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'12-57 東海道一人歩き その13

'12/11/10 (土) 快晴
今日の行程は「磐田から浜松まで」

例の血が混じるのはその後も続いていますが、ナニの色が赤く染まるほどではありません
それでも気になるので、東海道歩きは浜松までで 残念ですが一旦我が家に戻ることにしました

今回はこのことを除けば足・腰の痛みもあまりなく、至極快調だっただけに残念のひと言
尤もお得意の電車利用でずいぶん楽をしましたが(笑)

Photo4時方向の磐田をスタート

10時方向に向かうが、今までのような見所があまり有りません

天竜川を渡ると浜松に入ります

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左:常夜灯  9:42
『この常夜灯は平成8年に部分修正されているが、殆ど昔のままのものとか。
その棟札には、文政11年(1822年)の建立と記されている
竜の彫り物があるので、竜燈(りゅうとう)と呼ばれ、数ある常夜灯の中でも貴重なもの』 とのことです

右:ワンポイント松  10:03
何の意味もない写真ですが、昔は松並木があったのかも知れません

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左:小学校校舎
磐田南小学校の校舎ですが、中央のトンガリ帽子が印象的だったので パチリ
けれども昨日の旧見付小学校校舎もこのようなデザインなので、この周辺の伝統的な形なのでしょうか?

右:郷社 若宮八幡宮  10:23
明治7年(1874年)、近隣28村の神社が合祀され、社殿を新築して「若宮八幡宮」となった。
祭神は仁徳天皇、応神天皇と神功皇后の三神である。
現社殿は昭和49年(1974年)に改築された。例祭での奉納相撲は有名である

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左:長森立場の標識(この標識は東海道を歩いていて多く見掛けました)
この周辺は天竜川手前に位置していたので、川越をする人々や反対に越えてきた人たちで賑わった。又ここの名物は「膏薬」で・・・万治年間(1658~1660)から、山田与左衛門家で作り始められた家伝薬で、冬季にできる「あかぎれ」や切り傷などに抜群の効能があるとして、近隣の村人は元より、参勤交替の大名行列の一行や東海道を上下する旅人たちの土産品として大変な人気だった とのことです(表示板の左下に こうやく の文字が見えます)

右:天竜橋跡の碑
説明によると・・・『1873年(明治7)、架橋の第1段階として船橋の計画があり、翌年 船橋が完成
1875年、船橋は木橋に架け替えられた 長さ1163m 幅3,6m で、長い間有料だった
1933年(昭和8)、現在の鉄橋が完成し、木橋は廃止になり、取り壊された』
    (これは磐田市教育委会から抜粋)

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左:天竜川橋  10:54
この天竜川を渡れば「浜松」に入りますが、この天竜川を渡った辺りが「東海道五十三次の距離の中間点」だそうです。
ということはまだ半分残っているわけで、体調と相談しながら後半も愉しみ&苦しみたいと思っています
橋の長さは大井川よりも短いようですが、河原が広く幾つもの川筋が有るのはよく似ています ただ、天竜川のほうが深そうなので水量は多いのかも知れません

右:無題  11:04

Photo_2右上の天竜川を渡り

後はほぼ一本道で浜松に向かいます

浜松では浜松城を見学

今回の東海道歩きは浜松までで、残念ですが我が家へUターンします

Dscn1484明善記念館  12:05
『平成23年(2011)3月からは、約2百年前に建てられた木造2階建ての生家が大幅に改修され、一般公開されていて、天竜川の治水工事に、私財を投じて尽力した「金原明善」の遺品や、遺墨、関係資料のほか、明善と親交の深かった人々の遺墨や、関係文書などが収蔵・展示されていす』

