったそうです。

Photo_18 これが屋敷跡の碑で、「史跡 勝安芳邸址(港区赤坂 6-7)」と彫られています。

ただ この屋敷も妻・妾が同居状態で、これを奥さんの「たみ」は嫌い、同じ墓に入らない と言ったそうで、最初は別々の墓でしたが、その後「洗足池の墓」に合祀されたそうです。

Photo_19「お断り;ここから下の4枚については No,211 と重複していますが、どうぞご理解をお願いします。」

海舟は洗足池の傍に「洗足軒」という別邸を建てたそうで、この地が気に入ったそうです。

いまの屋敷跡は中学校になっています。

P1090413 勝海舟夫妻の墓で、右が海舟で、左が奥さん「たみ」で、大田区南千束 2-3 に在ります。

この墓石の文字は徳川慶喜のものだそうです。

P1090412 西南戦争で隆盛が戦死したとき、その死を悼んだ勝海舟が自費を投じて当時の東京府南葛飾郡の浄光院という寺に碑を建てたものを、大正2年(1913)薬妙寺の移転に伴い勝海舟ゆかりのこの地に移されたもの だそうです。

この碑は海舟の墓の左隣に建っています。

P1090411 上の碑には、左の様な漢詩が書かれているそうで、西郷は沖永良部島流謫の頃から漢詩を作り始めたが、この詩はその頃のもの とのことです。

Photo_20 谷中霊園(台東区谷中 7-2 付近)にある「徳川慶喜夫妻の墓」で、右が慶喜、左が正室です。

海舟と慶喜とはいろいろと確執が有ったようですが、皇室には海舟から助命の嘆願を続けていたそうで、その望みが叶い 慶喜は公爵になって晩年を過ごし、77歳で亡くなっています。

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2008年6月15日 (日)

211,洗足池から碑文谷へ(その1)

「勝海舟」について都内に散在している所を歩いていますが、今回は「洗足池」にある「勝海舟夫妻」のお墓へ行ってきました。

Photo

スタートは6時方向の「洗足池駅」で、反時計回りに池を一巡し、11時方向の「碑文谷周辺」を廻り、「武蔵小山駅」がゴールです。

洗足池周辺には「海舟夫妻の墓」の隣には「西郷隆盛への留魂詩碑」「海舟別荘地跡の標識」の他に、「妙福寺」「洗足八幡」などが点在しています。

ここまで来たので少し足を延ばし、「碑文谷」に向かいました。

また碑文谷界隈には「雀のおやど公園」「碑文谷八幡宮」「サレジオ教会」「円融寺」などが連なっていました。

P1090413 「勝海舟夫妻の墓」・・向かって右が海舟、左が奥さん「たみ」の墓ですが、いろいろな事情があって最初からご一緒ではなかったそうです。

墓に彫られれている文字は徳川慶喜によるものとか。

P1090412 西郷隆盛の詩碑 

勝海舟夫妻の墓の左には、留魂祀と西郷隆盛の詩碑が建てられている。

西南戦争で隆盛が戦死したとき、その死を悼んだ勝海舟が自費を投じて当時の東京府南葛飾郡の浄光院という寺に碑を建てたものを、大正2年(1913)薬妙寺の移転に伴い勝海舟ゆかりのこの地に移されたもの。P1090411

上の碑には、左の様な漢詩が書かれているそうで、西郷は沖永良部島流謫の頃から漢詩を作り始めたが、この詩はその頃のもの とのことです。

P1090429_2 P1090430

墓の傍には「別邸跡」の案内がありましたが、その別邸跡は大森第六中学校になっています。

P1090428 洗足池畔にある「妙福寺 山門」ですが、山門を入ると左側には竹林が続いていて趣のあるお寺です。

P1090426弘安5年(1282) 日蓮上人が身延山から常陸国(茨城県)に湯治に向かう途中、 ここ千束池で休息し 傍らの松に袈裟を掛け、 池の水で足を洗ったとの伝えから「袈裟掛けの松」と称される松が境内にあります。 なお、 現在のは3代目と言われています。 また、この故事から千束池を洗足池と称するようになったと言われています。

P1090400_2 P1090399_2 洗足池でのスナップです。

               【 続く 】

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212.洗足池から碑文谷へ(その2)

「洗足池」から11時方向へ北上し、「碑文谷」界隈を散策してきました。この周辺は全くの未知の場所で、地図は持って歩きましたがやはり詳しいことは尋ねなければなりませんでした。

P1090435 先ず着いた所が「目黒区立 すずめのお宿緑地公園」。

入口を入ると直ぐに目に付いたのが「すずめと遊ぶ子供の彫像」、何となく愛らしいポーズなのでパチリ。

P1090437 園内にはこの様な古民家を移築したものもあって、しばらく涼しい風が通り抜ける縁側で一休み。 (但し座敷に上がることは禁止されています)

