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'13-14 「東海道一人歩き」 に再挑戦

『嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
会社のHPと言っても、その中にある1つのカテゴリーなのですが、そこに書かれているのが     『元気の出るブログ・愉快満載の百科店」 となっていて、内容は「いつだって街歩き」「パソコンよろずマニュアル」「満点デジカメライフ」「錦町世情研究所」などがあって、ここの私のブログを転載させて頂けることになったのです
 
  その名は 『サンキyou広場

どうぞ この広場にもお越し下さいますようお願い致します
 

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いよいよ東海道一人歩きの後半に挑戦(とは大袈裟ですが 笑) します

昨秋の東海道歩きは「浜松」で無念のリタイアしてしまい、全体を通しで歩けなかったことを今でも心残りだし、残念無念という思いです
何故なら、あの時点でも足腰の疲れや痛さは殆んど感じず、只、血尿が出始めたため大事を取って棄権したわけで、これがなければ歩き続けることが出来たと思ってましたから

このリタイアの無念さは、この後半戦?が無事に終わっても、一生ズ~~ッと付いて回るかも知れません(笑)

 【 日程(浜松から京都まで) 】

5/7 東京から浜松まで電車で行き、そこから歩き始めます
浜松 → 弁天島 → 豊橋 → 東岡崎 → 知立 →(熱田を経由して)→ 桑名 → 四日市 → 亀山 → 鈴鹿峠 → 水口石橋 → 草津 → 大津 → そして京都へゴール


ここで「街道一人歩きの問題点と対策」を(笑)
問題点…何しろ夜が退屈 
泊まるのは懐と相談してビジネスホテルが主なので、狭い部屋で長い夜を過ごさなければなりません
町の散策があるのでは? と言っても夜ですからねぇ 

対策・・・そこで思い付いたのが最近覚えた「ヒトカラ」
大きな町に行けばカラオケ・ボックスはあるのではないでしょうか 
ここで2時間ほどガナレば時間潰しにもなるし、疲れも取れるかも知れません
と、現代版 喜多さん にも悩みはあるのです(笑)

ですが、考えてみると「街道歩きなんて なんてバカな・ゼイタクな遊びをしてるのだ」と自分で呆れています

  【今回はこれで終わります】

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'13-14-1 東海道歩き(浜松~弁天島まで)

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Photo

       歌川広重 東海道五十三次 「浜松」の図です

'13/5/7  から 東海道歩きを再開しました
今回の予定は 浜松から京都まで ですが、どこまで歩けるか心配ですが、マァ行けるところまで歩きましょう

それにしても冗談じゃない! と思ったこと。
お江戸日本橋から歩き始め、幾日も掛けてヤット浜松まで辿り着きましたが、新幹線だと たったの1時間半
あの苦労はいったい何だったの?(苦笑)

浜松と言えばウナギ 蒲焼きを食べたかったのにどこに店があるのやら(笑)
結局食べずじまい

12時から歩き始めましたが、はじめは退屈な国道歩き 何もめぼしいものはありません、ということで判る範囲で説明を入れますが、その他は写真だけで勘弁してください

Bmp

きょう('13/5/7)の行程は、右にある「浜松駅」をスタートし、左にある「弁天島まで」です
浜松駅を歩き出したのが 12時頃

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13/5/7  10:58  新幹線車内から撮った富士山 いつ見ても満足し、気持ちは高揚してきます
ただ、富士山噴火の噂もあって、噴煙のような雲が気になります(笑)

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13時頃 左・右 
「二つ御堂」・・・奥州平泉の藤原秀衡と、その愛妾によって天治年間(1125年ごろ)創建されたと伝えられている。
京に出向いている秀衡が大病であることを聞いた愛妾は、京へ上る途中、ここで秀衡公死去の知らせ(誤報)を聞き、その菩提を弔うために、北のお堂(阿弥陀如来)を建てたという。

一方、京の秀衡は病気が回復し、帰国の途中ここでその話を聞き、愛妾への感謝の気持ちをこめて、南の堂(薬師如来を建てたという。
現在の北堂は、昭和30年(1955)改築、阿弥陀如来・地蔵菩薩・毘沙門天が南堂は昭和12年(1937)新築、薬師如来・不動明王・大日如来が祭られている。

   毎年十二月十四日 供養が行われている
この二つのお堂は、広い道路を挟んで相対して建てられています

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左:14:30・・・一里塚の案内板と民家 ここに一里塚があったと説明してありますが、その面影はどこにもなくちょっと寂しい思いをしました
この後もこのような表示はありましたが、昔を偲ぶことが出来ません

右:14:50・・・学校帰りのスナップです このようなヘルメット着用をしなければならない環境には、腹が立ちますし、子ども達がかわいそう

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左右: 15:40・・・「舞阪」の松並木に入ってきました
昭和13年(1938)国道付け替えの時、堤を崩し両側に歩道をつけ今日の姿になった。
現在700m、株数は約340本に東海道の面影を良く残している と説明されてます

     松並木の 風は爽やか 一人歩く

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左・右: 16:10・・・浪小僧の像
浪小僧・・・むかし、遠州灘の浜では、地引き網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。
漁師達は気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。
その代わり、ご恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓を叩いてお知らせ致します」というので、海にもどしてやりました。
それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。
       「遠州七不思議」より

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左: 16:15・・・舞阪宿見付石垣
史跡 見付石垣  
説明によると・・・この石垣は、舞坂宿の東はずれに位置している。
石垣の起源の詳細明らかでないが、宝永6年(1709)の古地図には既に存在している。
見付は見張所にあたり、大名が通行の時などには、ここに6尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視するとともに、治安の維持にあたった所である

右: 16:25・・・脇本陣
説明によると・・・脇本陣は、大名・幕府役人等が本陣で宿泊休憩できない時に利用された施設で、普段は一般の旅籠屋として使われました。
建物は母屋・繋ぎ棟・書院棟で構成され、現構で間口5間・奥行き15間ありました。
現在書院棟一棟が残されており、旧東海道宿駅の中では、唯一の脇本陣遺構として貴重な建物です。
平成7年復元保存のため解体を行った結果、書院棟の大棟瓦に「天保九年五月吉日 横山村瓦師政右衛門」の篦書が発見され、書院棟が天保九年(1838)の建築であることが判明しました

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左: 16:30・・・舞阪宿の外れから浜名湖が見えてきました

右: 16:30・・・岸壁では釣り糸をたれる人、それを眺める人がいて いかにも長閑

      釣れても 釣れなくても 五月晴れ

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左・右 17時頃の浜名湖畔のスナップ

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左: 18:40・・・宿の部屋からの夕焼け 明日も天気は良さそうです

右:  21:30・・・湖上に浮かぶライトアップされた大鳥居

今日の記録
  歩行距離 約17,3キロ  27010 歩

午後から歩き出したのですが、突然 左の脹ら脛が攣れるように痛み出した
初日からこんなアクシデントにあい、無事に歩けるかどうかが気になる 
直ぐに持参した湿布薬を貼って歩きながら様子を見ることに
引きずって歩くようではないが、今晩は風呂でよく揉んでみよう

以上で初日の「浜松から弁天島まで」を終了 

明日(5/8)は、弁天島から豊橋まで の予定だが、距離的にはちょっと長い距離を歩くことになる

  【1日目はこれで終わりです】

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'13-14-2 東海道歩き(弁天島~豊橋まで)

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      歌川広重 東海道五十三次 新居(荒井) の図

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きょう('13/5/8)の行程は、「弁天島から豊橋まで」
4時方向の弁天島をスタートし、浜名湖を渡り、新居から南下し、次に10時方向に向きを変えながら潮見坂を登り、二川(フタガワ)宿を通り、豊橋が今日のゴールになります