見学させてもらいましたが、私自身、業績の内容が無知であるため、どうもピンと来ませんでした

  ~~~~~~~~

翌 11/11 (日) 曇り
午前中 浜松城を見学

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 浜松城  11/11(日)  9:14
徳川家康の築いた浜松城の城郭は南北約500m、東西約450m。三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。
「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。

徳川家康が駿府城に移ったあとの浜松城は、代々の徳川家とゆかりの濃い譜代大名が守りました。
歴代城主の中には幕府の要職に登用された者も多いことから、浜松城はのちに「出世城」と呼ばれるようになりました。
明治維新後、城郭は壊され荒廃していましたが、昭和33年、野面積みの旧天守台の上に新天守閣を再建、翌年には浜松市の史跡に指定されました

右:本物の鎧  9:34
城内に数点置かれている鎧兜ですが、係りの人の話だと、これだけは本物で他はレプリカなのだそうです

この日の昼頃の列車で我が家に戻りました

蛇足:我が家に戻った途端、例の血が混じる事は発生してません ホッとしたからでしょうか? 尚この事はカミサンが心配するので内緒です

  【以上で東京から浜松までの投稿を終わります。
なお、この続きは医者のご指示を頂き出来れば来春に再挑戦したいと思っています

長い旅行記にお付き合い下さいまして誠に有り難うございました】

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'12-56 東海道一人歩き その12

'12/11/9 (金) 快晴

今日の行程は「掛川から磐田まで」

Photo_33時方向の掛川をスタートし

十九首塚を経由し

珍しい名前に出合ったり、茶屋でお茶の接待を受けたり

楽しい街道歩きをしました

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左・右:清水銀行の壁画  9:13
 
清水銀行の開設・・・『天正十八年、掛川城主であった山内一豊、千代夫人を浮彫刻にした。
若き日の一豊が名馬を欲したところ、千代夫人が密かに蓄えた黄金をもって願いを叶えさせたと云う内助の功が美談として伝えられている。
後日、土佐高知城主として明治維新の山内容堂に至るまで、連綿として城主としての家系を保った』

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左:十九首塚  9:40
『平将門は平安中期天慶二年(939)に関東一円の国府を襲い、国司を追放して自ら文武百官を任命し、いわば朝廷の支配を排除して独立国を組織した武将である。世に云う「承平・天慶の乱」または「平将門の乱」の主人公である。

この乱は翌天慶三年二月十四日に平貞盛と下野国の押領使藤原秀郷らの軍が将門を討ち取って治まった。この事件は単に地方の反乱というに留まらず、日本の歴史が京の朝廷や貴族から武士というものにその軸足を移して行く事になる最初の出来事であったとも云えよう。

さて、将門を討ち取った後、京からの征東副将軍藤原忠舒(タダノブ)も加わって残党の掃討追捕が展開された。将門に臣従していた者達は次々に討たれて反乱は完全に鎮圧された。
藤原秀郷は将門とその一党合わせて十九の首級を携えて京へ向かい、秀郷一行がここ掛川宿に達したとき、京から下ってきた検視の勅使と出会い、当地において首実検が行われた。

首実検はこの塚の近く東光寺の脇を流れる小川(血洗川)で首を洗い、橋に懸けて行われたと云う。検視の勅使は実検が済むと、将門の怨念を忌み嫌い、
「首を京に持ち入るべからず。この地にて打ち捨てるべし」
と命じたと云う。
しかし秀郷は、
「将門 逆臣といえども、屍に鞭打つは礼に非ず」
として手厚く葬ったということである。同年八月十五日のことであったとされている。』

右:地名に
『地元では例年この日に供養祭を営んでいる。そして「十九首(ジュウクショ)」は町の名となり、人々の記憶に残り続け、語り伝えられて行くことであろう。
また、首実検が川の橋に懸けられて行われたことから、これが掛川の地名の由来であるとも云われている。』

この塚は最近新しく建てられようなのであまり趣きがありませんが、うん百年か経てばこの真新しい塚も変わり、その姿・形は史跡らしくなるでしょう

東京丸の内にも、オフィス・ビル街の中に「将門首塚」だけが鎮座してますが、これも検索すると色々な因縁があるような・・・

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左・右:松並木  10:58  11:12
大磯の松並木のような貫禄はありませんが、車も少ない松並木は雰囲気も良くて、歩いていても嬉しくなってしまいます

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左;校庭に一里塚  11:42
『現在地付近がその跡と言われています。  
昭和47年には袋井小学校創立百年を記念して、一里塚碑が建 てられるなどして現在にいたっています。 
ここに歴史を末永く後世に伝えるために新たな塚を設置しま した。           
     平成12年8月改修   袋井市教育委員会』     

この「久津部一里塚」は学校敷地内にあるのですが、この部分だけは竹垣で仕切られていて、外部の者も自由に傍へ行けるようになっています                

右:アッと驚く学校名  11:45
門柱の右には正式な学校名、左にはこのような学校名が下げられていました
傍にいた小学生に「何故どまん中 なのか知ってる?」と聞いたら
「先生が教えてくれた」そうです

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左;常夜灯  12:49
袋井市域でも秋葉信仰がさかんとなり、各地区に常夜灯が建てられました。常夜灯は秋葉山に参詣するための秋葉道や東海道沿いにあるものばかりでなく、その地区の人々が火伏の神への信仰から建てられたものもあ りました。
市内には石で作られた灯籠形と、木造の屋形の常夜灯が合計で十四基現存しています。
新屋の常夜灯は木造屋形で、作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況の たいへん良い常夜灯です。かつては、東海道を行き来する旅人のよい目印となったことでしょう。
  平成十二年八月 袋井市教育委員会

説明板によれば、『高さは3m程の木造で、江戸時代後期に作られたもの。見事な彫刻と檜格子の屋根付き灯籠で見事な物である』 
と書かれていて、更に、格子の間から漏れる常夜灯の明かりが、当時に人には役だった という趣旨のことが書かれていたような気がしますが、これは私の妄想だったのか?

右;どまん中茶屋  12:55
「お茶でも飲んでいきなよぉ~」
突然大きな声がするので、見ると  通りの向こうに茶屋がありました
この辺りは新しい市庁舎?が建っていて旧道が判らず、ルート図とニラメッコをしていたので、茶屋には気が付かなかったのです

さっそくお邪魔しましたが、ここで頂いたお茶はうまかった 本当に美味しいお茶で本場のお茶は甘露・甘露でした
そして、ここでも甘酒茶屋と同じように記帳簿に記帳させていただきました
この茶屋には幾人かのご高齢の方が、ボランティアで旅人の世話をしてくれているようですが、本当に有難い接待で疲れも取れたような気がしました

江戸・日本橋から数えても、三条大橋から数えても27番目の宿場という「どまん中にある宿場」にある茶屋
モットーは「日本で一番小さい歩くための道の駅で、年中無休、日の出から日没まで」 
だそうで 嬉しかったですねぇ  有難かったですねぇ
(蛇足:赤い物体は私のザックです)

Photoどまん中茶屋でお茶の接待を頂き

腰掛け岩・明治の道を歩き

見付小学校の歴史に驚き

磐田駅に向かいます

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左:袋井宿場公園  13:23
ポケットパークのようになっていて、「高札場」が復元されているし、「常夜灯」と「従是袋井宿」と記された標柱も建てられており、更に「雪隠(セッチン)」と書かれたトイレも完備されていました

右:違う小学校校門にも  13:32
上の小学校は袋井東小学校で、ここは「袋井西小学校」
右側には正式?な小学校名が掛けられています

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左:家康の腰掛け石  14:03
何百年も経つと、私が座った石もこのような史跡になるのでしょうか?(笑)

右:境内にあった巨木  14:03
入り口の左側に御神木にもなっているクスノキの巨木がありました。
許禰(コネ)神社は木原権現社とも呼ばれていて、神社入口左の案内板によると
『許禰神社は木原畷と呼ばれる古戦場であり、武田軍がこの地に砦を築き、袋井の北部の久野城に立て籠もる久野氏と一戦を交えた。
これが、家康が惨敗した有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦であった』
とのことですが、歴史に疎いのでよく判りません

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左:須賀神社の大楠  14:16
街道から少し左に入ると、須賀神社があってご神木のクスノキがあります。
樹齢約500年で根廻り15.2m、樹高23.7m、枝張りが東西21.2m南北が27.9m と書かれていましたが、まさに圧倒されるような巨木です

右:明治の道 碑  14:44
と言っても普通の坂道で。ときどき車が通ります
途中には下の「江戸の古道」もあるし、私は気が付かなかったのですが「大正の道」もあるそうです
けれど何故あまり険しいとは思えない段差に、幾世代にもわたる道を造ったのでしょうね

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左・右:江戸の古道 碑  14:45
この道は細くて斜面に向かって直登してます よほど登ってみようかな と思ったのですが、どこに出るのか判らないので止めてしまいました。
けれども、いま思うと登っておけばよかったのに と反省してます

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左:見付小学校  16:06
明治8年(1875年)に落成・開校式をあげた、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎。
明治16年(1883年)に3階部分を増築し、5階の建物となりました。

現在は、教育資料館として、教育関係の資料を中心に展示しています。
当時は、最上階に「伝酒井之太鼓」が置かれ時を告げていたそうで、今は国の史跡に指定されています

記録によると、明治14年(1881)の見付学校の生徒数は男300名・女182名の482名で、就学率は66%だったそうで、この高さにも驚かされました。

余談・・・幕末の頃、日本に来た外国人が、日本人の教育水準の高さに驚いた ということを読んだことがあります

この建物は大正11年(1922)まで小学校として、その後は中学校・裁縫女学校・教員養成所・病院等として使用されました。
現在は学校関係の資料等が展示されています

右・磐田駅前の巨木  16:47
駅前にこんな巨木があるのは珍しいのではないでしょうか?

エピソード1,
磐田の宿でも「ウエルカム、フリードリンク・サービス」があって、宿のロビーなので少し落ち着きませんが、水割りをゴチになり、部屋にテイクアウトしましたが、これはルール違反だったでしょうか?

エピソード2
磐田がジュビロ磐田のホームタウンと言うことを初めて知りました(苦笑)

  掛川スタート  8:50頃
  磐田 着    17:00頃
   歩行距離22,7キロ (35400歩)

  【これで「掛川から磐田まで」を終わります】

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'12-55 東海道一人歩き その11

'12/11/8 (木) 快晴

今日の行程は「藤枝から掛川まで」なのですが、きょうも小用をすると血が混じっているので、またもやお得意の手抜き
藤枝駅から島田駅まで電車のお世話になったことを申告します(笑)

Photo藤枝駅から島田駅まで電車利用したので、島田駅から歩き始めます

西方向に進み、川越遺跡を覗き、大井川を渡り

金谷駅を経由して

小夜の中山峠に向かって歩きます

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左:島田市博物館分館  9:07
川越遺跡の東側にあり、明治時代に建築された旧家を出来るだけ現状のまま復元保存した建物と、展示室や事務室などを増築して平成12年に開館したそうです

川越遺跡は昭和45年に現在地に復元されたものだそうです
『大井川川越制度:「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と称された東海道最大の難所は、実際は川幅が広く深みも少なく宿駅制度制定以前は各人が浅瀬を選んで渡っていた。
また川越賃も定まっていなかったので、人足はわざと深みに入り転んだりして法外な渡し賃を取ったりしていた。こういう状態を解消するために、1696(元禄9)年に川越制度を確立し、川庄屋が置かれた

右:室内展示品  9:09
川越に使った道具だと思いますが、このように展示してあって全く古さを感じさせません
それとも展示用として新たに作ったものでしょうか?

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左・右:川越人足  9:09
話を聞いてみると 
左は気合い充分 手ぐすね引いて客の来るのを待っていました   
右は もうスッカリ出来上がってしまい 今日は休む のだそうです

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左:人足小屋  9:14
川の水深が約136cm(4尺5寸)を越えると、川庄屋の権限で川札発行が停止され、川留となるのは時代劇でお馴染み
この川留は年間約50日もあり、最長で28日も記録したこともあり、余分な出費をさせ旅人を困らせた。』 
(このようなアクシデントがあるので、山間部を通る「中山道」が造られた ということを聞いたことがあります)

右:川会所  9:20  
大井川川越遺跡には、川越業務を管理運営する川会所、人足がたむろする番宿、人足頭が会合に使った立会い宿、人足が川札を賃金に替えた札場などの建物が復元されています

