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'12-47 東海道一人歩き その3

'12/10/31 (水) 快晴

きょうの行程は「戸塚から平塚まで」で、例によって例のように写真ばかりを投稿します

Photo_3昨夜は1時方向の「戸塚」に泊まりました

ここからは旧道(と言っても2車線道路ですが)を南下して国道1号に合流します

合流した少し南に「お軽・勘平道行の碑」が有る程度で、国道沿いの長い退屈を我慢するだけです

が、国道の途中に小さなパン工房が有ったので、ここでコーヒーブレイク

それでも最近植えたのでしょうか、まだ育ちきれない松並木がせめてもの慰めです

更に南下すると「遊行寺」になります

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左:石仏群  8:55
旧街道が国道1号と合流する手間に有りましたが、どの様な由緒があるのか判りません。庚申塔のようなものが幾つか並んでいますが、馬頭観音も含まれいるのかも知れません

右:国道1号の松並木  9:17
旧道が1号線と合流すると広い道路になり、中央分離帯のは松などが植えられていました

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左:道行きの碑  9:22
「お軽 勘平 戸塚山中道行の場」と彫られています

「お軽勘平」とは「仮名手本忠臣蔵」の中にある話だそうです
『殿様の刃傷事件のきっかけを作ってしまったお軽は、恋人の早野勘平と実家のある「戸塚」に駆落ちをする途中、この地で疲れを癒やしていた。
勘平は、主君の切腹やお家取潰しという事件の最中に駆落ちする自分が情けなくなり、腹を切ってお詫びすると言い出した。
お軽は必死に、実家に行けば二人の生活ができるようにする とかき口説き、勘平も気を取り直して 生きていればお詫びが叶う日も来るだろう とお軽の実家に落ち延びて行った』

 
戸塚をPRするのであれば町の中に建てればいいと思うし、こんな場所では車はブンブン通るだけで 人はあまり通らないような場所だし・・・なんて言うのは野暮な屁理屈?

右:コーヒー・ブレイク  10:39
小さなパン工房なので心配しながら「ここでコーヒーは飲めますか?」
もっと小さなテラスで、ユッタリとした気持ちで飲む一杯のコーヒーは好いものです

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左:遊行寺山門(総門)
『遊行寺の正式名称は、「藤澤山無量光院清浄光寺」で、時宗の総本山。
遊行上人の寺ということで「遊行寺」と呼ばれている。
本堂は、関東大震災で崩壊したが、東海道随一といわれる木造建築で、藤沢は遊行寺の門前町として発展した。

総門(冠木門)からの石段は、四十八段と呼ばれ、いろは四十八文字からもじって「いろは坂」とも呼ばれている』

なお、藤沢は遊行寺の門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名前となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今の藤沢市になったそうです

右:本堂

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左:お勤め
小坊主さん と言うには少し歳を取りすぎていますが、本堂を清掃していました。
私は神社・仏閣には時々お邪魔しますが、掃除をしているのを見たのは初めてでした

右:大銀杏と本堂
幹周:7.1m、樹高:16m、樹齢:300年~700年.この大イチョウは雄株です。
かつては樹高が31mもあったが、 昭和57年(1982)の台風で上部が折損してしまい、繭玉のように横に広がった樹形となった。  藤沢市天然記念物

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         板割浅太郎の墓 
(お断り:この画像はお借りしたものです)
総門をくぐったすぐ左にある。 のだそうですが、事前調べをしなかったので、残念でしたが素通りしてしまいました

『浅太郎は国定忠治の子分で、赤城の子守唄でよく知られている。
赤城山で親分の忠治と別れた浅太郎は、長野県佐久の金台寺で仏門に入ったのちに遊行寺に入り、自分が殺した叔父親子の菩提を弔ったという。
その心が認められ、遊行寺にあった貞松院の住職となり、遊行寺が炎上したときは、勧進僧となって全国を巡って、遊行寺復興に尽力したといわれている』