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左・右・・・宿の部屋から眺めた朝の風景です
右の写真の前方が、きょう向かって行く方角になります

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左: 9:40 新居関所の全景

右: 9:40 前庭の手入れ 多くの人たちが草むしりでしょうか 

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左・右・・・関所前にある古民家?でも資料館のようにして、内部を解放しているようでした
尤も私は先を急がなくてはならないので、見学はパスしましたが

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左: 10:15  教恩寺楼門
源頼朝に寵愛された遊女が、頼朝没後に尼となり、妙相と号して建てた寺院。
1300年創建の古刹で、楼門は江戸期のもの だそうです

右: 10:30  松並木がありましたが、「舞阪」のような道の両側ではなくて、片側に松が並んでいます

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左: 11:00  野良仕事をしていたので パチリ

右: 11:25  街道筋にマッチするような民家も点在してます

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左: 11:40  潮見坂の登り
日向が多そうな道を避けて、裏道から登り始めましたが、木陰が多くて正解だったと思っています

右: 11:45  潮見坂を登りきった所から、振り向いて遠州灘?を パチリ

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歌川広重 東海道五十三次 潮見坂(白須賀)の図

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左・右  11:50  「おんやど白須賀」となっていますが資料館のような所で、おんやど となってますが宿泊は出来ません

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左・右: 12:20 白須賀宿の宿場通りですが、地元の人を含めて人と出会うことが殆どありません
右の道はややS字のようになってますが「かねんて」と呼ばれていて、江戸時代からの名残り だそうです

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左・右: 12:40  白須賀宿の外れにあった庚申堂の前には 陶器製?の三猿が珍しかったので 思わずパチリ

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左: 13:25  何の意味もない国道歩きの風景写真 そして一番嫌いな退屈な歩きなのですが、鼻歌という新兵器を習得?しました

右: 13:30  タマネギの収穫風景 この姿勢では腰が悪くなるわけだなぁ

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いよいよ二川(フタガワ)宿に入ってきました

左:14:30  二川宿の案内所
川口屋という宿場町の案内所があります
ここには地域のイベントに関するパンフレットや二川宿についての案内図などが配布されているそうです

右: 14:45  暖簾と飾り 
多くの家が、このような暖簾と一輪挿しで宿場を盛り上げている様子がうかがえます

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左・右 14:50  二川宿本陣跡資料館
二川宿・・・二川宿は東海道に江戸幕府が設置した53の宿場のうち,品川宿から数えて33番目の宿場である。町並みは12町(ちょう)26間(けん)(約1.3km)あった。東三河に置かれた4宿(二川・吉田・御油・赤坂)のうちでは,もっとも東に位置し,遠江国(とおとうみのくに)から三河に入る最初の宿場である。
人口1,468人,家数328軒,本陣(ほんじん)・脇本陣(わきほんじん)各1軒,旅籠屋(はたごや)38軒と記録がある。

本陣とは大名・公家・幕府役人などが宿泊休憩する施設で,一般の人々が利用する旅籠屋と区別されていた。本陣の宿泊料は定額ではなく大名たちの心付け程度であり,また貴人の宿として維持管理がかさみ,経営は困難であったと言われる。
現存する本陣としては、東海道では近江草津宿とこの二川宿のみであり,貴重な遺構である と説明されています

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左:資料館でのスナップ
足を洗ってあげる という風習は、日本だけでしょうね

右:資料館の全景
ここでも先を急がなければならないので見学はパス

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二川宿のメインストリートにあった風情のある民家

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左・右 17:15  豊橋の市街地に入った所にあった「泉禅寺」の楼門と三重塔
由緒など判りませんが、楼門と三重塔が目立っていたので パチリ

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左: 17:35  豊橋の市内電車
東京も早くオシャレな都内電車が走るようになればいいのですが、夢のまた夢でしょうか?

右:  18:40  宿から見たこの日の夕陽  明日もまた良い天気なのでしょう

この日の記録
  歩行距離 27,6キロ  歩数 43526 歩

宿の傍にカラオケ店があったので、シャワーを浴びて早速1時間半 ノド慣らしをしてきました

  【これで2日目の「弁天島から豊橋まで」を終わります】




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'13-14-3 東海道歩き(豊橋~名鉄山中まで)

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     歌川広重 東海道五十三次 「吉田(豊橋)」 の図

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'13/5/9
5時方向の「豊橋」をスタートし、11時方向にある「名鉄山中駅」がゴールです
但し、この山中駅付近には宿泊施設がないため、東岡崎駅まで電車で行き、そこで泊まります

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左: 9:00  豊川に架かる豊橋から 吉田城をズームアップ

右: 9:00  豊川では腰まで水に浸かって漁をしてるようですが、シジミ採りでしょうか?

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左・右  9:20  途中で撮った一般民家ですが、何となく趣があります

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左: 9:30  瓜郷遺跡

右: 10:00  「子だが橋碑」
1000年前、う足神社には人身御供があり大祭初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする風習があった。
ある時生贄を捕らえに来ていた役目の人の前に現れたのは、なんと出稼ぎに行ったいた自分の娘であり、故郷の祭礼と父母に会うことを楽しみさを胸に秘めてようやく朝早く橋の上までたどりついたのであった。
その男は悩んだが神の威光の前に「我が子だが、やむを得ん」と生贄にして神に奉った。それから「子だが橋」と呼ぶようになった。
現在はう足神社では11羽の雀を生贄にしているという  
本当でしょうか?

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左: 11:15  街道にあった喫茶室 
時間的に半端だったので素通りしましたが、客はあるのか他人事ながら気に掛かります

右: 11:45  これからの田植えに備えての畦造りをしてるのでしょうか?

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左・右・・・さすがは旧街道で、このような常夜灯が点在しています

左の右手にある建物の中には常夜灯があるのかも知れません
昨秋の東海道前半歩きの時も、このような建物の中に常夜灯がありましたから

右の常夜灯は電線が引かれているので、夜になると灯りが灯るのではないでしょうか
ネオンも何もない所に灯る明かりを是非とも見たいものです

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      歌川広重 東海道五十三次 「御油」の図
        飯盛り女が客を奪い合うこの絵は有名だと思います

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左: 13:40  御油(ゴユ)の宿場通り
何と言って特長のない宿場ですが、この緩やかに曲がる道が気に入ったので パチリ

右: 14:10  御油の松並木
御油宿の西端から赤坂宿の東端までの約600メートルにわたって、約270本(2003年の調査による)の松の木が立ち並んでいるそうです 天然記念物に指定

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       歌川広重 東海道五十三次 「赤坂」の図

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左: 14:35  大橋屋旅館 説明によると・・・
東海道筋で唯一営業を続けている旅籠として、「大橋屋」がある。
創業は慶安2年(1649年)、現存の建物は正徳6年(1716年)の建築と伝えられ、創業時の屋号は「伊右エ門 鯉屋」であった。
赤坂宿には、享保18年(1733年)時点で83軒の旅籠があったが、大橋屋はその中でも大旅籠に属していた。間口は9間、奥行は23間ほどである とのこと

右: 14:40   「よらまいかん」 と書かれた建物がありますが、休憩所です。自販機と幅広の縁台が有るだけなので気兼ねなく休憩できるそうです

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左: 名もない野仏
デザインと顔が気に入ったので パチリ