この古民家は、目黒区指定有形文化財だそうですが、いつ頃のものかは判りません。

P1090438 園内は狭いのですが、この様な竹林があって「すずめのお宿」の雰囲気はありました。

P1090444 「碑文谷八幡宮」・・・社殿は延宝2年(1674)に建てられ、その後明治5年に再建、同20年に改築されました。

P1090442 「碑文谷」の地名の起こりとなったとも言われる梵字を刻んだ石(碑文石)が、柵の奥の祠に保存されています。

Photo これが「碑文石」で、説明によるとこの碑の上方には、中央に大日如来(バン)、左に熱至菩薩(サク)、右に観音菩薩(サ)の梵字が刻まれており、大日を主尊とした三尊種子の板碑の一種とみられます。高さ七五センチ、横(中央)四五センチ、厚さ一〇センチ、上部が隅丸、下部が下脹れのやや角張った形をしております。
恐らく、室町時代のものとみられます とのこと。 或る方からお借りして画像です。

Photo_2 「円融寺 釈迦堂」・・・14世紀末から15世紀初め頃の室町時代初期に造られた建物で、木造建築では23区内では最古といわれる。正面三間・横四間・唐様・単層・入母屋造りで、唐様の建築様式に日本の伝統美が巧みに取り入れられている。
昭和27年、それまでの茅葺きの屋根を銅版葺きに変えるなどの大修理が行われた。

P1090464 都内ではとても珍しい茅葺き屋根の門だったのですが、現在は銅葺きになっています。中の仁王像は永禄2年(1559)の作とされ、都の有形文化財に指定されています。

P1090448_3 「サレジオ教会」・・・説明によると、この聖堂は1954年サレジオ修道会によって落成され 江戸のサンタ・マリア聖堂と呼ばれています。

建築様式はロマネスク式で、奥行き47m、幅16m、高さ23m、塔の高さ36mです

美しいステンドグラスと壁画 そしてパイプオルガンの音 荘厳で素晴らしい所 となっています。

P1090457 教会の内部を撮らせて頂きました。

蛇足ですが、スイスへ一人旅した時、この様な立派な教会ではありませんでしたが、落ち着くのと静かで涼しい思いをしたので、いろいろな教会へ勝手にお邪魔させてもらいました。

【今回もお越し下さいまして有り難うございました】

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2008年6月11日 (水)

210,梅雨の季節

梅雨入り宣言が出ましたが、それらしい雰囲気もなく「紫陽花」だけが咲き始めたようです。

私が散歩やサイクリングに利用している「サイクリング道路」にも、桜並木があったり、紫陽花などが植えられています。

そこで今回( '08/6/7) は柄にもなく「紫陽花」を撮ってみようと思い立って出掛けました。

P1090374_2 P1090378

P1090381 P1090395

P1090384_2 P1090385

P1090386 この散歩中に偶然であったのが、この画像で、大きさは約70センチの鯉。

この川ではヘラブナや鯉が釣れると聞いていましたが、こんな大物が釣れるとは思っていませんでした。

この釣り人の話では、今までで90㎝を釣ったことはあるとか。

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2008年6月 5日 (木)

209,再度「赤坂」へ

'08/6/2 東京へ行く用事がありましたので、その帰りまた「赤坂周辺」を歩いてきました。

P1090342 「赤坂豊川稲荷 社殿」

この左隣りに「大岡越前」の墓があります。なお、これを「廟」と説明している解説もありました。

P1090343 同じく「豊川稲荷 山門」

この豊川稲荷は 元々はここの左手前にあった「大岡越前」の屋敷内に祀られていたものを、明治20年にここへ移転したそうです。

P1090347 ここは「薬研坂」、下って登る坂になっています。

向かいの木立は「赤坂御用地」で、東宮御所や各宮家の住居があります。

P1090350 報土寺にある「雷電為右衛門夫妻」の墓石」

右側に雷電、左側が奥さんの戒名が刻まれています。

雷電の勝率 9割6分 体格は身長197㎝、体重172㎏ 筋肉質で、サウスポーではないか という説があるそうです。

P1090351 「雷電の手形石」 サウスポーの理由は、残されている手形は左手だからだそうです。

山門の所にありましたが、話によると本物はお寺で保管し、これはレプリカとのことです。

P1090353 報土寺の「築地塀」と「三分坂」。距離は短い坂ですが傾斜はだいぶ急な道です。

塀の後ろは「鐘楼」です。

P1090364_edited 赤坂サカスの「TBSビル」

安政の頃、ここは「安芸広島藩」の屋敷で、明治以降から戦時中は「近衛連隊の兵舎」だったようです。

P1090369 私は知りませんでしたが、赤坂サカスで評判高い「フランスパン」の店だそうで、客の行列が絶えないとか。

P1090358 赤坂サカスの一角にある「民家」ですが、何故かこの1軒だけが残っているようで、アンバランスな風景です。

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