ただの渡世人と思っていましたが、この話には驚きました

Photo_2遊行寺を過ぎると道は西に向きを変え

おしゃれ地蔵や不動堂(道標)を過ぎ、また国道1号と合流し

茅ヶ崎一里塚を過ぎると、今夜の宿「平塚」になります

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左:おしゃれ地蔵  13:00
藤沢市教育委の案内板によると
『女性の願い事なら何でもかなえて下さり、満願のあかつきには白粉(おしろい)を塗ってお礼をする。」と伝えられており、今でも、お顔から白粉が絶えることがないという。
そのような所から、誰からともなく「おしゃれ地蔵」と名づけられたとされる。
形態的には、「地蔵」ではなく、道祖神(双体道祖神)の表現が妥当であると考えられるが、土地の言い伝えを大切にしたい』

東京にもこのような化粧地蔵や白粉地蔵などありますが、どうも私にはキモくて馴染めません

右:不動尊(道標)  13:22  「四谷不動」とも言うそうです
    
右手に剣をかまえた不動明王が道しるべとして立っています
この顔は威厳に溢れていて圧倒されてしまいました

『お堂の前に「是よ里 右大山みち」と刻まれた石碑は、万治4年 (1661年)に江戸浅草蔵前の講中が建てたものです。当時は大山信仰を持っ た江戸の講の人たちがこのような道しるべを競って作ったようです』

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左・右:松並木  13:44   15:31
上の不動尊のところでまた1号線と合流しますが、合流してから松並木を見ることが多くなりました

東海道=松並木 というイメージがありますが、何故なのでしょう

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左:茅ヶ崎一里塚  16:34
昨日通った「品濃一里塚」のような貫禄?はありませんが、茅ヶ崎市の中心部の国道にこれだけしっかりとした一里塚を見ると、何となく嬉しくなってしまいます

右:十月さくら?  15:57
意味のない写真ですが、さくら だと思うのですが珍しかったので パチリ

このまま国道1号線を西に進むと相模川を渡り、今夜の宿「平塚」に入ります

  戸塚スタート 8:30頃
  平塚の宿着  17:00頃
  歩行距離   23.3キロ(36200歩)

  【これで「戸塚から平塚まで」を終わります】

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'12-45 東海道一人歩き その2ー1

'12/10/30 (火) きょうの行程は「川崎から戸塚まで」で、天気は快晴

Photo右上方向の「川崎」に泊まり、左下方向に向かって歩きますが、川崎を過ぎると私には未知の世界になります

道も国道から離れた2車線道路で、八丁畷を通り、鶴見を経由し、生麦に向かいます

途中には「生麦事件の碑」があったり

キリンビールレストランでコーヒーブレイクも楽しみ

Dscn0748旧東海道標識  8:42
泊まった宿の傍に立っていた標識ですが、東海道は駅前大通りと直交するように通っています
このまま直進すればいつの日か京都に着くことになり、逆に行けば日本橋に戻ってしまいます

「いさご通り」と書いてある上に、遠慮がちに「旧東海道」となっているのが何となく嬉しくなってしまいます

道はこのような2車線で歩道が付いていますが、少し歩くといつの間にか歩道は消えていました(笑)

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左:八丁畷駅  9:00
ここは京急線が通っていますが、電車が通るのを待って というのも気ままな一人旅の良いところではないでしょうか

右:供養塔  9:04
左写真のの踏切を渡ると駅の裏側に出ますが、そこに「八丁畷の人骨供養碑」があります

この付近で江戸時代から沢山の人骨が発見され、戦後になっても道路工事などで度々掘り出されたそうです。
東京大学で鑑定したところ、江戸時代のものと判明。
当時の川崎宿で、震災や火災、洪水の災害で亡くなった身元不明の人を、川崎宿の外れのこの辺にまとめて埋めたものであろう とのこと。

これらの人々の霊を供養するために、ここに供養塔が建てられています

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左:市場一里塚  9:22
この付近はかつては海辺で、魚介類、塩の収穫も多く、天文年間(1532~1555)には魚介の市が開かれており、いつか村名も市場(いちば)と呼ばれるようになったという。
日本橋より5つ目の一里塚で、街道の両側に5間四方(9m四方)の塚を造り、塚の上には榎が植えられていた。
ここの一里塚は現在左側のみが残されているが、昭和初期までは榎の大木が繁茂していたとのことです

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鶴見橋関門跡  9;37
説明板によると・・・安政6年(18596)6月、横浜開港とともに神奈川奉行は、攘夷派などが外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に関門や番所を設け、横浜へ入る者を厳しく取り締まりました。

鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際に往還幅(おうかんはば)4間(約7メートル)を除き、左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋を塗ったものでした。
文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために川崎宿から保土ヶ谷宿の間に20ヶ所の見張番所が設けられました。
鶴見村には第5番の番所が鶴見橋際に設けられた とのこと

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生麦魚河岸通り  10:11
「生麦」は鶴見川の河口に広がる漁村で、幕府に魚を献上する御菜八ヶ村の一つとして、また間の宿としてにぎわっていた所である。
海から採れたばかりの魚介類を売っていたが、今でも80軒ほどの店が魚河岸通りに並んでいる

生麦魚河岸HPによると・・・
『少しでも、誰でも、気軽に』をモットーに一般の方に対しても、プロに対しても同じように商売しています。
◆お持ち帰りにつて
氷・スチロール箱はサービス致します。

『少しでも・・・』
 魚一尾、貝一個からの小売りにも応じます。欲しい品を必要な分だけお買頂けます。値札が「1キロ・・・」表示でも気軽にお

声をおかけ下さい!!
『誰でも・・・』
 指定業者しか出入りができない市場もありますが、ここ生麦魚河岸は誰でも気持ちよく買物ができます。
 早朝はお寿司屋さんなどプロの仕入れで混雑するので一般の方は9時半~10時半頃の買物がオススメです。
『気軽に・・・』
 扱い方のわからない貝類や、さばきずらい魚もご安心下さい。貝類は目の前でむき身にして、魚はさばいてお渡しします

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生麦事件跡碑  10:11
「幕末の文久2年8月21日(1862年9月14日)に、武蔵国橘樹郡生麦村(現・神奈川県横浜市鶴見区生麦)付近において、薩摩藩主の父・島津久光の行列に乱入した騎馬のイギリス人を、供回りの藩士が殺傷(1名死亡、2名重傷)した事件である。

尊王攘夷運動の高まりの中、この事件の処理は大きな政治問題となり、そのもつれから薩英戦争(文久3年7月)が起こった』

調べてみたらこんな事が・・・
『1,1862年(文久2年)8月21日に勃発した生麦事件は、起こるべくして起こった事件であった。
生麦事件が起こる前から、夷人斬りが国内で盛んになっていたからだ。
生麦事件が起きる前年には、水戸浪士たちによる東禅寺のイギリス公使館襲撃事件が起こっていた。
また、生麦事件が起こった年には、松本藩士によるイギリス公使館水兵殺害事件が起き、ついで、フランス士官傷害事件などが連続して起こっていた。

さしずめ生麦事件が起きた当時の日本国内の状況は、夷人斬りが横行した時期の真っ只中であり、攘夷運動を幕府に強請するだけあって、薩摩藩が堂々と夷人斬りを成しても不思議はなかった。
生麦事件でイギリス人を斬った薩摩藩士の一人は、「みな夷人が斬りたくてしびれを切らしていた」と回想しており、他の藩士が夷人を切ったと知り、自らもごちそうを得た心持ちがしたと述べている

2,後日談
1682(文久2)年9月に起きた「生麦事件」で薩摩藩士に殺害された英国人男性が事件直前、「日本は最高の国」などと母国の家族に日本の印象をつづった手紙などがロンドンで見つかり、19日から横浜開港資料館(横浜市中区)で初めて公開された

事件から150年となる企画展で、9月には男性の子孫も来日し、シンポジウムなどを通じ、幕末情勢に大きな影響をもたらした事件の多角的な検証が行われる。

犠牲となったのは英国人チャールズ・リチャードソンさんで、1862年7月、勤務先の上海から観光目的で来日。
当時は日本が鎖国体制から開国へとかじを切った時期で、来日前には「日本は大きな貿易国になる」と書き、日本に強い関心を示した。来日後は各地に出掛けていたとみられ、事件直前には「山や海の景色は抜群で、日本は私が訪れた最高の国」と伝えていた』

右:当時の錦絵

余談・・・
生麦駅近くに「生麦事件参考館」という所があって、個人が資料などを集めて公開しているようです

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左:工場内の遊歩道  10:47
キリンビール工場内には自由に入ることが出来、このような遊歩道もあって、子供連れには格好の遊び場になっているようです