右: マンホールの蓋ですが、この図柄が「五十三次の赤坂」になっていたので パチリ

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左: 17:15  法蔵寺楼門

右: 17:15  法蔵寺境内にある「近藤勇の首塚」
説明によると・・・新撰組隊長近藤勇は、慶応4年(明治元年)4月25日35才で東京都板橋の刑場の露と消えました。
刑後、近親者が、埋められた勇の死体を人夫に頼んで夜中ひそかに掘り出してもらい、東京都三鷹の竜源寺に埋葬しました。また、勇の首は、処刑後、塩漬にして京都に送られ三条大橋の西にさらされました。
それを同士が三晩目に持出し、勇が生前敬慕していた新京極裏寺町の称空義天大和尚に、埋葬を依頼することにしました。しかし、和尚は、その半年前から、三河国法蔵寺の39代貫主として転任されていたので法蔵寺に運ぶことにしました。
この寺は山の中にあり、大木が生い茂っていて、ひそかに埋葬するのに好適の地でした。
しかし当時は世間をはばかって、石碑を土でおおい、無縁仏の様にして沓華していました。そしていつか石碑の存在も忘れられてしまいました。
昭和33年総本山の記録等に基づいて調査した結果埋葬の由来が明らかになりました。
今回、石碑をおおっていた土砂を取り除き、勇の胸像をたてて供養することにいたしたのであります。 法蔵寺 執事

今日の歩きはここ名鉄山中駅までとし、ここから電車で東岡崎まで行き、そこに泊まります

天候は無風快晴 暑かった
コースの特徴は 何もないこと(笑)

今までは富士山が見えたり、海が近かったり、大きな川を渡ったり という変化が有ったのですが、何もありません。
アップダウンもないのです
これでは往時のヤジサン&キタサンも往生したのではないでしょうか

こんなことなので、歩きながら感じたことを投稿します

1、歩きながら鼻歌を歌っていることに気がつきました
去年までは、知らず知らず歩数を数えたり、あそこまで行ったら一服しよう 等でした
ところがヒトカラのせいでしょうか、鼻唄混じりで歩いています

2、こんなことも考えながら歩いています
   ジャスミンの 匂い鼻につき 汗が流れる
   金柑を 摘み取って甘さ 確める
   旧街道は 何もない道 カワズ鳴く
   歩くより 休む時ばかり多く 道陰る

何せ俄か俳諧師 ではなく、徘徊師ですからいい加減なものです

今日の記録 22、3キロ 35674歩
でしたが、一日中快晴で暑さに負けそうな一日でした

   【これで3日目を終わりますが、まだ続きます】

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'13-14-4 東海道歩き(名鉄山中~知立まで)

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きょう('13/5/10)の行程は、「名鉄山中から知立(チリュウ)まで」
昨日は東岡崎に泊まったので、電車で「名鉄山中駅」まで戻ってきました
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4時方向の「名鉄山中駅」から歩き始め、10時方向の「知立」まで行きます

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左: 9:20  中山駅をスタートして少し歩くと この大常夜灯があります。
いつ頃のものなのか? 大きさは? など判りませんが、今まで見てきた中では最大級
正面に鳥居が見えますが、あれは「中山大神宮」の鳥居で、社殿は小高い所にあるようなのでパス(笑)

右:赤鳥居の右に沿って行くと、社殿へ繋がるのだろうと思われる階段がありましたが、これもパス 
パスの理由は、登るのはよいのですが下りが危ない。足腰が弱っている証拠でしょうね

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左: 9:35  藤川宿の「東棒鼻跡」があり、「棒鼻(石垣)」が復元されています
「棒鼻」とは・・・棒の端、棒の先端をいい、それが転じて宿場のはずれを「棒鼻」という。
したがって宿場町では、東、西の両方のはずれを言う。
藤川に再現された「棒鼻」は、歌川広重が描いた東海道五十三次・藤川宿の浮世絵「棒鼻ノ図」を参考にして復元した「棒鼻」だそうです

右:歌川広重の東海道五十三次 「藤川」の図
解説によると・・・「八朔御馬進献」の行列を、宿場の役人たちや旅人まで土下座して出迎えている。
八朔とは8月1日。幕府はこの日を朝廷に御馬を献上することを重要な儀式としていた。
行列に見える御幣を立てた馬が献上される馬である。
広重はこの「八朔御馬進献」に幕府の命で同行し、その経験が『東海道五拾三次之内』の出版につながったともいわれている とのことです

この図の左側に石垣が描かれていますが、その石垣を復元したのが左の写真の石垣なのでしょう

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左・右: 10:25  藤川宿の西外れにはこのような松並木があって、少しの勾配ですが、これが今までにない好い雰囲気を出していました

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左: 11:00  名もない野仏ですが、デザインが変わっていると思いませんか?

右: 12:00  形を成している「大平一里塚」で、史蹟に指定されています

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左: 13:55  岡崎城 今は岡崎公園として解放されています
ただ、天守閣は有料かも知れません 何しろ手抜き・足抜きですから多くの施設は殆ど外観のみでパスしました(笑)

右: 1405  空濠でしょうか? よく判りません

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左: 14:20  岡崎公園の外塀

右: 14:45  矢作(ヤハギ)橋
この橋は、木下籐吉郎と蜂須賀小六が出会ったことで有名なことは ご承知の通り
土地の人の話によると、この橋は昔から数えて15代目の橋だそうで、現在16代目の橋の架け替え中とのこと
もちろん橋の位置は移動しているが とのことでした

天気予報では夕方から雨 ということでしたが、3時半頃からイヤなものが ポツリ・ポツリ。 そして音をたてて降るわけではありませんが、シトシトのやや本降り

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左・右: 16:30  永安寺の巨大松
「雲竜の松」と呼ばれ、樹齢約300年、樹高4.5m、根囲3.9m、枝張り東西17m、南北24mの巨木。種類はクロマツで、本来クロマツの主幹は直上に伸びるのに対し、この松は地上から1.5mのところで幹が三つに分かれ、それぞれがほぼ真横に伸び、各枝の長さは10mにも。
愛知県の天然記念物にも指定

ここで独り言
東京・江戸川区の小岩の東外れに「善養寺」がありますが、この境内の松も巨大で、私が見た限りでは枝振りなどを含めて小岩・善養寺に軍配を揚げたい (これはあくまで私見です)

この永安寺も雨。
こうなると鼻歌や徘徊師どころではなく、先を急がなくてはならず、カメラもザックに入れました

  今日の記録は 27、3キロ  42355歩
    後半は雨中の歩きだったので、疲れましたぁ

  ヒトカラは雨が降ってるし、場所も判らないのでパス

   【これで4日目を終わります】

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'13-14-5 東海道歩き(知立~熱田経由~桑名まで)

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昨夜('13/5/10)は窓ガラスを濡らす雨 ちょっと憂鬱
こんな雨の夜、狭い宿の部屋にいるとウツ病になってしまうほど 気分は沈み込んでしまいます

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一夜あけると青空がのぞいていて  というわけにはいかず、昨日の続きの雨が降っています
こんな時は気力を振り絞らないとヤバイ 
一旦気力が削がれると修復するのに大変な努力が必要なのです (これは私の場合で、他の人は判りませんが)

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マァ歩きだそう けれども今日も国道1号を避けて電車で知立駅から富士松駅まで 手抜き。

富士松駅からは旧道を歩くので車の騒音からは逃れらる は良かったのですが、徐々に雨足が強くなり、隣駅の豊明に着く頃は音をたてはじめ、「モウ イインジャナイ」 と隣にいる悪友が囁き始めます

フット目をあげると 『24時間営業 カラオケ』 
これでアッサリ決まりです
勿論入りましたよ 
この手抜き行為は今までの街道歩きにはなかった「新兵器」です 
こうなると歩きどころではありません (苦笑)

締め括りが 千の風になって  で、歌の後半は

 
  私のお墓の前に 来ないでくだい
    私は そこにいません
    死んでなんか いません
  カメラを持って 新しい靴を履いて
   あの知らない町を 歩いているでしょう
  地図を持って 重いザックを背負って
   あの知らない峠を 歩いているでしょう
  あの知らない所を 遊び歩いています