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左:全景  9:19
と言っても右側にもありますから、半景ですね

右:機織体験教室  9:18
この一角で作業をしている女性がいるので、聞いてみると、機織体験教室が有るそうでその準備をしているとのこと
『布を細かく裂いて織ったものを「裂き織り」といい、以前はほとんどの農家で自家用に織られていた。
布は古くなっても捨てずに横糸として織り込み、野良着・帯・コタツ掛けなどとして再利用する』
と話してくれました
(ブログに載せる了解は頂いてあります)

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左:大井川橋  9:35
    
こんなに長い橋は見たことがありません とにかく長い 調べてみたら橋の長さは1026メートル。 長いわけです
途中で何枚か写真を撮りながらでしたが、渡るのに約14分掛かりました (苦笑)

右:川筋  9:48
水量は多くないようですが、広い河原を幾筋もの流れがあり、逆光が眩しい

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大井川橋と富士  9:57
橋を渡り切ってから気が付いたのですが、富士が碧空の中にクッキリと見えるではありませんか 思わぬ富士との再会に何故か感激してしてしまいました

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左:新金谷駅  10:12
旧街道は新金谷駅の傍の踏切をわたります
一度、大井川鉄道の蒸気機関車に乗りたいと思っているのですが、まだ実現していません

右:金谷駅  10:49
この石垣の上が金谷駅で、道は駅の下のガードをくぐります

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左・右:石畳入口と石畳  11:00 11:02
大きな指道票と また石畳です。それもイヤに丸い石ばかり集めて造ったようです。
それにこの石畳は最近復元?したものらしいのですが、造った人たちは試し歩きをしたのでしょうか? これでは濡れていたり、凍っていたら危ない と思いますが (笑)

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左:すべらず地蔵堂  11:19
『平成3年に“平成の道普請・町民一人一石運動”によって甦った「旧東海道金谷坂石畳」の路傍に、有志の手によって建立されたお地蔵様があります。
長い間旅人の足元を守ってきた“滑らない山石を敷いた石畳”に因んで、このお地蔵様を「すべらず地蔵」と呼んでいます。
“安全に・滑らず・転ばず・着実に進めるように”と、試験合格・健康長寿・家内安全などを願いお参りする方がたくさん訪れる』 のだそうです

右:ご本尊  11:19
お堂の中をコッソリ覗いてみると、お互いが手に手を取って祈る姿は それこそカワイイ双体道祖神?で、微笑ましいお地蔵さんでした

この石畳を登りきると、そこにはナント平坦な舗装道路があって 何となく気が抜けてしましました
この舗装道路を右に向かって行くと、またまたナント喫茶室があるではありませんか こんな所に何故?
テラスに出てコーヒーブレイクしたのはモチロンですよ
客は2組いましたが、皆さん車で来ているようです

コーヒーブレイクの後はまた石畳で、今度は下り石畳。これは登りよりも注意して歩かなければなりません(私は特に 笑)
ここを下りきると「菊川宿」に入り、そのまま進むと今度は登り坂に変わりました

この坂を青木坂(箭置(ヤオキ)坂とも)と云い、旧東海道の難所として有名な「小夜の中山峠」の入口です。
ここが思っていたより長くて、この坂は峠の頂上にある久延(クオン)寺まで延々と続きます(約1km続く とありました)

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左・右:茶畑  12:22    12:35
これは青木坂の途中で撮ったのですが。道の両側は全て茶畑です

この辺り一帯を「牧の原台地」と云い、茶畑で有名で周りはすべて茶畑
『標高40-200mで、北側から南側へかけて緩く傾斜している。石が多く、水はけが良い赤土で弱酸性であり、気候が温暖で霜が降りることも少ないため、茶の育成に向いている。
  米作などには向かない不毛の土地であったが、明治維新の後、無禄士族対策の為、牧之原台地に多くの士族が入植し、開拓作業が始まった。そして茶樹を植える事が推奨されたため、現在のような茶畑が広がる日本一の製茶地帯になった』

蛇足…茶畑と勝海舟について
『日本一のお茶どころ静岡。
実はその発展には勝海舟が大きく関わっていた。
江戸から明治への大転換、江戸無血開城を行った勝は、その直後から幕府崩壊の後始末に奔走する。
失業し、生きる術を失った徳川家の家臣たちのために、政府や全国の大名家への再就職を斡旋し、さらに、幕府崩壊に不満を持つ武士たちを言葉巧みに抑え込みながら、自立の道へと促していく。
それが、徳川家の移住先だった静岡での茶畑開墾だった』
ただ、この茶畑かどうかは判りません

この坂の途中でコンビニで買った握り飯の昼食。 ここから眺がめる茶畑や山々は広々としていて景色も良く、一服しながら
 ♪ 唄はちゃっきり節 男は次郎長
     花はたちばな 夏はたちばな 茶のかおり
なんて口ずさんでいました

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左:市境  12:39
島田市と掛川市の市境のようで、私はこれから掛川市に入ります

右:季節外れ  12:40
多分アジサイだと思うのですが? 珍しかったので パチリ

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左:山門  12:48
青木坂を登り切るとあったのが「久延寺(クオンジ)」で、ここが「小夜の中山峠」です(それにしても洒落た名前の峠です)
その境内には「夜泣き石」が置かれてありました

右:夜泣き石  12:49
「夜泣き石伝説」とは・・・
『その昔、小夜の中山に住むお石という女が菊川宿の里へ働きに行っての帰り、中山の丸石の松の根元でお腹が痛くなり苦しんでいる所へ、轟業右衛門と云う者が通りかかり介抱していたが、お石が金を持っていることを知り、殺して金を奪い逃げ去った。

その時 お石は懐妊していたので傷口より子供が生れ、お石の霊魂が傍にあった丸石に乗り移り、夜毎に泣いた。
里人は恐れ、誰と言うことはなく その石を『夜泣き石』と言った。

傷口から生まれた子供は音八と名付けられ、久延寺の和尚に飴で育てられ立派な若者となり、大和の国の刃研師の弟子となった。
そこへ轟業右衛門が刃研ぎに来た時、刃こぼれがあるので聞いたところ、「十数年前、小夜の中山の丸石の附近で、妊婦を切り捨てた時に石にあたったのだ」 
と言ったので、母の仇とわかり名乗りをあげ恨みをはらしたということである。
その後弘法大師がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったと言う』


久延寺を過ぎると道は下り坂になりますが、やはり下りは楽で好いなぁ(笑)

Photo久延寺を過ぎると道は下りとなり

日坂宿まで来ると平坦な道になって

後は国道を歩いたり、旧道を歩いたり

ひたすら掛川を目指すだけで、島田から掛川までの道は全て舗装されていました

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左:夜泣き石跡  13:24
妊婦の霊魂が乗り移り泣いたという夜泣き石が、明治元年までここの道の中央にあったが、明治天皇が来る際に、道脇に寄せられた。
その後、明治初年に東京で博覧会があり、出品されたあと現在の位置に移ったと説明してあります

右:夜泣き石の証拠?
道の真ん中に石がありますが、これが夜泣き石なのでしょう

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左:茶の花  13:18
茶の花を見たのは初めてなので撮りましたが、ピントが葉になってしまい 葉なしになりません(苦笑)
それにしても意外に大きな花なのですね
歩きながら茶木の先の新しい葉をちぎって食べてみましたが、お茶の味は全然しませんでした。 当たり前なのかなぁ(笑)

右:相変わらず道の両側は茶畑が続きます 13:27

長い下り坂が終わると道は「日坂宿」に入って行き、平坦になりました 

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左:日坂宿本陣跡  13:44
『日坂宿本陣の屋号は「扇屋」で、代々片岡家が世襲で営んでいて、敷地は約350坪、建坪220坪、門構・玄関付の建物であった。
しかし1852(嘉永5)年の日坂宿の大火で全焼し再建後、明治3年に店を閉じている。
その後明治12年より跡地を日坂小学校の敷地とし、建物は校舎として利用したが、現存していない』
門を入ると、そこはただの広場になっていました

右:旅籠  13:52
説明によると・・・『日坂宿の旅籠屋で、江戸時代の面影を遺す数少ない建物のひとつです。
江戸より招いた棟梁の手で、精巧な木組みと細やかな格子が造作されたといわれています。
身分の高い武士や公家などが宿泊した格の高い脇本陣格であったことが伺えます。
旅籠屋としては、明治3年まで存続していたようですが、以後も要人には宿を提供していたとも云われています』

唯一江戸時代の面影を残しているのはこの川坂屋だそうで、内部を公開する日もあるようです

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左・右:とも同じ旅籠です  13:48
日坂宿池田屋末広亭で、今でも仕出しなどの営業を続けているそうです

ここに載せた2軒のほかにも趣きのある家が点在していました

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掛川城  16:33
1994年(平成6年)4月 天守が再建された。再建された天守は木造であり、日本初の木造復元天守である。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(42番)に選定される

こんな時刻だったので天守閣はクロ-ズでした
(天守閣に登るのもちょっとシンドっかたので良かったのかも 苦笑)

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掛川市に入ると大きなショッピングセンターがありましたが、もうこんな季節になっているのですね

  藤枝 スタート 8:30
    島田 歩き始め 8:45
  掛川 着 17:30頃
   歩行距離 24,4キロ (38500歩)

きょうオシャベリしたのは喫茶室のオバチャンだけで、誰とも会わなかった気がします

(余談:きょうも小用のたびに血が混じるので気に掛かります)

  【これで「藤枝(島田)から掛川まで」を終わります】

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'12-54 東海道一人歩き その10

今回は「静岡から藤枝まで」について投稿します
きょうの行程は 丸子宿を通り、宇津ノ谷峠を越え、岡部宿を経由して藤枝までです

'12/11/7 (水) 快晴

Photo静岡の宿から駿府城を見ながら南下すると安倍川

更に南下すると丸子宿に入り

西方向に向きを変えてとろろ汁の丁子屋を経由し

宇津ノ谷峠に向かいます

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左:駿府城 堀  8:26
朝の駿府城を右に見て歩き始めました

右:安倍川義夫(ギフ)の碑  9:06
安倍川義夫の碑
説明によると・・・『まだ安部川に橋がなく、川を渡るには人夫を雇うのが一般的であった1738年(天文3年)、
江戸へ出稼ぎに出ていた漁夫が紀州(現和歌山県)へ戻る途中、自力で安部川を渡った際に仲間と稼いだ150両もの大金を落としてしまった。 たまたま居合わせた人夫が財布を拾い、漁夫を追いかけ、財布を届けた。
このお礼を漁夫が人夫に渡そうとしても頑なに受け取らない。 困った漁夫が奉行所から渡してもらうよう取り計らっても受けとらない。
とうとう奉行所は漁夫にお礼を戻し、人夫に報奨金を渡した。
昭和4年、和歌山県と静岡県の学童や有志によって、この美談の碑が建てられた』 とのこと

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左:1軒目の店  9:06
安倍川橋の袂に安倍川餅の店が3軒並んでいました
最初の店の親父さんは何となく無愛想な感じだったので敬遠
それに思っていたよりも高価なのに驚きました

右:あんころ餅(おはぎ)  9:15
2軒目の親父さんは何となく愛想が良さそうだったので、この店で昼飯用のぼた餅を4ヶ(餡を2ヶ・黄粉を2ヶ 計400円)頼みました
この写真は、そのぼた餅を作っている写真を撮らせてもらいました
親父さんの話
「以前は安倍川餅の店が5軒あったが、今では2軒が店を畳んでしまった」そうです

確かにここを通るのは車だけですから、駐車場がないのは致命的かも知れません

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左:安倍川橋  9:21
歩道がないように見えますが、道路の両側に付いてますからご安心下さい

右:安倍川の河原  9:26
どの川も小石の河原が広く、川はその石を避けながら流れています

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左:丸子宿場通り  9:58
ただの大通りですが、松がアクセントになっていて好い雰囲気です

右:丸子宿場通り  10:24
その大通りも20分も歩くとこの様な狭い道になりますが、前方の木が気に入ったので パチリ

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左(10:32)・右(10:35)
街道筋にはこの様な石柱や案内板があって、観光に力を入れてる様子が窺えます
しかし、前にも書きましたが、明治天皇は色々な場所に行っているようですね
田植えをしたとか・水をここで飲んだ 等々 特に「ここで休んだ」は日本国中に有るのではないでしょうか
(そういえば芦ノ湖から三島に下る途中にも石碑がありました それも今では竹藪の奥にポツンと鎮座されてました)

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左:十返舎一九の碑  10:42
右に「十返舎一九 東海道中膝栗毛の碑」
  けんくわする 夫婦は口をとがらして 
        鳶とろろに すべりこそすれ