右:同じく工場内にある洒落たレストラン  10:40
レストランのオープンは 11:00 からなのですが、魔が差した?(笑)のでしょうか 少し時間が早かったのですがお願いして ビールを一杯

この昼食前の一杯が間違いの元。
スッカリ好い気持ちになってしまい 歩くのが億劫。 それでも 「新子安駅(京急線)」まで歩きましたが、息が切れて仕方が無く(とは言い訳)、「神奈川駅」まで電車のお世話になってしまいました

(その後、この手抜きに味を占め けっこう電車のお世話になったことを白状します)

  【この続きは その2-2になります】

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'12-46 東海道一人歩き その2ー2

「川崎から戸塚まで」の続き その2-2 です

Photo_4「新子安駅から神奈川駅まで」電車利用したので、その2-2 では神奈川駅からの行程です

登り坂を歩くと直ぐにあったのが「料亭・田中屋」

7時方向に下がると「追分」を経由して「保土ヶ谷」
右折して9時方向に行くとイキナリ出合ったのが「権太坂」

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左:料亭・田中屋  11:57
黒塀に案内板(右側)がありますが、これを読んで驚いてしまいました

これによると、この料亭に坂本龍馬と結婚した「おりょうさん」が、ここで働いていた となっていました。もちろん龍馬は既に亡くなっていますが

調べてみると、更に興味津々なことが・・・
以下は検索した内容です
『田中家は、神奈川宿が賑わった当時から続く唯一の料亭で、文久三年(1863)創業の店です
田中家の前身の旅籠「さくらや」は安藤広重「東海道五十三次」にも描かれた由緒正しき店名で、高杉晋作やハリスなども訪れました

坂本龍馬の妻「おりょう」が田中家で働き始めたのは明治7年で、勝海舟の紹介(西郷隆盛の紹介と云う説もあるようです)で働いていたと伝えられています
英語が話せ、月琴も弾くことができた「おりょう」は、外国人の接待に重宝されていました

右:「東海道五十三次」の神奈川・台之景(安藤広重)
海の眺めを楽しむため、台町の坂道沿いにはたくさんの腰掛け茶屋が並んでいました。
その様子は、広重による「東海道五十三次」の神奈川・台之景にも描かれています。
そして坂の上から三軒目に「さくらや」という看板の文字がある そうです

これが、現在の田中家の前身です
幕末の頃、文久三年(1863)に田中家の初代がそのさくらやを買い取り、「田中家」がスタートしました
その少し前、安政6年(1859)に横浜開港が決まり、各国の領事館がつぎつぎとこの近辺に置かれました。また、多くの外国人が商館を構えるなど、横浜はこのあたりを中心に国際都市として発展し、「坂本龍馬の妻おりょう」は龍馬亡きあと、ここで住み込みの仲居として勤めていました

月琴を奏で、外国語も堪能で、物怖じしないまっすぐな性格が、ことに外国のお客様に評判だったといいます

横須賀に嫁いでいき、田中家を辞めた後も、ひいき客からいつまでも話題に上ったということです
龍馬から おりょう にあてた恋文が、今も田中家に残っているそうです』

《私が写真を撮ったのが右の坂道で、この田中屋の裏は崖になっているようで、そして海だった わけです》

なお、晩年の「おりょうさん」はあまり幸せではなかったようで、ここでは触れません

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左:神奈川関門跡碑  12:00
田中屋の前を少し登ると、この碑がありました
説明によると・・・
開港後、外国人があいついで殺傷されましたが、その犯人はなかなか捕えられませんでした。
イギリス総領事オールコックを初めとする各国の領事たちは、幕府を激しく非難しました。
そこで幕府は、横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化しました。
 この時、神奈川宿の東西にも関門がつくられ、そのひとつが西側・神奈川台のこの関門です

右:その当時の関門だそうです

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左:追分  12:56
この追分は東海道と八王子への分岐で、左へ直進するのが東海道で、右折するのが八王子方向になります

右:松原商店街  13:04
この追分から数分歩くとこの商店街で、距離は長くないのですがとても賑わっていました
(ほかの人のサイトを見ても同じように賑わっているようでした)