という盗作?です(笑)

こんなことで、今日の街道歩きは休養日と決定
この「知立から熱田まで」の歩きは、後日 改めて再挑戦したいと思っています

しかし です
名古屋でメル友に会うことにしたのです もちろん顔は判りませんが
「私の真っ赤なザックを目印にしてください」 とメール
直ぐに探してくれましたよ
嬉しかったですね 

そして古民家風の喫茶室での歓談
時間が経つのも忘れるほどオシャベリ
私がこんなにオシャベリなのか を新発見(笑)
そして愉しい時間は過ぎて行き、雨降りの憂鬱は忘れていました 
もちろん女性ですよ 当然でしょ(笑)

今日はこれから電車で桑名に行き、そこに泊まります
明日は「桑名から四日市まで」 
もう雨は勘弁しとほしい と祈ってます

こんな状態なので写真はありませんし、歩行記録もありません

  【これで5日目の投稿は終わります】

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'13-14-6 東海道歩き(桑名~四日市まで)

『嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
会社のHPと言っても、その中にある1つのカテゴリーなのですが、そこに書かれているのが     『元気の出るブログ・愉快満載の百科店」 となっていて、内容は「いつだって街歩き」「パソコンよろずマニュアル」「満点デジカメライフ」「錦町世情研究所」などがあって、ここの私のブログを転載させて頂けることになったのです
 