十返舎一九没後150年を記念しての建立したそうです

右:とろろ汁の丁子屋  10:45
旧道(と言っても舗装道路ですが)を歩いていたら、突然目の前に建っていたのでビックリ
名物ですから食べなくては と思い店の前に行ったら オープンは11時半から 
ここで1時間以上のロスは後の行程に響きそうなので 涙をのんでパス
とろろ汁の老舗で、1596年(慶長元年)創業だそうです

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新・旧の丁子屋を並べてみました

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左:長閑な旧道  11:08 

右:丸子紅茶  11;18
『江戸時代、日本には紅茶はありませんでしたが、明治維新を経て、紅茶も国産化することになりました。
多田元吉は、長州征伐や五稜郭の戦いにも参加した幕臣でしたが、最後の将軍徳川慶喜とともに静岡の地に配流されていました。
その後、慶喜から拝領した丸子の地で大成功したお茶作りの腕を買われ、維新政府に招かれました。明治政府に紅茶作りを任された元吉は、日本人としてはじめてインド・アッサムの地に入り、アッサム茶の原木の種を日本に持ちかえったのでした。
その種をもとに、日本産の紅茶の普及に努め、紅茶は日本の輸出品となり大成功を収めました』・・・これは丸子紅茶HPから抜粋しました

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左:宇津ノ谷峠 道の駅  12:03
道の駅と言っても大きな施設ではないのですが、スピーカーから流れる音楽が喧しく、落ち着きません(この日だけだったかも知れませんが)

右:国道はトンネルで  12:25
『岡部バイパス整備に合わせて平成宇津ノ谷トンネルの建設が1990年(平成2年)に開始され、1998年(平成10年)に開通した。
この開通に合わせて昭和第二トンネルは上り線専用に改修され、国道1号は片側2車線となった』のだそうです

Photo道の駅を過ぎるといよいよ宇津ノ谷集落を通り抜け

明治のトンネルを覗き

宇津ノ谷峠を越え

岡部宿を歩き

今日の終着予定の藤枝を目指します

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左:宇津ノ谷集落の街道  12:33
宇津ノ谷集落の説明によると・・・
『旧東海道の丸子宿と岡部宿の間に位置し、街道を往来する旅人たちが休憩した静かな山あいにある40戸ほどの集落です。
ここでは、街道の面影を残す懐かしい雰囲気を感じることができます。
当地区では、地元住民などによる協議会をつくり、歴史や街道の面影を継承していく活動をしています。
また、静岡市では、この地区を都市景観条例で「美しいまちづくり推進地区」に指定し、街道の面影を残すまちなみの保存に取り組んでいます。

そして、この活動が評価され、国土交通省による平成17年度都市景観大賞「美しいまちなみ賞」の美しいまちなみ優秀賞を受賞しました』

というだけあって、整備されているのがよく解ります
例えば、集落内の路 ほぼまっ平らな見事な石畳です(整備され過ぎのきらいがあります 笑)
家々にはそれぞれ屋号が大きく書かれていました
道を尋ねると丁寧に教えてくれ、「気を付けて」 の一言がありました  等々

右:名物の団子屋  12:34
団子の伝説・・・『昔々、宇津ノ谷峠には旅人を食べてしまう鬼が出没していました。
諸人の難を救おうと「在原業平」は祈願。
すると宇津ノ谷峠にあった延命地蔵堂の地蔵菩薩が、鬼退治を引き受けてくれました。

地蔵菩薩は旅僧の姿で鬼と対峙。
宇津ノ谷峠の鬼は、まず人間の姿で現れました。
その様子を見た旅僧が「本体を現せ」と鬼に言うと、身長6mの鬼の姿に変身。

すると旅僧は「お前の力はたいしたものだ。今度は小さくなって、わしの手のひらに乗ってみよ」と言います。
褒められた鬼は気をよくし、「よし」と答えて小さな玉に姿を変えて旅僧の手のひらに飛び乗りました。

それを見た旅僧はすぐに持っていた杖でその玉を粉砕。
旅僧は「おまえはこれで仏になった。これから旅人を苦しめてはならぬぞ」
と悟し、砕かれて十粒になった鬼を飲み込んで退治しました。

鬼の災いもなくなった宇津ノ谷峠では、道中守護のために、
お団子を数珠の形にして「十団子」を作り、魔除けとしていたそうです』

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左:旧街道  12:17
立派すぎる石畳で、箱根もこのくらい整備されると歩けたと思うのに(笑)

右:これを上から見ると  12:37
この石畳階段の上から集落を見るとこんな案配で、とても趣のある集落です

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左:明治のトンネル  12:42
『明治に入り、文明開化により東海道の交通量が増大したため、当時安倍郡弥勒村の村長であった宮崎総五が地元の有力者にトンネルの掘削を働きかけた。
それを受けて杉山喜平次らが結社を作り、1874年(明治7年)に掘削を開始、1876年(明治9年)に日本初の有料トンネルとして開通した。
その後、1896年(明治29年)火災により焼失するが、1904年(明治37年)修復・改修され再開通した』 と説明されてます

トンネル内は歩けますが、道はどこへ続いているのかが判りませんから覗いただけでした

右:峠の登り口  12:47
ここからいよいよ「宇津ノ谷峠」への登りが始まりますが、道は矢印に従って左に入ると、緩やかに登りながら樹林の間についています (石畳でなくて良かったなぁ 笑)

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左:峠道  12:51
ヤット山道らしいところを歩けました 東海道の旧道と言っても殆どが舗装されていましたから、この様な石畳ではない山道は嬉しいものです

右:宇津ン谷集落を俯瞰  12:52
少し登ると展望台のような所があり、宇津ノ谷集落を俯瞰することが出来ますが、このような風景が広がり味わいのある宿場が山あいに広がっていました
ここで買ってきた安倍川ぼた餅の昼食 そしてノンビリとした一服タイム

こんな時、いつの間にか口ずさんでいたのが
 ♪ あぁ人は昔々 鳥だったのかも知れないね
     こんなにも こんなにも 空が恋しい
でした

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左:峠  13:14
登り一方だった峠道も、ここからは下りに変わります
が、峠にはそれを示す案内も無ければ、道標も立っておらず 至ってシンプル

右:山道の終わり  13:16
正面の石垣の上が山道で、土の道もここから舗装道路に変わります
そして国道を歩道橋で渡り、岡部宿に入ってゆきます

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左:專称寺  14:10
お灸の寺として有名のようですが、私にはお灸はまだ早すぎる?
説明によると・・・
『一ト火灸(ヒトヒキュウ)」と呼ばれる独特の灸治療で名高い。
江戸時代の学僧、随院上人が浄土宗布教の傍ら、キリシタンの仏教への改宗のために諸国を行脚した際に専称寺に立ち寄り、当時の住職に灸治療を伝授したといわれている。
「一ト火灸」とは、小さな灸を何箇所にもすえるのではなく、背中のツボ一箇所だけに大きな灸をすえるというもの。
かっては病人のほか、参勤交代の大名や侍にも評判となり辺りに「岡部の一ト火灸」として知れ渡ったといわれる』

右:大旅籠 柏屋  14:12
(カシバヤ と読むようです)
前を通ると番頭さん?らしい人が、「どうぞお休みください」 と声を掛けてくれました
「いま舞台造りをしているのでゴタゴタしてますが、裏に売店もありますからどうぞごゆっくり」
客は私一人、これで商売になっているのかなぁ と余計な心配
ここで床几に腰を下ろし 一休み。 
そう云えばこのように「椅子に腰掛けて休む」 ということはあまりなく、甘酒茶屋でも丸太を立てた椅子でした

『1998年に国の登録有形文化財に認定された岡部宿を代表する旅籠。
現在は、建設当時の姿をそのまま再現したような歴史資料館と、それに付随する物産館や展示ギャラリーに姿を変えている
江戸時代に建てられた「大旅籠柏屋」は、建物そのものが資料館といえます。
店の間、台所、1、2階の客室などは、当時の旅籠の様子、人々の暮らしぶりが一目でわかる貴重な建物になっています。
また、1階の八畳通し間は、和風庭園をゆったりと眺めながらくつろげる休憩コ-ナ-に、2階の一部はパネルやモニタ-、ジオラマなどを展示した情報コ-ナ-になっています』 
とありましたが、残念ですが中を見学する余裕はありませんでした

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左:柏屋の内部  14:24
やはり東海道は弥次さん・喜多さんでしょう
このようなものでもニヤッとさせられ、疲れた体には良い気付け薬になります

右:舞台の準備  14:17
裏庭に行くと、この裏庭で芝居があるらしく、数人の人が舞台造りの真っ最中で忙しそう
なので、どのような演目なのか聞くのを忘れました

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左・右:岡部宿の町屋  14:33  14:37
宿場通りの所々にはコのような町屋を見ることが出来ます

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左:岡部宿 道標  15:15
大きな岩に「これより東海道 岡部宿」と彫られているので、京都方面から来るとここから「岡部宿 入口」となるのでしょう

右:広重の宇津ノ谷峠
スペースが1枚余ってしまったので、挿入位置が悪いのですがここに入れます

ここを過ぎると国道に合流したり旧街道を歩くことになりますが、あまり写真を撮ることもなく藤枝に向かいました

  静岡スタート 8:10
  藤枝 着   17:30頃
    歩行距離 27,4キロ (42800歩)

ハプニング
藤枝の宿で小用をしたとき、血が混じっているのを知って 愕然
前立腺ガンに異状が出てきたのだろうか そうだとするとヤバイ
もう少し様子を見て、これからどうするかを考えることにしました
   

  【これで「静岡から藤枝まで」を終わります】

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'12-53 東海道一人歩き その9

今回の投稿は「清水から静岡まで」についてです

'12/11/6 (火) 雨のち曇り

Photo_11雨の中を2時方向にある清水の宿をスタート

清水次郎長の生家を探したのですが、迷子になり東海道に戻る

都鳥の供養塔を経由し、草薙駅を過ぎ

8時方向の静岡に向かう

昨日からの雨が今朝も降り続いていて ガッカリ
それでも気力はマァあるので、傘をさして歩き出しましょう
ただ、あまり写真を撮ることが出来ませんでした

先ず清水に来たのですから「清水次郎長の生家」を尋ね、仁義を切らなければ男が廃る と思い、生家の場所を宿で聞きそこに向かって歩き出したのですが、どうもハッキリしない。
人に聞くにも誰も歩いていない。
ウロウロしてる間に自分の行く道が判らなくなってしまい、やむなく振り出しに戻って街道歩きを始めました

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        都鳥(都田)吉兵衛供養塔  10:20
『都田吉兵衛は,通称「都鳥」と呼ばれた幕末のヤクザである。
清水の次郎長の子分であった森の石松は都田吉兵衛の家に厄介になるうちに、賭場の金の貸し借りが原因で吉兵衛との仲がこじれて,だまし討ちにあって殺されてしまう。

東海地方に勢力を張るヤクザの大親分「清水の次郎長」の子分を殺したということで、都鳥吉兵衛は逐電。
次郎長は烈火のごとく怒り彼の行方を捜す。
吉兵衛はこの地の茶屋の1軒に潜んでいるところを遂に見つかり、次郎長一家の急襲を受けて殺されてしまう。

殺された吉兵衛の死体は、次郎長による後難を恐れた人たちによって野ざらしになっていたが、これを哀れんだ人がここに埋葬し、ここに供養塔を建てたという』 ことです
この供養塔も説明板を見て エッ ホント? と思ったくらいです

次郎長映画など観ると、合羽をからげて三度笠、大勢の子分を引き連れて颯爽と歩き、遠くには富士が見えるのが定番のシーンですが、この供養塔から清水駅まで直線距離で約1500メートル なので、このシーンはもっと遠くへ遠征する時だったのでしょうね??

草薙駅の傍を通った時、草薙神社まで遠いでしょうか? 何キロくらいでしょうか? 
と尋ねたのですが、「だいぶ遠い キロは判らない」
とのことなので止めました。それに雨も降ってるし

Photo_12上のルート図の続きで、道は「静鉄清水線」と付かず離れず

護国神社に寄り道し

駿府城公園に行き

繁華街の中で「西郷・山岡の会談跡」を偶然出合ったが、殆ど収穫のない1日でした

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左:静岡護国神社  14:11
『靜岡縣護國神社は静岡県静岡市葵区にある神社で、明治維新から太平洋戦争に至る静岡県出身の英霊7万6千余柱を祀る。
社務所の二階は遺品館になっており、戦没者の遺品約4千点が展示されている 
  明治32年11月13日-「共祭招魂社」として静岡市北番町に創建』 だそうで、立派な神社です

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左:駿府城  16:03

右:当時の石垣  16:07
本丸堀で、三重堀のいちばん内側の堀。
明治29年に埋められたが発掘調査により水路付近が確認され、その姿を現している石垣はその当時のままだそうです

Dscn1196_2           西郷・山岡会談跡  16:21
官軍・西郷隆盛と幕府軍・山岡鉄舟が会談した場所ですが、繁華街の中にこれだけがポツンと立っているだけです

この会談をする前に、山岡鉄舟は「さった峠」で官軍に追われ、「望嶽亭」に隠れて難を逃れた ということは 前に書きましたが、ここでも清水次郎長が脱出後の面倒をみたそうです

  清水の宿 9:10  スタート
  静岡の宿着 16:40 頃  
  歩行距離 19,5キロ (31200歩)

余談・・・静岡でこの宿を選んだのは 「フリードリンクサービスがあるから」 というイヤシイ思いからでしたが、これは選んで正解でした
ビールはもちろん、焼酎・ワイン・ウイスキーなどが並べられ、静岡おでんまでフリーです
但しセルフサービスですが、この方が気兼ねがなくて私には有り難い
それに最近は酎ハイ専科だったので、久し振りの水割りはウイスキーの味を思いださせてくれました

   ~~~~~~~~