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左:保土ヶ谷の宿場通り  14:42

右:保土ヶ谷の本陣跡  14:55
『保土ヶ谷宿の軽部本陣跡で、当時の門が残されている。
本陣は小田原北条氏の家臣、刈部豊前守の子孫が代々務めていた。
同家は、問屋、名主を兼ね、保土ヶ谷宿では最も有力な家であった』 そうです

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左・右 権太坂  15:28  15:31
平坦な道を右折すると、イキナリ権太坂の登りが始まりました
チャリの女性はどこまで頑張れるのか 後ろから楽しみに見ていたのですが、直ぐに右折してしまい 残念でした(笑)

Photo_7地図の続きです

2時方向が権太坂で、登り切り左折して少し進むと「投げ込み塚」

塚から戻り、信号を左折すると下り坂で道は狭くなり、少し下がると「品濃(シナノ)一里塚」

ここから更に下って、大通りを陸橋で渡る頃には暗くなってしまい、旧道を間違える恐れがあるのでそのまま大通りを直進し、国道1号線との交差点で右折し、戸塚駅に向かいました

もうこの頃になると暗くなっていて、旧道ではなく大通りを通ったのが正解かも と自分で納得
それでも国道1号は歩道が狭く、凹凸があって歩きにくいこと甚だしい

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投げ込み塚  15:35
『権太坂は約1・5キロも続き、箱根につぐ難所で、行き倒れも多く、二番坂を上りきった横に死人を投げ込む井戸があったと伝えられていました。
昭和36年(1961)の開発で発掘され、多数の人骨が発見されたことに伴い、旅人の霊を慰めようと「投込塚之跡」の碑が祀られました。
発掘された人骨は、西区の東福寺に埋葬されました』

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左・右:品濃(シナノ)一里塚  16;22
『この品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。
旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一里山と呼ばれていました。
東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。

このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました』

川崎の宿を  8:30 にスタート
戸塚の宿に 18:30 着
歩行距離 約23,5キロ (歩数 約37500歩)

  【川崎から戸塚まで はこれで終わります】

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'12-43 東海道一人歩き その1ー1

'12/10/29 (月)

いよいよ今日から「東海道歩き」に挑戦します

スタートは お江戸日本橋 ですが、七つ立ち(午前4時頃) と言うわけには行かず、10時を少し過ぎてしまいました
明け方まで雨が音をたてて降っていましtが、徐々に晴れきて日本橋に着く頃は快晴、暑いくらいです

Photoスタートは1時方向の東京・日本橋からで、きょうの予定は川崎まで歩きます

「前置き」ですが
1,日本橋から川崎までを1枚の地図にすると大雑把になり過ぎるので、2枚に分けました。
これからも、場合によってはこの様に分けて載せるようにしたいと思っています

2,歩行ルートは黒点線ですが、大まかな地図なので正確にはなっていないことを先ずご理解下さい

3,赤丸は途中で立ち寄った所や、名所・旧跡と言われる所です。 
が、なにしろ「足の向くまま・気の向くまま」なので、これも寄ったり、寄らなかったり適当です

4,この道中記は日本橋から順番にアップすれば見て下さる方には見やすいと思うのですが、誠に勝手ですが、原稿?が出来た順番に更新してゆきますので、だいぶご不便をお掛けしてしまうことをお許し下さい

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左:日本橋  10:17・・・(時刻です)
この日本橋を渡り、このまま歩くと京都に向かいます
橋の上には首都高などという無粋なものがあって情緒もヘチマもありませんが、この首都高を撤去しようという動きがあるようです

右:日本橋「滝の広場」  10:29
橋の袂に「滝の広場」というのがあるのをご存じでしょうか?
これは・・・
『橋の南詰東側に間口5間の小屋の晒し場があった。
主殺し・女犯僧、心中者のかたわれなどの処刑者を見せしめのために「晒し箱」に入れ、首かせをかけて晒した』 所だそうです

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左:弾正橋跡公園  10:40
弾正橋は当時交差した堀川の上に真福寺橋、白魚橋と共に、この弾正橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図絵に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であった。

その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。

現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。
尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。