  その名は 『サンキyou広場

どうぞ この広場にもお越し下さいますようお願い致します
 

   ~~~~~~~~

Photo
      歌川広重 東海道五十三次 「桑名の図」

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'13/5/12 
今日の行程は「桑名から四日市まで」
いよいよ今日から愛知県から三重県に入り、1時方向の桑名から7時方向の四日市を目指します
天気も昨日の反動でしょうか、朝から無風快晴

Dscn3170Dscn3172左: 8:55  子供会か学校行事か判りませんが、町の清掃活動をしていました
これではゴミなど捨てられません お互いに注意しましょう  とは余計なことでした

右: 9:05  海蔵寺
説明によると・・・宝暦3年(1753)に幕府より薩摩藩は揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられました。
宝暦5年工事は完成されたましたが、多くの犠牲者と巨額の経費がかさんだことの責任感から、工事総奉行平田靭負(ヒラタ ユキエ)は自刃しました。
これら義士の墓所は岐阜・三重県下14ヶ寺に埋葬され、この海蔵寺には平田靭負他21基の墓石が現存し、市指定史跡となっているそうです

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左・右 9:25  揖斐川河口、東海道の渡場跡
かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいたが、鉄道の開通とともに姿を消し、現在は石垣と 「伊勢の国 一の鳥居」が残るだけになっています

右は 「七里のわたし」 石柱で、保存会が建てたもののようです

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左・右  10:00  神宮の楼門と社殿
この楼門は、天保四(1833)年、松平定永によって寄進された楼門で、その姿の美しさは日本一と言われましたが、昭和20年の空襲により惜しくも焼失したそうです。
平成7年の七百年祭記念事業で 半世紀ぶりに再建されたのだそうです

また、この春日神社の祭りは毎年8月の第1日曜日の前日の午前0時、30数台の祭車が一斉に打ち鳴らす鉦や太鼓の音は、何もかも吹き飛ばす勇壮無比な音色。
『日本一やかましい祭り』 と言われ、各町内の祭車が旧東海道などを練り歩き、祭車は見事な彫りの彫刻に漆を塗ったもので豪華な天幕をつけ、勢揃いする様は一見の価値があるそうです

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左: 10:00  完全武装した民家 だと思いますが、珍しかったので パチリ

右: 10:05  何を売る店なのでしょうか? 
物凄い品数だったので店内に入らせてもらい パチリ
親父さんいわく「TV局が取材に来るよ」と豪語?していました
私が目に付いたのが数多くのプラモデル商品でしたが・・・

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左: 12:30  安永立場・・・は東海道筋であると共に、町屋川を利用した舟運の船着場であったので、通行客を相手とする茶店が多くあり、安永立場といわれました。
名物として「安永餅」が売られていましたが、現在は売る店はありません。今も茶店の名残りのある料理屋が2軒あるそうです

右: 12:30  ちょうど日帰り東海道歩きの団体に会いましたが、こんなに大勢では統率する人は苦労が多いでしょうね

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左: 13:45  路傍の常夜灯
この常夜灯も結構大きなものですが、このように路傍にポツンと建っています

右: 13:50  周囲の風景も開けてきて、遠くに山並みが霞んで見えるようになってきました
街道歩きはこうこなくっちゃ楽しくありません

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左: 14:00   狂ったか 暑さに負けたか 花を撮る

右: 14:35  コンビニで珈琲を飲んでいると、子ども達がドヤドヤっと入ってきて、そこは社交場に早変わりです
昔の駄菓子屋と同じなのかも知れませんね

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左: 16:00  ここにも路傍の常夜灯 さっき見たものよりは一回り大きいようです
そして橋の袂に常夜灯が建てられているような気がしますが、思い違いでしょうか?

右: 16:10  「名残の松」
江戸時代、このあたりは、両側に低い土手が築かれ、その上が松並木になっていたそうです。
これはその名残りの一本の松で、「名残の松」と呼んでる とのです。

この松の傍に行き、ゴツゴツした木肌を触りながら、 よくまぁ一人で頑張ってきたなぁ あと何年頑張れるのだ?
と思った途端、不覚にも涙を流してしまいました (一人旅ってけっこう寂しいのです)

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左: 16:25  四日市の市内に入ってくると、珍しいデザインの焼き物があったので パチリ
ちょうどこの日は「萬古焼祭り」があって、露店も数多く出店していました

萬古焼(バンコヤキ)・・・三重県四日市市の代表的な地場産業であり、1979年(昭和54年)1月12日から伝統工芸品に指定されている。
その耐熱性の特長を活かした紫泥の急須や土鍋が有名 とのことです

右: 16:35  三ツ谷一里塚跡

愛知県から三重県に入ると 松並木 がなくなりました 尤もこの先には有るかも知れませんが
それと家並みもバラけてきて、周囲の風景が気渡せるようになってきました

これに比べると昨日まで歩いた愛知県内は、市街地が多かったような気がします

今日のルートは旧街道を歩くことが多くなっているので、たいへん静かです
土地の人に出合うことも殆どなく、時々車が通るくらいの静けさです

それにしても今日は暑い。風がもう少し吹いてくれれば助かるのですが。
 
今までの鼻歌もあまり出てきませんし、それどころか日陰があれば直ぐに暑中避難の繰り返しです

  徘徊師の発句 ?(笑) も影を潜めています
    行けども 行けども 暑き道
    風通り 陽炎揺るる 暑き野辺

    雨の昨夜 人恋し恋し と咽ぶよう
     (ヒトカラの影響で演歌調になってるな  苦笑))

今日の記録 21、2キロ  33626歩

明るいうちに宿に着きましたが、洗濯などしてるうちにヒトカラは行きそびれてしまいました


今日は日曜なので、街道歩き風の人を見掛けましたが、途中でカラオケ店に不時着する旅人は居ないでしょうね  (笑)

  【6日目はこれで終わります】

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'13-14-7 東海道歩き(四日市~亀山まで)

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Photo
          歌川広重 東海道五十三次 「四日市」の図

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'13/5/13 
今日の行程は 1時方向の四日市から8時方向の亀山まで 
天気も昨日に比べると雲が少しあり、風も少しですが身体に感じます

ただ、昨夜は寝付きが悪く と言うよりは殆ど寝られませんでした
原因は 枕 なにしろ固い フロントへ行けば他の枕と取り替えてくれる となってますが、いいオッサンが枕を担いでフロントへ行けますか(笑)
これが祟っているようで、この日は何しろ疲れました

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左・右 0:00  日永(ヒナガ)追分
日永の追分は、京(右方向)に向かう東海道と、伊勢(左方向)に向かう伊勢街道の分岐点にあたります。
ここには桑名の一の鳥居に対する二の鳥居が建てられました

右の道標には
「右京大坂道 左いせ参宮道」「すく江戸道」「嘉永二(1849)年己酉春二月」 と刻まれているそうですが、達筆すぎて私にはよく読めません

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左: 9:00  曲がり角や、軒先にこのような「案内板」が提げられています が、幅が3~40センチくらいなのでウッカリすると見落としてしまいそうです

右: 9:00  「町角博物館」となっていますが、どのような物が展示されているのでしょうか?
ここ以外にもこのような小さな資料館がありましたが、その多くはオープンしている雰囲気ではなかったような・・・

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左・右: 10:10  杖突坂
解説によると・・・日本武尊(ヤマトタケル)が東征の帰途、伊吹山の神との戦いで病に倒れ、弱った体で大和帰還を目指して剣を杖代わりにしてこの急坂を登り、 『吾足如三重勾而甚疲』 (わがあしは みえのまがりのごとくして はなはだつかれたり)
-- 私の足が三重に折れ曲がってしまったように、ひどく疲れた --『古事記』
と言ったとされる。
これが「杖衝坂」と「三重」の名前の由来といわれてるで ナ~ルホド

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左: 10:10  杖突坂にある「芭蕉句碑」
貞享4年(1687年)松尾芭蕉が江戸から伊賀への帰途、この急坂で落馬してしまい、早速俳句を詠んでいる。
「歩行(かち)ならば杖衝坂を落馬かな」

右: 10]10  坂のイメージ
高低差はそれほどありませんが、ちょっとした勾配。それでも軽トラは楽々と登り下りしてました

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左・右: 「血塚社(チヅカシャ)」
杖突坂を登りきると左にあったのが「血塚社」
鳥居の奥に石柱が見えますが、これをズームアップしたのが 右の写真で「日本武尊御血塚」の石碑です
日本武尊はここで足の出血の手当てをした と言われているそうです

この周辺には日本武尊にまつわる伝説が多いのだそうです

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左: 11:10  石薬師宿に入ってきました
ここは歌人の佐々木信綱の出身地だそうで、街道筋に「信綱かるた」が貼られていますが、チョット押し付けがましいな と私は感じてしまいました

右: 12:25  石薬師一里塚跡
余談・・・この一里塚全景の写真を撮ろうとしてファインダーを覗きながらバック、縁石に足を取られてそのまま仰向けに転倒 尻?腰?をもろに打ち付けてしまいました
5/29 現在、まだ尻が痛く湿布薬のお世話になってます

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左・右: 13:30  「庄野町資料館」
玄関には「鈴鹿市指定建造物 旧小林住宅」の標識が立っている(右の写真)
ここはもと菜種油屋の建物で、宿場関係資料や農機具・生活用品などが展示されているそうです
この資料館もオープンしてる様子はありませんでした

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左: 14:10  女人堤防の碑