蛇足1・・・ここで清水の次郎長について・・・(長文です)

『清水で有名なものといえば清水の次郎長
その次郎長は本名山本長五郎、幕末近い文政3年(1820)1月1日清水湊の船頭の三男として生まれる。
元日生まれは賢人か極道になるという言い伝えから、これを恐れた両親によって母の弟の米問屋山本次郎八の養子にやられてしまう。「次郎八」のところの「長五郎」で、通称「次郎長」である。

子供の頃からとんでもない乱暴者の悪童で、ついには寺に預けられてしまう。
15歳の時に改心し、養父の跡を継いで米問屋の生業に精を出し、資産4~5千両といわれるまでになるが、22歳で再び悪心を現しヤクザとなる。
賭場の上がりと水運の利権を巡る縄張り争いで、対立する者を次々殺傷するその凶暴さで名を知られ、東海一帯に縄張りを広げる。

すっかり悪名高くなった次郎長である、そんなとき起こったのが戊辰戦争である。
その戦争のさなか、鳥羽伏見で敗れ江戸に逃げ帰った幕府に見切りをつけ、北海道にわたりそこで旧幕臣を集めて自分の理想国家を造ろう と考えた男がいた。西洋帰りの榎本武揚である。

次郎長の前半生を「義理の人」とするならば、後半生はまさに「人情の人」と言えよう。
彼の後半生は明治維新の最中、政府の要人との関わり合いの中で花開いた。

特に有名な話に「咸臨丸の事件」がある。
時は明治元年(1868)9月18日、榎本武揚が率いる徳川幕府の軍艦であった「咸臨丸」が、新政府の官軍によって清水港内で攻撃を受け沈没した。
次郎長は傷つく徳川方の軍人を官軍の目の届かぬよう密かに逃がし、また湾内に浮遊する屍を拾い集め、手厚く供養し葬ったのだった。
 
これらの行為が駿府藩の耳に止まり、出頭、詰問を受けたが、次郎長は
「死ねば仏だ。仏に官軍も徳川もない。仏を埋葬することが悪いと言うのなら、次郎長はどんな罰でもよろこんでお受けします」
と答えたのだった。

抗争で人を殺し、自分も生死の狭間を生きた一人の博徒が初老にしてたどりついた境地であった。
このいきさつをあとで聞いた山岡鉄舟は、ただの博徒に過ぎない次郎長が一番高いところからものを見ていることを知って以来、いたく感服し、鉄舟が明治21年に亡くなるまで親交が続き、また次郎長も、自分より17歳も年下の鉄舟に心酔し数多くのことを学び、大きな感化を受けたのである。 

山岡鉄舟、榎本武揚らの知遇を得た次郎長は、その後様々な社会活動をおこなった。
有度山の開発、三保の新田開拓、巴川の架橋、などの地元事業のほかに、遠州相良で油田の発掘事業にも携わったり、明治8年には鉄舟の勧めで富士の裾野(現富士市あたり)の開墾に着手、自らも鍬を握り十年にわたって開墾に励んだのである。(これには勝海舟も力を貸した という話もあります)

また開墾のかたわら、「これからは外交の時代、言葉ぐらい話せなくては」と先駆け、明治9年に清水に英語教師を招いて若者の英語教育を始めたほか、蒸気船の必要を力説し自らも所有して清水港とその発展に尽力した。 
 
明治26年6月12日、74才で大往生をとげ、遺骸は妻のお蝶(三代目)、大政、小政らの子分らの墓に守られて静かに梅蔭寺に眠っている。 

前半生の次郎長はたしかに博徒であった。だが人の功績は死したあとに定まるものであるとするならば、信念を持って地域に尽くした人情家、社会事業家としての晩年の次郎長を無視することは出来ない。
幕末から明治に生きたひとかどの人物であったことは間違いないのである』

【子供の頃、広沢虎造の浪曲を夢中で聞き、次郎長映画を見て拍手喝采したことを思い出します
尤も後半のこれらの事については 浪曲でも映画でも聴いたことも、観たこともありませんでしたが】

  【これで「清水から静岡まで」を終わります】

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'12-52 東海道一人歩き その8

今回は「富士から清水まで」を投稿します

'12/11/5 (月) 曇り
きょう(11/5)の天気予報によると、天気は下り坂で午後には雨が降り出す との事ですが、きょうの予定では「さった峠」を越えたいと思っているので、急遽お得意の手抜きをしなければならないかも (イエ しました 笑)

Photo_4スタートは3時方向にある「富士」

9時方向に向かい、富士川を渡り

南下して「富士川駅から蒲原まで」電車を利用

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左:富士川橋  9:02
富士川に架かる橋は何の変哲もない普通の橋でした

右:橋の上からの眺め  9:10
「富士はあの方角に見えるのだろうなぁ」 と思いながら パチリ

Photo_9富士川駅から蒲原まで 電車を利用したので、蒲原駅から歩き出します

由比本陣跡を通り

由比駅を過ぎ、少し南下すると昔ながらの家が点在してます

望嶽亭から急な登りが少し続くと、後は緩やかな登りがさった峠駐車場まで続き

駐車場はベンチなど置いてあって、展望台にもなっています

ここから道は下りに変わり、興津(オキツ)に向かいます

(思っていたよりも難儀をせずに「さった峠」を越えました)

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左」由比本陣跡  10:35
『由比宿の本陣屋敷跡です。由比宿は小宿で、ここ1軒だけが本陣でした。
屋敷の広さは、間口33間(60メートル)、奥行き40間(73メートル)、面積は1300坪(4300平方メートル)あります』
近くには「広重美術館」や「由比宿交流館」などがあるようですが、先を急ぐのでパス

右:おもしろ宿場館  10:37
ここの2階がレストランになっていたので、時間は早かったのですが「桜えびのかき揚げ」を食べることにしました。
かき揚げは円盤状の形になっていますが、型に入れて揚げるのかなぁ?

1階は 『由比出身の画家の松永宝蔵氏がデザインした人形で旅籠、桶屋、寺小屋など、上り下りの旅人で賑わった江戸時代の宿場町や、本陣奥間に参勤交代のお殿様やお姫様、豪華絢爛な大名駕籠や家臣など本陣の様子が楽しくわかります』
との事ですが、ここもパス

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左:「さった峠は?」  10:56
このレストランから撮った「さった峠」方向ですが、オバチャンの話では「先端の突き出たあたりが さった峠」だそうです

右:桜エビとシラスの町
蒲原・由比に入ると、途端に「桜えびとシラス」の宣伝が多くなります
そこで由比では「桜えびのかき揚げ」と、別な場所で「シラス丼」を食べました。 

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左:街道筋  12:17
街道を南下するにつれて街道筋の家々も変わってきて、その風情を楽しむことが出来ました

右:趣のある家(1)  12:19

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左:趣のある家(2)  12:50

右:名主の館  12:54
『明治期に建てられた東海道名主の館で、低い軒の瓦葺き、正面の潜り戸付きの大戸、格子など当時の寺尾地区の民家の面影をよく残しています。
邸内には小池家に伝わる古文書、高札など貴重な品々が展示してあり、国の登録有形文化財にも指定されています』とのことです

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左:趣のある家(3)  12:50

右:街道筋  12:54

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左:望嶽亭  12:57
『さった峠の東口のふもとにあり、その昔、脇本陣、茶亭として多くの文人墨客で賑わった所です。
明治元年3月7日、幕臣の山岡鉄舟 が官軍に追われ、望嶽亭の蔵屋敷で漁師に変装、隠し階段より脱出し、当時最新式フランス製十連発のピストルを残して行ったと言われています。
当時と変わらない建物、部屋の佇まいとピストルが歴史を物語っています』
(この話も違った見方(異論)を持つ人もいるようです)

地元の人の話では
「ここを管理していたオバアチャンが今は清水のほうに行っているので、このオバアチャンが居る時だけ見学ができる」 
と言っていました 

右:登り口  12:57
今までは緩い登り坂でしたが、この望嶽亭の前からこの様な急勾配の登りになります。
登り口に杖が置いてあり 「ご自由にどうぞ」。
けれどもこの登りもそれほどは長い距離ではなく、登り切るとまた緩い登りになります
(さった峠駐車場に行くと、杖を返す場所がありますから安心です)

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左:何の調査?  13:09
ここ周辺は地滑りが多いようで、「由比地すべり管理センター」があって、この人たちはそこの職員なのでしょうか、交信中のようなので話を聞くことが出来ませんでした

右:ミカン畑  13:14
登り切ると道の両側にはミカン畑とびわ畑にかわり、急斜面にミカンが鈴なり。ビワはあまり見ませんでしたが収穫は終わっていたのでしょうか?

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左:さった峠  14:20
空を見上げると青空が少し見えたので富士が見えるかどうか、ここであの青空に賭けることにして大休止
結局その青空も消えてしまい、願っていた富士は残念ながら見ることが出来ませんでした

さった峠
『清水市と由比町の境界部は、山が海へと突き出す地形となっており、古くは海岸線を波にさらわれぬよう駆け抜ける必要があった。
このため、同様の状態であった新潟県・富山県境の親不知と並び称されたり、東海道の三大難所として語られてきた。このため山側に迂回コースとして造られたのが「さった峠」である』 とのことです

右:歌川広重「由比(さった峠)」

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左:さった峠からの下り
この下りも思っていたほどではなく、国道に合流するとまた退屈な国道歩きになってしまいました  

右:身延追分碑  15:26
『身延道は ここと日蓮宗総本山である身延山久遠寺を結ぶ街道となっているが、鎌倉時代には既にこの道は駿河と甲斐・信濃を結ぶ重要な街道であった。
戦国時代、甲斐の武田信玄が駿河国に侵攻した時もこの道であった』

清水に近付くと小雨が降り出しましたが、雨降りのスタート?が遅かったので、無事に「さった峠」を越えられたのはラッキーな1日でした

  【以上で「富士から清水まで」を終わります】

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'12-51 東海道一人歩き その7

今回は「三島から富士まで」について投稿します

'12/11/4 (日)快晴
一昨日・昨日の箱根越えが足に来て、特に脹ら脛と大腿部の上が張っていてとても痛い。
ただ今日の行程はほぼ平坦な道だと思うので、これが救いです

Photo2時方向の三島をスタートし

少し東海道とは離れますが、「柿田川公園」に寄り道し

八幡神社を経由して

沼津方向に向かいます

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左:三島市内からの富士  9]48
市内を歩きながら振り返ってみると、富士が白いマフラーをしていました 

右:茶室のある庭園  10:17
柿田川公園内にある茶室の庭園で、風情がある庭なので パチリ

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左:柿田川公園  10:46
これがどうも正面入口のようなのですが、どこからでも入れるようなので、撮った時刻が不自然なものになりました

右:柿田川の湧水  10:52
『説明によると・・・
「柿田川」・・・ほぼ全量が富士山に降った雨が三島溶岩流に浸みこみ、その先端部から湧き出る大量の地下水である。
他にも富士山の湧水は、忍野八海や白糸の滝、湧玉池が有名である