右:八幡橋(旧 弾正橋)で、そのモニュメントの原型が、今では深川の富岡八幡の傍で現役の歩道橋として使われています

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左:東京・銀座の象徴 和光ビル  10:52
筋向かいビルのガラスに映っていたので パチリ

右:「銀座の柳」碑  11:07
  ♪ 巴里のマロニエ 銀座の柳
   西と東の 恋の宿
   誰を待つやら あの子の肩を
   撫でてやさしい 糸柳

もちろん私は聞いたこともないし知らない唄ですが、オバアチャンが唄っていたような微かな記憶があります 
が、唄ってみろ と言われれば唄えると思います(笑)

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左:新橋駅を過ぎようとすると、ちょうど新幹線が高架を走って行きました
あれに乗れば、京都なんてアッという間に着いてしまうのに「歩いて行こうなんて 俺はなんてバカなんだ」

右:芝の増上寺  11:37
東海道からはホンの少し外れますが、増上寺本堂と東京タワーの組み合わせは、パチリ・ポイントになっているようです

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左:薩摩藩邸跡の碑(左)  12:00
『慶応3年10月13日(1867年11月8日)に薩摩藩へ討幕の密勅が下るなどしたが、薩摩藩の協力を得るなどして幕府側は、それを回避するために慶応3年10月14日(1867年11月9日)に大政奉還となり、徳川幕府は朝廷への政権返上を上奏した。
しかし、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられ、幕府は廃止された。

これらの状況下で続出する騒乱の犯人として薩摩藩が裏に控えていると疑った旧幕臣たちは、将軍の留守を守る淀藩主の老中稲葉正邦はついに武力討伐を決意。
12月24日(1868年1月18日)に庄内藩江戸邸の留守役松平権十郎に、「薩摩藩邸に賊徒の引渡しを求めた上で、従わなければ討ち入って召し捕らえよ」との命を下す』
このような状況で焼き討ちされた薩摩藩邸跡で、田町のN○Cビルの敷地にあります

右:勝・西郷・の会見地跡  12;05
『江戸城総攻撃を目前にした慶應4年(1868)3月13日、14日の両日薩摩屋敷において勝海舟と西郷隆盛の会見が行われ、歴史的な無血開城がなされました。
この重要な会見の地については諸説があるようですが、13日の予備的会談は高輪の薩摩屋敷、14日の最終会談はこの碑の建つ田町の蔵屋敷で行われたようです』

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左:東京タワー  12:12
「札の辻」交差点の歩道橋から眺めた東京タワーで、少しの間の見納めでしょうか

右:大木戸跡   12:22
『江戸時代は町ごとに木戸を設け、自身番において警固させました。
江戸の入り口であるため高輪は大木戸と呼ばれ、旅人が旅装を整えたり、送り迎えされるのもここまででした』

余談ですが・・・伊能忠敬は正確な日本地図を作るため、この「高輪大木戸」を起点として測量を初め、17年間かけ自分で考案した測量車を押して全国を歩きました。
寛政12(1800)4月19日55歳の時。地図は忠敬が74歳で死んだ3年後、弟子たちの手によって完成し幕府に献上されました。
この地図を国外に持ち出そうとして発覚、国外追放となったのが かの有名なシーボルトです

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左:泉岳寺  12:30
忠臣蔵でお馴染みの、赤穂四十七士の墓があることで有名ですが、今日はお参りをせずに門前で失礼

右:品川駅前  13:06
駅前の球技場(パチンコ屋)では、客寄せに懸命(後ろの若者はまだ見習いなのか、踊りがサマになっていません) 

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左:旧東海道  13:20
品川駅を過ぎ、左手を行き京急線の踏み切りを渡ると、「旧東海道 品川宿」に入ります
ここにはだいぶ前に来たことがありましたが、今では電線も整理され空が明るく感じました。
出来れば宿場だけでなく、どこもこの様に電線を隠すようにしてもらえると スッキリ・サッパリすると思うなですが・・・