解説によると・・・鈴鹿川と安楽川の合流するあたりを汲川原という。
合流点では、しばしば川の氾濫が起き人命が失われた。言い伝えによると村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、藩は堤防ができると対岸の城下町に浸水の恐れありとして許可しなかった。

そこで人々は、処罰覚悟で工事に踏み切ったが、村人の菊という女性が「工事にかかわった男たちは打ち首になり村は全滅する。私たち女だけで堤防をつくろう」と200人余の女性だけによる工事が始まった。

6年後に堤防は完成したが、やがて藩主の知るところとなり首謀者の菊らは、あわや処刑される寸前、家老の松野清邦の嘆願により助命された。かえって、その志にたいし金一封が贈られたという。
  現場にわずかに残る堤防の脇に「女人堤防の碑」(昭和33年建立)が建てられています

右: 15:25  信仰心
このように石を積んだだけの物でも信仰の対象にしているのですが、この信仰心はどこから生まれてくるのでしょうか?

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左: 15:10  に撮った風景 両方とも特に意味はありません

右: 15:55  に撮った風景

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左:和田山一里塚
たぶん復元された一里塚だと思いますが、それでもこのように塚に木が植えられていると、何故かホッとしてしまいます

右:高台から亀山の市街地を俯瞰
旧東海道は亀山の町の北部に連なる高台を通っていて、駅を含めた繁華街はそこより下がった位置にあります

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左右とも途中で撮った意味のないスナップです
右は、姉妹でしょうか、幼い二人が車庫入れの練習をしてるようでした

途中でケイタイの電池切れになってしまい、距離・歩数とも正確かどうか判りませんが
 歩行距離 18、6キロ 歩数29623歩
この距離は事前に調べて数字は約24キロでしたが、これよりも低い距離になっています

相変わらずの 徘徊師の発句は
  ダラダラト 歩いても 暑さは同じ 
  一歩・一歩 だけが頼りか 五月晴れ
  一歩・一歩 と言い聞かせつつ 初夏の道

ちょっと先が思いやられる今日の一日でした

想定していた問題
当初の計画では、今日 5/14  は 鈴鹿峠 の近くまで行って宿をとることを予定してました

出発前に予約を入れると、
今のところ予約が無いので一人はお断り
とのこと

きょう(5/13)亀山に着いたので、再度予約電話を入れると、前回と同じで断られてしまいました

そこで明日は鈴鹿峠近くまで歩き、一旦亀山に戻りここで連泊
明後日はタクシーで、歩いてきた登山口まで贅沢三昧をすることにします
もちろん、バスがあればこれに越したことはないので、亀山の観光案内所で確認するつもりです

  【これで7日目は終わりです】

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'13-14-8 東海道歩き(亀山~鈴鹿峠登山口まで往復)

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        東海道五十三次 「亀山」の図

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'13/5/14
きょうの行程は、4時方向の亀山から10時方向の鈴鹿峠登山口まで行きますが、途中にある「関宿」の町並みを歩くのも楽しみの一つです

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左: 9:30  高台にある「旧東海道」に到着 

右: 9:45  集合住宅でしょうか? 3階建ての家屋が珍しかったので パチリ

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9:55  旧街道を少し歩くと有ったのが「野村一里塚」
この樹からみて当時からの一里塚が残っているのかも知れません

調べてみると・・・三重県には旧東海道に沿って、12ヶ所に一里塚が設置されていましたが、現存するのはこの野村一里塚のみとなっています。
また、もともとは道の両側にありましたが、現在は北側だけが残っている状態で、昭和9年1月に国の指定文化財となりました。
塚の上には、歴史を見守り続けてきた樹齢400年の椋の巨木がそびえ立っています

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左: 10:35  桜並木が続いていて、木陰のサ-ビス付き ベンチでも置いてくれると有り難いのに

右: 10:40  鈴鹿峠の方向なのでは? と思ってパチリ
私は左にある鞍部が峠と直感しましたが・・・

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左: 11:00  関宿の入り口に到着 これからどんな家並みがあるのでしょうか? 

右: 11:00  「関の小萬のもたれ松」・・・江戸中期、久留米藩士牧藤左衛門の妻が、夫の仇を討つため旅を続けて関町の山田屋に止宿したさい、一女小萬を産んだ後病死した。
小萬は遺言にしたがい成人して亀山城下で武術を修行して、1783(天明3)年に、見事仇敵軍太夫を討ち果たした。
当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしもたれた と伝えられた松がこの場所にあったことから、「小萬のもたれ松」と呼ばれるようになった

《 関宿に入りましたから宿場通りを紹介したいのですが、写真の枚数が多いので頁を改めてアルバムとして載せることにします 》

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左: 12:55  正面の山が「筆捨山」
室町時代、画家・狩野法眼元信が描こうとして描けず筆を捨てたことが山名の由来だそうです。
江戸時代には名勝として知られていて、そのためか北西にある東海道坂下宿の浮世絵には、広重を始めとして殆ど筆捨山が描かれています

右:歌川広重の五十三次に鈴鹿峠はなく、この「坂之下の図」が有るだけで、筆捨山を描いたと言われているそうです

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左: 13:20  驚かされた彫像
これを見た瞬間、本物かと思って そ~っと覗き込んでしまいました(苦笑)
それとも本物の人間でしょうか? 顔を見るとそう思えてしまいます

右: 13:30    思い遣り 花々で飾り 椅子はひとつ

この椅子で休んでいると、この家のオバアチャンが「お茶をどうぞ」と言って、冷たいお茶を持ってきてくれました 
思いがけないことでしたが、有り難くご馳走になりました。
冷たくて美味しかったのはもちろん、その心遣いに感動してしまいました

注・・・格子に額のような物がありますが、これらは「絵手紙」で、このように飾ってあるのです

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左: 13:40  街道の風景 

右: 13:50  あの鞍部が鈴鹿峠ではないか?

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左: 14:00  「鈴鹿馬子唄発祥の地 碑」http://youtu.be/5rK69NRCivE
「正調 鈴鹿馬子唄(youtube)」にリンクします

右: 馬子唄会館
このドームの前が広場になっているので、ここで馬子唄の実演があるのではないでしょうか?
この日は誰も居ませんでしたが

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左: 14:40  私がこの道を見上げていると、偶然通りかかった人が
「これは旧東海道ではなく、東海自然遊歩道です。 これは可成りきついルートなので止めなさい それに上に行けば旧東海道と合流するのだから」
と教えてくれました
もしこの機会がなかったら、明日の私はこの薄暗い急な階段を登っていたかも知れません

旧東海道はもう少し先にあったので、安心してUターンし帰路に付きました

右: 16:40  水浴びしてる子ども達のスナップ

昨日の投稿で、鈴鹿峠近くの宿が取れなかった とお話しましたが、そこで今日  5/14  は亀山の宿から登山口まで下見歩きをしてきました
それでも帰りは 関駅から亀山駅まで電車を利用してしまいましたが

そこで歩きながら感じたことを 2、3 
1、亀山では東海道の道路が色付けされていて、迷わないような工夫がされていました

2、関の宿場通りは、昔ながらの細い格子戸が軒を連ね、更に 電柱や電線も無く 空がとても広く感じました

3、家々の格子には絵手紙が飾られていますが、葉書なので小さくて見にくい のが残念でした

4、更に鈴鹿峠に近付くと、そこは静寂の世界
家並みはありますが、人が居るのか居ないのか 時々軽トラが走るくらい

ここでまたまた お耳汚しの 徘徊師の発句を
  30メートルの 木陰も嬉しい 沢の音
  影と影が 重なって逃げる場所なし 昼暑し
  昼下がり 人影もなし 旧街道
  
     狂作
       遺構など 度外視しての 街づくり
       コンビニも 自販機も無き この世あり


今日の記録
歩行距離 25、0キロ  39352歩

   【関宿のアルバムへ続きます】

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'13-14-8 東海道歩き(関宿のアルバム)

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       歌川広重 東海道五十三次 「関」の図
早朝大名行列が、宿場の本陣から出発する準備をしている様子を描いているそうです

関宿(せきしゅく、せきじゅく)・・・
東海道五十三次の47番目の宿場

説明によると・・・古代からの交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿関」が置かれた
江戸時代も、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であり、参勤交代や伊勢参りの人々などで賑わっていた

現在、旧東海道の宿場町のほとんどが旧態をとどめない中にあって、江戸時代から明治時代にかけて建てられた古い町家200軒あまりが残っており、往時の姿を色濃く残している
国の重要伝統的建造物群保存地区として選定

先ずこの宿場通りに来た瞬間 「空が広いなぁ」 
そして 「街道筋には格子がよく似合うなぁ」 でした
それに 旅行者はもちろんですが、地元の人もあまり歩いていない静かな宿場通りです

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先ずは午前11~12時頃に通ったときの風情

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午後5時頃に通ったときの風情

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ここでも歩きながら歌を口ずさみましたよ
先ずは 
♪ 格子戸をくぐり抜け~ 見上げる大きな青い空~ (私の城下町)
とか