「柿田川公園」・・・湧水地から湧き出る湧き水に源を発し、清水町役場付近で狩野川に合流する清流です。
水温は一年を通して約15度前後で安定しています。
またミシマバイカモなどが有名です。
柿田川湧水郡は名水百選にも選ばれる名水で、湧水量は日に70万トンから100万トン程度で、東洋一を誇っています』

園内はとても広いようですが先を急がなくてはならないので、或る湧水を撮ってみました
ここにいた地元に人(だと思います)の話だと、「東北大震災以降 湧水量が変わったようだ」 と言っていましたが、真偽は判りません
が、富士山噴火とも関わりがあるのかなぁ 
大震災の直後、富士宮で直下型の地震もあったし・・・
富士山噴火などに影響しなければ良いのですが、なんだか心配です

湧水はほかのサイトで見るともっと激しく沸く所があるようでした

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左:八幡神社社殿  11:16
柿田川公園で休んでいる時、地元の人が
「珍しい対面石というのがあるから、是非行ってみなさい」
と教えてくれた八幡神社で、街道からは少し外れますが寄り道しました

右:対面石  11:15
これが教えてくれた「対面石」で、その謂われは・・・富士川合戦に勝利した頼朝は上洛せずに東国を固めることを決意、黄瀬川に戻って宿とした。
そこへ義経が奥州平泉から駆けつけ頼朝と涙ながらに対面した。
母親は違っても、ともに平治の乱で非業の死を遂げた源義朝を父とする兄弟である。
その時、頼朝と義経が腰掛けたといわれる二つの石を対面石という
左奥に頼朝が座り その右(写真では中央)に義経が座った のだそうです 

この対面石は八幡神社の左奥にあります

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左:一里塚跡  12:24
沼津一里塚公園 と表示されていてました
右側に標識が立っていますが、これは東海道共通の標識なのでしょうか、多くの所にこれと同じデザインで宿場名と旧跡?名が彫られています
この標識には、上に「沼津」、下には縦長で「一里塚跡」となっていました

右:玉砥石  12:24
この公園には、この玉砥石も置かれています
説明によると・・・『古墳時代(1000~1500年前)のこの地方に、装身具の玉類を作るのを業としていた人たちが住んでいた玉造郷という村があったといわれ、この石は、その人たちが玉を磨くのに使用したものと思われている。
この大小二つの柱状石には数条の直線的な溝があり、これは古代に玉を磨いた痕跡であると伝えられているが、詳細は不明である。
この玉砥石は、県指定有形文化財(考古資料)に指定されている』 そうです

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沼津商店街で昼食を摂り、ブラブラしているとブラスバンドの音が・・・
それは沼津市商店街有志の吹奏楽団で
皆さん私服ですが心を込めた演奏、中でも指揮者は身振り・手振りも鮮やかで、観客は拍手大喝采でした

Photo_3沼津を過ぎるとまたもや単調な国道歩きとなり

国道からそれて千本松原へ

そして原駅から富士駅まで、電車のお世話になってしまいました

Photo_2                  (これはお借りした写真です)

   ♪ 松原遠く消ゆるところ
       白帆の影は浮かぶ
      干網 浜に高くして
       かもめは低く波に飛ぶ
         見よ昼の海
        見よ昼の海

こんな風景を思い浮かべながら「千本松原」に入りました
そして千本とはいうものの、現在は30数万本以上の松があるのだそうです
松原の中は遊歩道が造られていて、散歩やジョギングの人がチラホラと行き交ってます

早くこの歌の風景が見たい の思いで海岸に近づくと  アッレー 海岸が無い !!

そうなんです。
目の前に高い壁が立ちはだかっているです。
その高さも7~8メートルはあるのではないでしょうか

これは1976年に東海地震説が発表されてから、駿河湾の海岸では津波対策が盛んに行われるようになり、松原と海岸の間には堤防が築かれていたのです (ルート図ではブルーの点線)

千本松原を検索すると・・・『静岡県沼津市の狩野川河口から、富士市の田子の浦港の間約10kmの駿河湾岸(正式名称富士海岸、通称千本浜)に沿って続いている松原。
松林越しに富士山を望むことが出来、数々の文人たちに愛されたということでも知られている。
中でも大正15年(1926年)には歌人若山牧水が、静岡県の伐採計画に対し新聞に計画反対を寄稿するなど運動の先頭に立ち、計画を断念させた話は有名である。
日本百景、日本の白砂青松100選にも選ばれている』 
は昔の話になってしまったようです

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左:堤防から  15:41
堤防の上から撮ったもので、何の意味もありません(苦笑)

右:千本松原  16:04
チョット残念だったのは、心無い人の仕業と思いますが遊歩道や松原内にゴミが多かったこと

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堤防からの富士  15:49
防潮堤の上から眺めた富士ですが、高い所からなので松原越しの富士が見事です(防潮堤の狙いはこれなのかなぁ 笑)

  三島スタート  9:00
    富士 着    17:10

    歩行距離 20,2キロ (31900 歩) 

  【三島から原まで を終わります】

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'12-50 東海道一人歩き その6

今回は「芦ノ湖から三島まで」を投稿します

’12/11/3 (土) 晴ているが雲が多い

Photo_21時方向の芦ノ湖を出発

直ぐに杉並木と箱根関所跡になり

ここを過ぎ、旧街道を行くと箱根峠に向かう登り石畳になり

登り切ったところが箱根峠

ここからは下りばかりの石畳が暫く続きます

お断り・・・この下りでも多くの写真を撮りましたが、あまり地図にも載っていないルートなので、撮った場所の特定が出来ません
どうぞご理解下さい

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左:杉並木  8:47
説明板には・・・『芦ノ湖畔の旧東海道にあり、江戸初期の1618年に箱根宿を設けた時に植えられたと伝えられる国指定史跡です。元箱根から思賜箱根公園まで約500mに400本を超える杉の美しい並木が続き、中には幹周りが4mの大木もそびえています』 となっていました

右:箱根関所跡  8:54
「関所と女性」
女性が箱根関所を通行するためには証文が必要でした。
この証文には、たとえばほくろの位置や数など通行する女性の身体の特徴などが書かれていました。
しかし人間の行うことです、たまには証文の内容を書き間違えることもありました。そうなると、箱根関所を通行することができず、証文を再発行してもらわなければなりませんでした。
江戸時代、女性の旅は本当にたいへんだったようです

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左:登り石畳  9:55
きょうもまた石畳と付き合わなくてはなりません
それでも昨日の登りと比べると凸凹してますが、歩きやすそうな気がします

右:国道へ到着  10:14
この登りも20分ほどで国道に合流し ヤレヤレ
そこにチャリに乗った若者が数人、話を聞いてみるとこれから名古屋まで行く とのことです
高校生かも知れませんがお互いにエールを交換すると、若者達はチャリキッテ走り去っていきました

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左:箱根峠(宮城まり子の作品)  10:40
箱根峠に来ると新箱根八里記念碑の峠の地蔵があります
峠の地蔵は2003年に出来た新しい地蔵で、8人の著名女性が書いた言葉が刻まれている。
宮城まり子・・・『私は彼等と共に泣きまた共に笑った彼等は、ただ私と共にあり私はただ彼等と共にあった』
私個人としては、この宮城まり子さんの作品が素朴だし、言葉も気に入ってます

右:旧東海道  10:49
旧街道に入るとイキナリこんな竹笹トンネルを潜らないとなりません。それも腰を屈めて

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左:兜岩  11:06
豊臣秀吉が小田原城を攻める際、あまりにも急坂なのでひと休みするためカブトを取り、この石の上に置いたといわれています

右:下りの石畳  11:21
三島側の石畳は整備されているようで、昨日に比べると歩きやすく有り難い
話によると、雨が降ったり凍ったりすると滑りやすくなり、難儀するそうです

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左:雲助の墓  11:55
雲助の頭役をしていた松谷久四郎(九助)の墓と言われ、終生酒を愛したことからこの墓には、前面に徳利と盃が浮き彫りにされています

右:下りの石畳  12:43
昨日の登りと比べると、この三島側の石畳は歩きやすいような気がします それとも慣らされてしまったのでしょうか?
ただ石の並べ方は凹凸が少なく揃っているような気がします

Photo右上から左下方向に下ってくると、国道に合流

ここにこの「箱根路」標識

この傍には「一里塚」があり

今回初めて見た富士に感激し

三島大社に到着します

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左:箱根路     15:14
下り石畳もなくなり、一般道路を更に下ると、国道に合流しましたが、そこにこの大岩がありました

右:松並木  15:19
大岩?を過ぎると、今度は暫く松並木が続きます
この辺りは三島市の郊外になるのでしょうか、家屋も多く見えるようになりました。が、この歩道がまたも石畳。
ここまで石畳に拘る気持ちは判るような気がしますが、この風景に惹かれて散歩する人も多くなるのだおもうのですが、捻挫や転倒などの怪我などした場合は、自己責任と言うことでしょうか? チョット気に掛かりました

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左:錦田一里塚   15:28
この一里塚は江戸時代は「初音ヶ原の一里塚」と言われていました。
初音ヶ原とは源頼朝がこのあたりを通ったときに、ウグイスの初音を聞いたということに因んだ地名だそうです
独り言:旧名のほうが良い名と思うけれどもなぁ

右:紅葉  15:31
今回の街道歩きで初めて見た紅葉で、これが最初で、これ以降紅葉を見ることはありませんでした(怒)

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東京からここまで歩いてきましたが、ここで初めて富士を見ることが出来、感激 !   15:59
 
4時に近い時刻だけれど富士を見ながら一服タイム やはり美しい山だ  
腰を下ろして富士を眺めているうちに
 ♪ 旅の空から見た富士山は
     遠い故郷のあの娘(コ)に似てた
    旅の空から富士山見たら
     遠い故郷のあのコを思うた
 
 
を口ずさんでいました

富士というのは不思議な山で、乗り物に乗っていても、歩いていても「富士は見えるかなぁ」と思い、見えると何故かホッとしてしまいます 何故だろう?