右:品川宿 本陣跡  13:32
本陣跡の中は児童公園になっていて、その遺構らしい物はないようです

  【地図を新しくして その1-2 に続きます】

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'12-44 東海道一人歩き その1ー2

その1-1 の続きで、「品川から川崎まで」を投稿します

Photo_4その1 で、日本橋から品川まで来ましたが、今回はその続きです

品川宿を南下すると品川寺(ホンセンジ)で、この境内には江戸六地蔵の一体が安置されています

更に南下すると「涙橋」

更に少し南下すると「鈴ヶ森刑場跡」になり、

ここで第一京浜国道と合流します

国道に合流すると見るべき物も少なくなってしまい、車ばかりが多い、退屈な区間です

暫く南下すると「聖蹟梅屋敷公園」という名の公園を経由し、更に南下すると「六郷橋」になって これを渡ると直ぐに川崎に入ります

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左:街道筋にあった休憩所  13:34
この松は浜松市から贈られたそうで、樹齢は90年とのことです
この松のほかにも浜松以外から贈られて松は多いようですが、あまり気が付きませんでした

右:品川寺(ホンセンジ)の地蔵さん  13:59
江戸深川の地蔵坊正元が、宝永3年(1706年)に発願し江戸市中から広く寄進者を得て、江戸の出入口6箇所に丈六の地蔵菩薩坐像を造立した。病気平癒を地蔵菩薩に祈願したところ無事治癒したため、京都の六地蔵に倣って造立したものである。 像高はいずれも270cm前後である
それと、ほかの六地蔵は笠を被っているのですが、何故かこの地蔵さんは笠がありません(なお、正しくは六地蔵と言っても、この内の一体は今は存在していません)

私は神仏はあまり気を掛けないのですが、今回は「無事に歩き通せますように」と祈ってしまいました 誠に勝手なことで恥ずかしい

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左:坂本龍馬像  14:42
この立像は涙橋の少し手前にあります
説明によると
『幕末、この辺りは海で、この近くに土佐藩下屋敷がありました。
この頃、龍馬は20歳。江戸に剣術の修行に来ていて、この屋敷に滞在したと言われています
ある日、ペリーが黒船で来航し、その時、江戸にいた龍馬は土佐の命令で警備に付いたと言われています』

右:涙橋  14:58
立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、 またの名を「涙橋」ともいいます。
この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入府後の1600年頃と思われます。
現在の橋は、 昭和9年(1934)に架け替えられたものです。
        涙橋の由来
慶安四年(16511651)、 品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。
ここで処刑される罪人は、 裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。
この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、 「涙橋」と呼ばれるようになりました。
  平成十三年三月三十日    品川区教育委員会

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左・右:鈴ヶ森刑場跡  16:19
見せしめのため、刑場は街道沿いにあった。
日光道中の小塚原(千住)とともに江戸時代の仕置き場である。
江戸時代の刑罰は厳しく10両盗めば死刑であった。
普通は伝馬町の獄内で処刑(打ち首)された。
そして獄門の場合は、この鈴ヶ森か小塚原で首を3日間晒した。
右・・・磔、火炙りの場合は、江戸市中引き回しの上、ここで処刑された。
火炙台、磔台
火炙(ヒアブリ)台の史跡保存会の説明板によると
「八百屋お七を初め火炙りの処刑者は、皆この石上で生きたまま焼き殺された。真中の穴に鉄柱を立て足下に薪を積み、縛りつけて処刑された」とある。

さらに左側の磔(ハリツケ)台の説明は「丸橋忠哉を初め罪人がこの台の上で処刑された。真中の穴に丈余の角柱が立てられ、その上部に縛りつけて刺殺した」とある。

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左:聖蹟梅屋敷公園  16:19
説明によると・・・『江戸時代に和中散(道中の常備薬)の売薬所の敷地3000坪に梅の木数百本と花木を植え、東海道の休み茶屋を作ったことに始まります。
当時は梅の名所として多くの人で賑わい、また明治時代になってからは、明治天皇がたいそうに気に入られ、9度も通ったと記録されています。
その後、所有者が変わり面積も小さくなりましたが、昭和28年より区立公園となり、約30本の梅の木が植えられています』
という小さな公園です

この近くでのハプニング・・・
京急蒲田駅を通り過ぎた所に、小さな児童公園があったので一休み
そこへ「どうされましたかぁ?」と中年の警察官
「お住まいはどこですかぁ?」「これからどこへ行くのですかぁ?」「お幾つですかぁ?」
言葉は丁寧ですが、明らかに怪しむ様子が見え見えです それとも徘徊老人と見たのかも知れません