♪ 窓いっぱいの 日本海~ (五能線) を
♪ 空いっぱいの 関の宿(シュク)~~

全くいい加減な街道歩きです(笑)

  【以上で関宿のアルバムは終わりです】

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'13-14-9 東海道歩き(鈴鹿峠登山口~水口まで)

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Photo     

       歌川広重 東海道五十三次 「土山」の図

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4時方向の「鈴鹿峠登山口」から歩き始め、10時方向の「水口」が今日のゴールです
ルートは国道1号線と付かず・離れずですが、今回も旧道を多く歩くようで楽しみです

「鈴鹿峠」
標高は357m
解説によると・・・886年「阿須波道」と呼ばれた現在の鈴鹿越えが開通 し、これにより峠一帯が鈴鹿山と呼ばれるようになりました。
しかし、坂道の険しさ・気象の変化の激しさから東海道の難所と捉えられていました。
また、追いはぎなど盗賊も出没し、その意味でも難所だったようです。

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左: 9:05 に登山口から歩き始めましたが、轍の跡もあって のんびりムード

右: 9:12  「鈴鹿流薙刀術発祥の地」碑が建っていますが、調べてみてもよく判りません
それに碑自体もそれほど古い物とは思えません

Dscn3392Dscn3397左: 9:22  芭蕉句碑
「ほっしん(発心)の 初にこゆる 鈴鹿山」

右: 9:31  鈴鹿峠着
オイオイ まだ歩き始めて40分も経ってないぞ それで峠かよ
何かに騙されているのではないか? という呆気なさ
計画の時点から難所という考えでしたが、歩いてみると なんと楽勝
箱根に比べると雲泥の差 比較になりません

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左: 9:36  鏡岩
かつては表面が鏡のように輝き、盗賊が旅人の姿を岩に映して襲ったという鏡岩
県指定の天然記念物となっています

右: 9:37  鏡岩からの眺め

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左: 9:53  茶畑
10数分歩くと左手にはこのような茶畑が広がっています
この茶は「土山茶」として出荷されているそうです

右: 9:58  万人常夜灯
解説によると・・・江戸の中頃に、四国の金比羅神宮の講中が建てた常夜燈として建てた。重さ38トン、高さ5.44mもある大きな石灯籠は、地元民三千人もの奉仕によって地元高畑山より運び出され出来たものと伝わる のだそうですが、まさに巨大常夜灯です

この常夜灯がある所は休憩所になっていて、ベンチなども置いてありました

登りはやや急な斜面を登ってきましたから、これからは苦手な下りになるのだろう と思ってましたが、その気配はなく、緩やかな下りを続けながら国道1号線に合流してしまいましたあんなに心配しながらやってきた「鈴鹿峠」には、すっかり騙されてしまったかたちです

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左: 10:07  国道は滋賀県甲賀市に入りました

右: 10:07  土山宿の東海道シンボルマークなのでしょう

Dscn3411Dscn3416左: 10:55  国道1号線沿いにあった「鈴鹿馬子唄の碑」
これは一番有名な歌詞?で

♪ 坂は照る照る 鈴鹿は曇る
    あいの土山 雨が降る
なのですが、この中にある「あい」の意味が判らなかったので聞いてみると、諸説があるのだそうです(ここでは省略します)

右: 11:15  少し歩くと、ここにも「鈴鹿馬子唄之碑」
何故なのでしょうか、よく判りません

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左: 11:45  国道からほんの少し外れますが「猪鼻村」の標識

右: 11:45  「旅籠中屋跡」
の石柱が立っている家がありましたが、こんなところにも旅籠があったのでしょう
「明治天皇」の休憩所に使われたという説明もありましたが、天皇も遊び歩き?がお好きのようで、この他にも石碑が建っていました

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左: 12:00  路傍の石仏 

右: 12:20  「海道橋」
この橋を見て、この頁のトップにある「土山の図」を連想してしまいましたが、きっとそんな思いでこの橋を造ったのではないでしょうか?

Dscn3430Dscn3432左: 12:25  道の駅「あいの土山」
ここで昼食 初めて昼食らしい物を食べたような気がします(浜松からを思いだしてみると、何を食べていたのかなぁ 笑)

右: 12:25  土山宿の標識

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左: 13:00  土山の街道筋
関宿と違って、電柱や電線が目立ちます

右: 13:15  旧街道を歩いていて、このような店を見ることは珍しかったので パチリ

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左: 14:15  地安禅寺
山門と傍に立つ樹をねらって パチリ

右: 14:50  土山宿の西外れにある ちょっとさみしい松並木

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左: 17:10  水口(ミナクチ)宿に到着

右: 17:15  水口宿の高札場

きょうの感想・・・
私の峠のイメージは、登ったら下る なのですが、この鈴鹿峠は登りきるとほぼ平らで広い道になってます
もちろん下りですが、山道を下るのではありません
ですから小高い丘に登った という感覚です

すっかり拍子抜けした今日の記録は
23、7キロ  37901歩


ここで例の お目汚しを
  呆気なく 峠を越えると 蝉時雨
もちろんセミはまだ鳴いていません 徘徊師は許されますが、本物の俳諧師もこんなことをしていたでしょうね 多分
  桜木も 木陰を作り 風過ぎる
  風抜ける 甲賀の里も 陽は強く
  

  鼻歌も 気付いてみれば 同じ唄
       ヒトカラ修行 積めと言うのか  

  【9日目はこれで終わりです】 

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'13-14-10 東海道歩き(水口~草津まで)

『嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
会社のHPと言っても、その中にある1つのカテゴリーなのですが、そこに書かれているのが     『元気の出るブログ・愉快満載の百科店」 となっていて、内容は「いつだって街歩き」「パソコンよろずマニュアル」「満点デジカメライフ」「錦町世情研究所」などがあって、ここの私のブログを転載させて頂けることになったのです
 
  その名は 『サンキyou広場

どうぞ この広場にもお越し下さいますようお願い致します
 

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         歌川広重 東海道五十三次「水口」の図

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'13/5/16
きょうの行程は4時方向の水口をスタートし、9時方向の草津へ向かいます
ここで自己申告しますが、石部駅から手原駅まで電車を利用しました

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左・右: 9:30 9:40   田植えの済んだ傍にあった名もない石仏

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Dscn3470左: 10:30  横田の渡し跡
この「渡し」の代表がこの「常夜燈(左側)」です。
この常夜燈は文政5年(1822年)地元の村々だけでなく京都・大阪の人々を含めた万人講で建設されたもので、総丈7メートルを超え、笠石2,3メートル四方、周囲17,3メートル玉垣に乗っている東海道随一の規模を誇っています。
往時は夜も通行が絶えず、対岸の渡し場がはっきり分かるように目印として建てられた そうです
平成10年に「旧東海道横田渡跡」は県史跡に指定されています

右: 10:40  白い藤の花がいい匂い
退屈な歩きなので、花の匂いも話題にします(笑)

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左: 12:05  石部宿休憩所
もちろん無料で利用出来ますが、売店などはありません 自販機はあったかなぁ?

右: 13:30  手原にあった町屋で、特に意味はありません

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左: 13:50  足利陣屋跡
解説によると・・・『長享元年(1487)、将軍足利義尚は、領地の横領を繰り返し幕府への反抗姿勢をとり続けていた六角高頼を討伐するため、近江に親征し鈎(マガリ)に陣を構えた(鈎の陣)。
これに対し高頼は、居城観音寺城を放棄し甲賀へと逃れた。
高頼は、甲賀山中でゲリラ戦を展開し、義尚軍は高頼勢を攻めきれず膠着状態となった。
義尚はそのまま鈎に長期間とどまることになり、鈎陣所はさながら仮の御所として一時機能することになった。
京より公家などが訪れ、陣中で歌会なども催されたが、同時に義尚は酒色に耽るようになった。
そして、鈎着陣からおよそ1年半後の長享三年(1489)三月に、義尚は鈎陣中で25歳の若さで病没した』 だそうです

右: 15:55  草津追分
西に向かってきた東海道は、草津で南北に走る道にぶつかります
ここが草津追分で、南北に走る通りが「中山道」です

きょうの感想

持ち歩いてるルート図にも観光スポットがありません
ちょうど疲れもあることだし、こうなると得意の 手抜き です
後ろめたい気持ちはありましたが、ひと駅だけよ で、電車のお世話になりました
それにしても周囲の風景に変化がありません

そうこうしてる内に 草津 に到着です
この草津は、数年前に中仙道を京都から下諏訪まで 歩いた時に通過した場所です
その時に珈琲ブレイクした店が残ってれば と思いながら行ってみるとそのまま
何しろ百円珈琲ですよ 今でも百円でした

途中で手抜きをしたので宿に早く着き、こうなるとヒトカラ、失敗だったのが身分証を忘れたことで 遂に諦めました

今日の記録 19、8キロ  31392歩


明日の予定は 草津から大津まで で、歩行距離も短いので、大津では身分証は忘れないようにしよう(笑)

大津の次はゴールの京都三条大橋で、完歩の見通しはついたようです 
少し手抜きをしましたが(苦笑)
  【以上で10日目は終わりです】

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'13-14-11 東海道歩き(草津~大津まで)

嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
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  その名は 『サンキyou広場

