259,巣鴨から上野へ(その2)
「白山」まで来るとこの周辺には見所がたくさんあり、今回は寄りませんが思い出すままに書くと、「緒方洪庵(光林寺)」「大田南畝(蜀山人)・本念寺」「半井桃水(養昌寺)」「榎本武揚(吉祥寺)」の墓などがあり、「八百屋お七供養塔(円乗寺)」の他に、「江戸三大青物市場遺跡(石碑のみ)」などがあります。
ここには石柱に書かれている「ほうろく地蔵」の他に「高島秋帆の墓」があります。
正面の奥が「ほうろく地蔵堂」
「ほうろく地蔵」・・・“八百屋お七”にちなむ地蔵尊。天和二年(1682)におきた天和の大火の後、恋仲になった寺小姓恋しさに放火の大罪を犯し、火あぶりの刑を受けた“お七”を供養するために建立されたお地蔵様である。
寺の由来書によると、お七の罪業を救うために、熱した炮烙(素焼きのふちの浅い土鍋)を頭にかぶり、自ら焦熱の苦しみを受けたお地蔵様とされている。享保四年(1719)に、お七供養のために、渡辺九兵衛という人が寄進したといわれる。
その後、このお地蔵様は、頭痛・眼病・耳・鼻の病など首から上の病気を治す霊験あらたかなお地蔵様として有名になった。(文京区教育委の説明による)
【言い訳】お地蔵さんの全体像を撮りたかったのですが、西日が強いため「お顔」だけにしました。
「高島秋帆の墓」・・・高島秋帆(1798~1866)は、江戸時代後期・幕末期の砲術家。
当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は、日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、自らオランダ語や洋式砲術を学んで、私費で銃器等を揃え1834年(天保5年)に高島流砲術を完成させた。
その後、清がイギリスとの戦争であるアヘン戦争に敗れたことを知ると、秋帆は幕府に意見書を提出して1841年6月27日(天保12年5月9日)、武州徳丸ヶ原(現東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。
1853年(嘉永6年)、ペリー来航による社会情勢の変化により赦免されて出獄。その後は幕府の鉄砲方、講武所支配及び師範となる。そして、幕府の砲術訓練の指導に尽力した。1866年(慶應2年)69歳で死去。
蛇足ですが、板橋に「高島平」と言う地名がありますが、これは「高島秋帆の演習」に因んで付けられたそうです。
海蔵寺にある江戸庶民に富士信仰を広めた富士行者「身禄の墓」。
富士山信仰の中興の祖といわれる身禄行者(1733年没)が富士山の岩室で断食入定し、その分骨が埋葬されて入るということで、富士山をかたどった溶岩の山上に墓碑が安置されている。
そして富士信仰は「富士講」として組織され、江戸市中の寺社境内に「小富士」が築かれた そうです。
「浄心寺」・・・元和2年(1682)秋、到誉上人が湯島三組町妻恋坂坂上に建立したが、神田明神界隈で発生した江戸大火によって焼失。
当時春日局のお花畑であり愛願の地蔵尊のあった現在地に移転したとのことで、「春日のお局さんが御愛祈のお地蔵さん」と彫られています。
「本郷追分」で、画面の左へ行くと「白山通り(中仙道)、右は「本郷通り(日光街道とも岩槻街道とも言われています)」
昔はここに一里塚があり、「追分一里塚」と呼ばれたそうで、正面の店は酒屋ですが、江戸時代から続いているとのこと。
暗闇坂にある「弥生美術館・入口」ですが、弥生美術館と竹久夢二美術館は入り口が同じで、弥生美術館を通り、竹久夢二美術館に入れるそうです。
縄文時代のころ、この辺り一帯は東京湾の入り江であった。その後海岸線の後退とともに取り残されて、紀元数世紀ごろ池になったと考えられる。15世紀頃には既に「不忍池」という名で呼ばれていた とのことです。
【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】
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