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左:三島大社 社殿  16:17
説明によると・・・
『創建の時期は不明ですが、古くより三島の地に鎮座し、奈良・平安時代の古書にも記録が残ります。
三嶋神は東海随一の神格と考えられ、平安時代中期「延喜の制」では、「名神大」に列格されました。
社名・神名の「三嶋」は、地名ともなりました。
中世以降、武士の崇敬、殊に伊豆に流された源頼朝は深く崇敬し、源氏再興を祈願しました。神助を得てこれが成功するや、社領神宝を寄せ益々崇敬することとなりました
本殿は重要文化財に指定』

右:巫女さん  16:18
神社と云えばやはり巫女さんを外すことが出来ません

余談1,
写真はないのですが、私が経験したことがないほどの下り急坂がありました。
坂の名前は「強飯(コワメシ)坂」。
現在の傾斜は12度であるが、江戸時代には平均20度で、最大は40度の急坂だった、という。 
あまりの急坂で、背負った米が人の汗の蒸気で蒸されて強飯となってしまったことから、強飯坂の地名が生まれたというから想像もできないほどの急坂だったのだろう とのことです
きょうは下りですから何ともありませんが、「これを登れ」となると・・・私はゴメンです

余談2
昨日と今日にかけて箱根を越えましたが、今日は土曜のせいでしょうかハイキング姿の人と出会うことがありました
それにしても彼ら・彼女らは足が速く、とても追い付くことが出来ず ここでも口惜しい思いをさせられてしまいました

   芦ノ湖スタート   8:25   
   三島 着      17:10 頃
   歩行距離     20,5キロ (33100歩)
    (但し、これには三島のドコモショップへの往復も含まれている)

  【「芦ノ湖から三島まで」を終わります】

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'12-49 東海道一人歩き その5

きょうは「小田原から芦ノ湖まで」について投稿します

'12/11/2 (金) 午前中は快晴 午後から雲が多くなる

Photo右上の小田原の宿をスタート

横方向に続く旧街道を進み

箱根湯本駅の手前にある三枚橋を渡って、旧街道を歩きます(三枚橋を渡ると道は登りになり、それが続きます)

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左:小田原城堀  8:30
小田原城の朝の堀をかすめるようにして 芦ノ湖に向かいますが、「鬼が出るか・仏が出るのか」 自分としては な~に何とか歩けるだろう の気持ちです

右:旧道  8:54
国道から旧道に入ると、2車線ですが車の数はメッキリ少なくなってしまい、安心して歩くことが出来ます

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左:宗徳院地蔵堂  9:00
江戸時代中期の建築で、県指定建造物。
「板橋の地蔵さん」と呼ばれて親しまれている とのこと
境内では地元の人がグランドゴルフに夢中のようなので、本堂に近づくことを遠慮してしまいました

右:旧道  9:23
相変わらず2車線道路ですが、このように狭くなっていてすれ違いも場所によっては要注意。
けれども歩いていても長閑な気分になってしまいます

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左:癒される飾り  9:39
何の意味もない写真ですが、このような何気ない飾りもとても癒されます
中山道を歩いた時、木曾街道でもこのような飾りを多く見ましたが、飾るかたの優しさが伝わってきます

右:入生田駅近くの旧道  9:40
箱根登山鉄道の「入生田駅」に近付くと、旧街道にも商店が増えてきました。が、それもこの一角だけで静かな旧道に戻ります

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左:旧道と登山電車  9:58

右:三枚橋から  19:19
旧街道は国道1号線と合流し、暫く歩くと三枚橋を渡って旧道に入ります
観光バスやマイカーはこのまま直進し、小涌谷・芦ノ湖・湖尻に向かうのが普通のルートです
また正月恒例の箱根駅伝も三枚橋は渡らず直進します
正面に白く見えるのが「箱根湯本駅」です

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左:寄せ木細工  10:37
旧道に寄木細工の店があったのでお邪魔して見せて頂きました。時間があればユックリと見たいと思いますが、そうもしていられません(店の方にはブログに載せる了解を頂いてます)

右:双対道祖神  10:19
双対道祖神は信州だけ と思っていましたが、今までにも何ヶ所かにありました
これはだいぶ古そうですが、調べればその由緒ついては興味津々なのですが・・・

Photo_2狭い2車線道路の旧東海道はダラダラした登りがいつまでも続きます

初花堂を過ぎるとヤット登山道に入り口に着きました

登山道は石畳で、これが歩きにくい

登山道が旧東海道に合流すると、そこが「畑宿」

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左:初花堂  11:57
『浄瑠璃 「箱根霊験躄仇討(ハコネレイゲン イザリノアダウチ)」
飯沼勝五郎は,父の敵を追って箱根山中まで来たが,ここで病を得て寝込んでしまう。 
妻の初花は昼は山に分け入り、薬草を採って夫の看病をし、夜は夫の病気治癒と敵討ちの成就箱根権現に願い、また、向山の滝まで行き水垢離をとった。
 
懸命の看病の結果、勝五郎の病も快方に向かい、慶長四年八月、ついに父の仇の佐藤兄弟に出会い、見事仇討ちを果たして本懐を遂げる。 
なお、芝居では、仇の名は滝口上野、勝五郎は兄を殺され、初花は父を殺されたことになっている。 
また、初花は返り討ちにあい、その亡霊と箱根権現の霊験によって、勝五郎の足は治り、仇を討てたことになっている。』

こうなると情けないのですが私には別世界 見ることはもちろん 聞いたこともありません(苦笑)

右:登山道入り口  12:00
初花堂から少し登るとこの道標があり、左に向かうと山道になるはずです
道標には
    「須雲川自然探勝歩道
      畑宿    1700m
        元箱根 6200m
                     神奈川県」
となっています (なお、元箱根=芦ノ湖です)

【けれども今になってこの写真を見ると、「この位の距離をナゼ歩けなかったのだろう」 本当に情けない】

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左:マァマァな登り  12:06
歩き始めると、山道はこのように登り階段に造られていて、歩く者に安心感を与えているようです(苦笑)

右;丸木板橋?  12:14
幅は40センチくらいでしょうか。
若い頃なら面白がって渡ったでしょうが、今は違ってこれ位でも慎重に歩かなければならないのです。それだけ足元が覚束なくなってしまったのです

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左:こんな石段  12:20
土の階段が今度は石の階段になりました それも不規則なものです

右:江戸時代  12:24
遂に待望の石畳 それも「江戸時代の石畳」なんて書かれていて、どんなものだろう と興味が沸いてきます
★ 案内板に英語説明があるのが いかにも国際観光土地らしい

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左・右:江戸時代の石畳  12:30
歩いた感想は 凹凸が不規則で先ず歩きにくい
それでも左は両側に土の部分があるからそこを歩けば良いのですが
右にはそれが無く、石の上を歩くのですが不規則な凹凸や傾きがあって、石を選びながら歩かなければならず、これが厄介&疲れる原因 とは言い訳です

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左:畑宿に到着  12:49
ハァハァと息を切らせてヤット畑宿の到着
それでも登山口からここまで 49分きり経っていないのにこの疲れようは ナンテェコッタ 
この先が思い遣られる どうしよう

休んでいると土地の人が
「どこまで行くのか?」 私「芦ノ湖まで」 
すると、「これから先、甘酒茶屋までもっと急な登りになる」
これを聞いて これまでの登りのことを考えて「バスで甘酒茶屋まで行こう」と衆議一決?(笑)
土地の人も「その方が良い そうしなさい」 と嬉しいバックアップ

右:畑宿一里塚  13:04
この一里塚は昔の文献や資料を基にして再建した とのことです

【ハプニング】
「コンビニで昼飯を買って どこかで休みながら食べよう」と予定して歩いていましたが、2軒素通りし、次で買おう としたのですが、3軒目がなくて昼飯抜き
こんな事を想定して非常食としてチョコバーを持っていたので、これで昼飯代わり
「畑宿に来れば食堂くらいあるだろう」と思っていましたが、どうも無さそうです(探し方が悪かったのか それとも無かったのか よく判りません) 
武士は食わねど高楊枝 精神で甘酒茶屋までバスのお世話になろう

それにしても スッカリ意気地が無くなってしまった私に 「喝 !!  」 を入れたいのですが、これが現実ですから仕方ありません

Photo畑宿から甘酒茶屋までバスを利用

甘酒茶屋で休憩

ここからまた石畳を歩いて芦ノ湖に辿り着きました

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左:甘酒茶屋  13:37
バスは約10分ほどで甘酒茶屋に到着。文明の利器は流石だし、それに楽ですねぇ
ここでヤット食事らしい食事(うぐいす餅)が摂れました

【エピソード】
茶屋のオバチャンが来て
「歩いてきた人に記帳してもらっている だからこれに記帳して下さい」
バスに乗ったとは言えず、厚かましく記帳しました(ゴメンナサイ)

右:印籠の頭  14:01
地元の人やハイカーの人たちは、この白髪頭と疲労困憊した旅人をを見ると敬意?を示してくれるのでしょうか、壊れ物を扱うように皆さんがとても親切にしてくれます

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左:下りの石畳  14:27
甘酒茶屋を 14:05 分に出発
ここからは多少のアップダウンがありますが、それが終わると下り石畳になります
下りは滑らないように気を付けて歩かなければなりませんが、どの石の上の足を置こうかと思っていると、足のほうは既に動いているので、この時が滑ったり、転びやすい。 
幸いにも私の相棒(靴)は上手に足を操ってくれたから、転んだのは一回だけでした(苦笑)

右:紅葉の気配なし  14:37
その途中に右に入る小径があったので、行ってみるとこのように展望が開けるところがありました
それにしても紅葉の気配が全くありません きょうは 11/2 だと言うのに変だと思いませんか?

【エピソード】
石畳を下っていると若い女性が一人ここを登ってきました
女性に優しい白髪頭は、 「こんにちは」 と声を掛けると どうも日本人ではないようです
そこで「ドコヘイクノカ?」 
女性「・・・まで」
この・・・が聞き取れません。 が、どうもどこかのミュージアムへ行きたいらしい(苦笑)
けれどもここから先は甘酒茶屋があるだけで、途中には何もありません
「ミチヲ マチガエタ ノデハナイカ?」
それでも彼女は Thank you  と言うとそのまま登っていきました
果たして彼女の運命や如何に・・・

〈お断り〉
こんなふうに話すと 私が如何にも「イングリッシュ」が堪能のように聞こえますが、これは完全な勘違いでして、私が話すのは「単語リッシュ」という私独特なものす
けれどもこれで約3ヶ月間スイスを一人旅し、餓死もせず・野宿もせず・迷子にもならず 日本へ帰って来ることが出来ました(笑)

 

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左:芦ノ湖着  15:28
ヤット芦ノ湖に着きましたが、見たかった富士は雲に覆い隠されていて 残念
それとバス利用したので予定よりも早く着き過ぎてしまいました 

右:賽の河原  15:24
芦ノ湖には幾度か来てますが、このようなものがあるのを初めて知りました
『この賽の河原がいつ成立したのか不明であるが、1658年の『東海道名所記』に“芦ノ湖畔に賽の河原があり”と記されている。 
地蔵や石塔の中には鎌倉時代のものもあり、箱根町の町指定史跡になっています』

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左:身代わり地蔵  15:32
『この身替わり地蔵には、宇治川の先陣争いで名高い「梶原景季(カジワラ カゲスエ)」が、父の影時(カゲトキ)と見誤られて斬りつけられた時、その身替わりとなって景季を救ったという伝説が残されています』 とのことです