それはそうですよね。白髪頭がザックを横に置いてクタビレタ様子ですから

そこで「私は千葉市に住んでいて 79歳、これから東海道を京都まで行くつもりです」
「歩いてですか?」 「そうです」

これを聞いて驚いた様子でしたが、それからは警察官の態度が変わりましたね。
とても優しい態度になり言葉遣いも普通になり 別れ際には「どうぞ気を付けて歩いてください」

これが最初のハプニングでした

右:六郷橋からの夕景  17:17

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川崎市内の標識  17:23   17:26
六郷橋を渡ると旧東海道は国道1号と分かれ、2車線の狭い道になりました
スッカリ暗くなってしまいましたが、それでもこの様な標識が建てられています。
いつ頃の物か判りませんが、右の本陣跡の矢印方向を見ても、私にはそれらしい物を見ることが出来なかったのですが・・・

Photo_4このルート図の右上が「六郷橋」になりますが、橋を渡ると旧東海道はメインストリートから外れて2車線の細い?道になりました

そしてきょうの泊まりは「川崎」です
日本橋スタートが 10:15
川崎着が      18時頃
歩行距離  約27,3キロ(43100歩)
この中には、夕食場所を探すのにウロチョロしていたのも含みます

明日は川崎をスタートし、斜め左下に向かって歩きます

【これで日本橋から川崎までを終わります】

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'12-42 東海道一人歩き 途中で挫折

前回 東海道を歩く と宣言?しましたが、途中で体調の変化があり、残念でしたが一旦家に帰ってくることにしました

そこまでの経過を投稿します
Dscn0684                   10/29    日本橋

1,12/10/29 (月)・・・日本橋から川崎まで
歩行距離は約27.7キロ(これには食事するための場所を探すのにウロチョロしてしまった距離を含みます)

2,10/30 (火)・・・川崎から戸塚まで
歩行距離は約23.5キロ 
(新子安駅から神奈川駅まで 京急線を利用)

3,10/31 (水)・・・戸塚ら平塚まで
歩行距離は約23.3キロ

4,11/1 (木)・・・平塚から小田原まで
歩行距離は約21.9キロ
(二宮駅から国府津駅まで 電車利用)

5,11/2 (金)・・・小田原から芦ノ湖まで
歩行距離は約17.1キロ
(畑宿から甘酒茶屋まで バスを利用)

6,11/3 (土)・・・芦ノ湖から三島まで
歩行距離は約20.5キロ
Dscn1058                 11/3  初めて三島で富士が見えた

7,11/4 (日)・・・三島から富士まで
歩行距離は約20.2キロ
(原駅から富士駅まで 電車利用)
言い訳:一昨日・昨日の箱根越えで足が痛んでいるため

8 11/5 (月)・・・富士から清水まで
歩行距離は約19.8キロ
富士川駅から蒲原駅まで 電車利用
興津駅から清水駅まで 電車利用
言い訳:この日は天候が悪くなるとの予報があったので、雨が降らないうちに「さった峠」を越えたかったため

9,11/6 (火)・・・清水から静岡まで
歩行距離は約19.5キロ
この日は午前中雨 その後雨は止んだが曇り

10,11/7 (水)・・・静岡から宇津ノ谷峠を越えて藤枝まで
歩行距離は約27.4キロ
【この夜から 小便をすると血が出るようになったが、これは前立腺ガンが影響しているのだろうか とても気になる
血が混じるのはその後も続いていて、浜松での折り返しの日まで続いた】
Dscn1246                   11/7  丸子宿        

11,11/8 (木)・・・藤枝から掛川まで
歩行距離は約24.3キロ
藤枝駅から島田駅まで 電車利用

12.11/9 (金)・・・掛川から磐田まで
歩行距離は約22.7キロ

13,11/10 (土)・・・磐田から浜松まで
歩行距離は約18.2キロ

Dscn1489                   11/11  浜松城

浜松でギブアップを決めて、翌 11/11 (日) 我が家へ戻りました
(家に戻った翌日から出血は止まっていました ホッとしたからでしょうか?)

東海道歩きは途中までになってしまいましたが、写真を含めて道中記をアップする予定ですので、これから覗いて頂けますと幸いです

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