右:海賊船  15:39
有名?な芦ノ湖観光船で、意味がない写真です

湖岸に立っていると、湖面を渡ってくる風がとても冷たいことに初めて気が付きました。何しろ歩いている間は長袖を捲って歩いていましたから、寒さを感じることがなかったのです

  小田原の宿スタート 8:20頃
  芦ノ湖着        15:00頃
     歩行距離  17,1キロ (28300歩)
(但し、歩幅は60センチ設定なので、石畳はこの歩幅では歩けませんから距離はもっと短いはずです)    

  【以上で「小田原から芦ノ湖まで」を終わります】

 

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'12-48 東海道一人歩き その4

ここでは「平塚から小田原まで」について投稿します

'12/11/1 (木)快晴

Photo_5右上の「平塚」の宿をスタート
暫くは旧街道を歩き、途中で国道に合流

「化粧(ケワイ)坂」で一旦旧道に入りますが、大磯付近でまた国道へ

あとはまた退屈な国道歩きが続くので 手抜きを考えながら・・・

【ハプニング】
街道歩きをリアルタイムに送信出来るよう タブレット(ドコモ)を購入し持参しましたが、昨夜(10/31)から入力が出来なくなってしまいました
そこでドコモショップの場所を教えてもらい、11/1 行くことにしました
けれどもショップのオープンは 10時から

平塚駅前のコーヒーショップで時間を潰し、ショップへ着きましたがもちろん開いていません
仕方なく出勤してくる人を掴まえて 状況を話して修整してもらうことが出来ました
「馬には乗って見よ 人にはお願いして見よ?」 の格言通りだったのか、或いは私の風采を見て気の毒に思ったからなのか

ただ、これで時間が大幅に遅れたため、どこかで手抜きをしなければなりません と言う良い口実が出来ました(笑)

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左:併設の教会  8:43
泊まった宿には結婚式場もあって、このような立派な教会もあります
教会内を見せてもらおうと思ったのですが、まだ鍵が掛かっていて 残念 (私は信者ではありません 念のため)

右:送迎バス  8:40
宿から平塚駅まで約1,5キロほどあるので、このような送迎バスが準備されています。が、もちろん私は利用しませんでしたが

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左:馬入一里塚跡  8:53
一里塚跡にも色々あって、このように跡形もないところに 表示板だけが という所もあります

右:京方見附跡  10:20
東海道五十三次の宿場として栄えた平塚宿の家並みは、空襲やその後の区画整理により、往時を偲ぶ面影が残っていません。
宿場の西の入口であった京方見附の場所も定かではなくなりましたが、先人たちの言い伝えや歴史資料等により、この辺りにあったものと思われます  と説明されています

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高麗山  10:28
この一帯は「高麗山公園」となっているらしく、こんな記事がありました
『東日本大震災後、多くの平塚市民がボランティア等で被災地での活動を行っておりますが、その一環として、震災で倒壊した宮城県牡鹿郡女川町の桜を補植する為のボランティア活動があり、その活動の証として、高麗山公園内にその桜の苗木の一部が寄贈されました』

「平塚宿」歌川広重  東海道五十三次

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左:虎御前の化粧(ケワイ)井戸  10:47
伝承によると、虎御前がこの井戸の水を用い化粧をしていたとのこと。

虎御前とは、曽我十郎祐成(すけなり)の愛妾として知られている山下長者の娘(遊女)で、詩歌、管弦に通じ、大層な美人であったそうな

虎女は17歳で大磯の菊鶴という長者にもらいうけられ遊女になりました。
当時の遊女とは知識人であり、歌舞などの技芸を厳しく躾られ、時には教養も身につけた女性たちであり、神聖な存在として巫女の代わりをするようなこともありました。

虎女は十郎が仇討ちの本望を遂げ、命を落とすまでの2年間及び63歳で生涯を閉じるまでの晩年を、大磯の地で暮らした そうです

右:化粧(ケワイ)坂旧街道  10:51
この化粧坂は国道1号から離れ、大磯までこのような静かな道が続きます

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左:新島 襄 終焉の地碑  11:29
明治の先覚的教育者新島襄は、1875年(明治八年)11月29日京都に同志社英学校を設立した。
その後宿願であった同志社大学設立を企画して東奔西走中病にかかり、1890年(明治23年)1月23日療養先のここ大磯の地 百足屋旅館で志半ばにして47歳の生涯を閉じた

蛇足:来年の大河ドラマは、この新島襄(或いは奥さん?)をテーマにしたドラマだと聞いています

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「新島 襄 生誕の地 碑」 
12/1 東京で偶然この碑に出合うことが出来たので追加します
『天保14年(1843年)、江戸の神田にあった上州安中藩 板倉家江戸屋敷で、藩士の子として生まれる。
本名を七五三太(しめた)という。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある』

右:鴫立(シギタツ)庵  11:32
小田原の医師の子、崇雪(そうせつ)が、寛文4年(1664年)、西行法師の詠んだ名歌
  心なき 身にもあわれは 知られけり 
        鴫立つ沢の 秋の夕暮
を慕って鴫立沢(しぎたつさわ)の畔に草庵「鴫立庵」を結んだ。

そして標石を立て、東海道を往還する人に鴫立沢を示し、「著盡湘南清絶地」と景勝を讃えて刻んだのが、湘南の始まり。
鴫立庵は元禄時代に俳人大淀三千風(みちかぜ)が入庵してから有名になり、多くの俳人が集まるようになった。

との事ですが、どうも私には「お呼びでない」場所のようです(苦笑)

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左:大磯の松並木  11:39
大磯周辺の松並木は昔ながらの風情を残しているような気がします

右:名もない野仏  13:10
街道の一隅には名もない野仏達が

大磯から二宮まで国道1号を歩きますが、何故国道ってこんなに車ばかり多くて、退屈なのでしょうか

二宮駅の着いたのが 1時半過ぎ、これでは小田原まで行くのはちょっとムリかも?
そこでまた手抜き 二宮から国府津まで 電車利用することに決定
ドコモショップへ寄り道したのでこんな事に とは勝手な言い分です(苦笑)

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ガラスのうさぎ像  13:39  (二宮駅前広場にあります)
これは史跡ではありませんが、それでも将来には戦争悲劇の史跡として残して欲しい彫像で、二宮駅前に建っています

『著者の高木敏子さんは東京・本所区(現在の墨田区)で育った。
父は東京でガラス工芸品の工場を経営していたが、戦争が始まって工場は軍需物資の製造へ転換した。二人の兄がいたが二人とも徴兵を待たず軍人を志願し、長兄は陸軍軍人として中国戦線へ赴き、次兄は海軍飛行予科練習生として三重航空隊へ入隊した。

昭和20年3月10日の東京大空襲で、母と二人の妹が行方不明になる。防空壕に避難したが余りの熱さに耐えかねて飛び出した所で消息が絶えた。

昭和20年5月7日、東京が再び空襲にあい焦土と化した。敏子さんは家の敷地のあちこちを掘って、母や妹たちの使っていたものを探した。
父が作った大きなガラスのうさぎの置物が半分溶けて転がっていた。
敏子さんは家族が使っていた食器の欠片とともに、ガラスのうさぎを大事に手提げに入れた。

父は新たな仕事の準備で新潟に在り、敏子さんは一人で神奈川県二宮町の知合いの家に疎開していた。

昭和20年8月5日、仕事の目途がついた父と新潟へ立つために二宮駅に着いた時、鋭い金属音とともに敵艦載機P-51が飛来し、駅にいた人達に反復して機銃掃射を浴びせた。多くの人達が鮮血に染まって倒れ、敏子さんの父もまた病院に運ばれたが既に亡くなっていた。

      「碑文」
太平洋戦争終結直前の昭和二十年八月五日、ここ(国鉄)二宮駅周辺は艦載機P51の機銃掃射を受け、幾人かの尊い命がその犠牲となりました。
この時、目の前で父を失った十二歳の少女が、その悲しみを乗り越え、けなげに生き拭く姿を描いた戦争体験記「ガラスのうさぎ」は、国民の心に熱い感動を呼び起こし、戦争の悲惨さを強く印象づけました。

この像は私たち二宮町民が、平和の尊さを後世に伝えるために、また少女を優しく励ました人たちの友情をたたえるために、多くの方々の援助をいただき建てたものです。

少女が胸に抱えているのは、父の形見となったガラスのうさぎです。
ここに平和と友情よ永遠に』

(この高木さんは私よりも一つ歳上ですが、今でもお元気でお過ごしになっていることを祈っています)

Photo_4手抜きで「国府津」まで来たので、ここからまた歩き始めます

小田原に近付くと「一里塚跡」「本陣跡」などがあり

そして小田原城へと向かいました

【きょう2度目のハプニング】
ルート図入れのケースから いつの間にかボールペンが無くなっていました
予備は持っていますが、歩いていると雑貨屋があって、そこにはボールペンが2本で150円
ここで買うことにしたのですが、店の親父さんが
「どこまで行くのですか?」 私「京都まで」 「歩いて?」 私「そう」 
「歳はいくつですか」 私「79」
すると親父さんは驚いた様子で 「これを持って 気を付けて行きなさい」
とスポーツドリンク1本を私に押し付けてきたので、有り難く頂戴しました
ここでも白髪頭の効き目はあったようです

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相模川に架かる橋の上から  15:36
明日行く予定の箱根の山々が霞んでいますが、登れるか がチョット心配

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一里塚跡の石柱  16:15
江戸口見付 になっているので、小田原から江戸に向かう出口なのでしょう
もちろん石碑が建っているだけです

本陣跡  16:35
「明治天皇宮ノ前行在所跡」の碑がたっていて、案内板によると、ここは清水金左衛門本陣のあった場所 となっていました
それにしても「明治天皇」は日本各地を歩いていたのではないか と思うほど、このような碑が多いのに驚きます

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左:小田原城天守閣  16:52
『現在の天守閣は、昭和35年(1960)5月に市制20周年の記念事業として復興したもので、宝永時代の再建時に作成された引き図(設計図)や模型を参考に、鉄筋コンクリートで外観復元したものです。
内部は、古文書、絵図、武具、刀剣などの歴史資料の展示室となっています。標高約60メートルの最上階からは相模湾が一望できる』 そうです
国の史跡に指定されてます

右:発掘調査?  17:00
天守閣傍では今でもこのような発掘調査をしているようで、新しい発見を期待してしまいます

  平塚スタート  8:40
  小田原 宿着  17:10
  歩行距離 21,9キロ (34600歩)
       二宮駅から国府津駅まで 電車利用

  【次回は「小田原から芦ノ湖まで」の予定です】

 

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