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     歌川広重 東海道五十三次 「草津」の図

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'13/5/17
この日の行程は1時方向の草津をスタートし、瀬田の唐橋で11時方向に向きを変え、大津に向かい、そこがゴールです

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左・右: 9:30  草津宿本陣

Dscn3504Dscn3497左: 9:40  某酒造
会社説明によると・・・江戸城を創建した太田道灌公を祖とし、街道の守りのため近江草津に移住し、代々問屋場の総取締役をつとめてきた家柄であり廃藩後に酒造りを始め、今に至る とのことです

右: 9:40  河原で鯉のぼり

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左: 10:05  「矢橋道(やばせみち)」道標
江戸時代は矢橋から大津へ向かう琵琶湖の渡し船(矢橋渡し)は、瀬田の唐橋へ回るよりも速く、距離が短くすむことから人気があった のだそうで、これがその道標です

右: 10:05  「瓢泉堂」
名所図会などにも描かれている「うばがもち」を商う茶屋があった。現在は国道1号沿いに移転している。
姥が餅屋の跡地には、現在「瓢泉堂」という瓢箪を商う店に変わっています

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左: 10:05  途中で見た野仏ですが、このような顔・形を書き入れたものが点在していました
2~3の人に聞きましたが、よく判らないと言うことでした

右: 12:00  路傍の野仏

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Dscn3512 左・右: 10:40  野路の玉川
説明によると・・・平安時代末(12世紀)から有名になった歌所で、萩の玉川とも言われ、日本六玉川のひとつとして知られています。
野路はまた鎌倉時代、有名な宿駅でもありました とのことです
なお、「湧き出してる水は飲めません」 との注意書きがありました

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Dscn3527左・右: 13:20  「瀬田の唐橋」
琵琶湖から注ぎ出る川は瀬田川しかなく、東から京都へ向かうには瀬田川か琵琶湖を渡るしかない。
瀬田川にかかる唯一の橋であった瀬田の唐橋は、京都防衛上の重要地であったことから、古来より「唐橋を制する者は天下を制す」と言われた のだそうです

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左: 14:10  瓦ヶ浜駅そばで、京阪電鉄石山坂線のすれ違い

右: 14:55  ベンチがある民家 奥のベンチは座れるようになっていて、手前は手前に倒すとベンチになるのだろうと思います
歩き旅にとっては、このように座れる場所があるのがとても有り難いことです

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左: 15:40  義仲(ギチュウ)寺山門
木曾義仲の死後、愛妾であった巴御前が墓所近くに草庵を結び、「われは名も無き女性」と称し、日々供養したことにはじまると伝えられる。
寺は別名、巴寺、無名庵、木曽塚、木曽寺、また義仲寺と呼ばれたという記述が、すでに鎌倉時代後期の文書にみられるという

右: 境内にある「松尾芭蕉の墓」
俳人松尾芭蕉はこの寺と湖南のひとびとを愛し、たびたび滞在した。
無名庵で句会も盛んに行われた。
大坂で亡くなった芭蕉だが、遺志により義仲墓の横に葬られた と言われているそうです

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左:木曽義仲の墓

右:巴御前の墓

きょうの感想
朝 宿のカーテンを引くと真っ青な空とカンカン照り、いかにも暑そう
幸いにもルートは鉄道沿いなので、いざとなれば例の奥の手が使えます

歩き出したとき、風が爽やかで軽い風だなぁ これなら歩けるだろう と決心

歩いていて感じたこと
家々の軒下などに地蔵さんをお祀りしてあるのですが、これに目鼻口が どぎつく描かれています
私はこのような顔が描かれているものは見たことがありません

これを見ながら連想したのが、下北のイタコ? 風習で地蔵さんに浴衣を着せる風習を思い出しました
正直言って チョット不気味

大津に近付くと 義仲寺 があって、ここには松尾芭蕉の墓や、木曽義仲と巴御前の墓もあって、狭い境内は賑やかです

ゆっくり歩いたつもりですが、宿に到着
まだ日は高い ここで待望の時間潰し 急いでシャワーを浴び出
掛けましたよ ヒトカラ2時間 実際には1時間45分くらい

今夜の宿は最後なので、少し奮発して2食つき
今まではビジネスホテルですから、付いても朝だけ

明日はいよいよ京都三条大橋を目指しますが、ここには逢坂山への登りと、蹴上への登りが控えています

これを過ぎれば三条大橋までは一直線

メデタシ メデタシ でゴールしたいものです


徘徊師の駄作
  5月半ば カンカン照りも 風軽し
  ボート漕ぐ 瀬田の唐橋 初夏の暑さ
  義仲も 芭蕉も眠り ツツジ咲く

 【これで11日目は終わりです】

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'13-14-12 東海道歩き(大津~京都三条大橋まで)

『嬉しいご案内』
或る会社のHPに私のこのブログをリンクさせて頂けることになりました
会社のHPと言っても、その中にある1つのカテゴリーなのですが、そこに書かれているのが     『元気の出るブログ・愉快満載の百科店」 となっていて、内容は「いつだって街歩き」「パソコンよろずマニュアル」「満点デジカメライフ」「錦町世情研究所」などがあって、ここの私のブログを転載させて頂けることになったのです
 
  その名は 『サンキyou広場

どうぞ この広場にもお越し下さいますようお願い致します
 

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     歌川広重 東海道五十三次 「大津」の図

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713/5/18
きょうの行程は 3時方向の大津から9時方向の京都・三条大橋まで で、最終日です
このルートは、以前中山道を三条大橋から歩いた時と逆コースを歩くことになり、今回のルートでは一番短い距離を歩くことになります。
その為 油断したのでしょうか 気合いが入らず、歩いていても疲れを感じます

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左: 9:25  ロシア皇太子遭難の地 碑
説明によると・・・1891年(明治24年)年5月11日、滋賀県大津市で、来日していたロシア帝国の皇太子ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)に対し、警備に当たっていた巡査、津田三蔵が突如斬りかかり、皇太子が負傷したという事件。
津田三蔵巡査はただちに取り押さえられ、皇太子も命に別状はなかったが、警官が他国の皇太子暗殺を試みたというのが大事件であるのには変わりなく、対ロシア外交の上で重大な危機となった  となっています
検索すると、当時の日本とロシアの緊迫した様子が出ています

右: 9:50  街道筋の町屋で、特に意味はありません

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左: 10:10  「関蝉丸神社上社」
東海道が通る逢坂峠の関の鎮守・道祖神として創建されたと考えられている。
祭神は、上社が猿田彦命に琵琶の名手の蝉丸霊を合祀してある そうです

右: 10:15  「逢坂山関跡」
逢坂越は、都と東国・北国を結ぶ東海道・東山道・北陸道の3つの主要道路が集中する交通の要衝でした。
古くから貴族や武将をはじめ、文人墨客がこの道を通過し、この関所や峠を題材にした作品が万葉集や古今集に多く残っています

大津の市街地を抜けると、逢坂の関への登りになりますが、思っていたより簡単に「逢坂の関跡」に到着

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左: 10:25 
   これやこの  行くも帰るも別れては
    知るもしらぬも  逢坂の関 
                   蝉丸           

右: 10:25
  名にしおはば  逢坂山のさねかずら
    人にしられで  くるよしもがな
                                   三条右大臣 

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                            10:25  夜をこめて 鳥のそらねは はかるとも
                      よに逢坂の  関はゆるさじ
                             清少納言

                              
ここには三人の有名な?歌人の歌碑が建っていますが、以前見たときはもっと大きな碑だと思っていましたが、イメージが膨らみすぎていたのでしょうか

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左: 10:40  京阪電鉄「大谷駅」
この駅は「逢坂の関跡」の傍にあります

右: 10:50  「月心寺」
京、大津への玄関口、逢坂山の関所を控える、かつては東海道随一の賑わいをしていた追分の地で繁昌していた走井茶屋の跡。
境内には今も枯れることなく走井の名水が湧き出ている。
歌川広重が描く「東海道五十三次」で、溢れ出る走井の水のそばの茶店で旅人が休息しているのが見られる。その茶店がこの月心寺である
(この頁のトップで、左側に水が溢れている井戸が走井)

と説明されているのですが、見た感じでは生活感が感じられません
この寺の井戸は有名で、浮世絵などにも描かれていますが、その井戸も涸れているように見えます

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左: 10:66  月心寺の近くにあった古そうな道標
「右一里丁 左大谷町」とあり、この付近に、一里塚があったということです

右: 11:15  「追分道標」
道標が立つ分れ道に来て、ここが大坂との追分で「髭茶屋追分」と呼ばれているようです
現在の滋賀県と京都府との県境にあたる。 左折すると「伏見方面」

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左: 11:40  徳林庵・六角地蔵堂
街道の出入口六ケ所に一体ずつ分置された。
以後、この山科の徳林庵は東海道の守護仏となっている とのこと

右: 11:40  堂内の地蔵尊
六角堂に安置される本尊の地蔵菩薩は、平安時代に小野篁が一本の桜の大木から作ったとされる六体の地蔵尊像のうちの一つと言われているそうです

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左: 13:10  荒廃している「亀水不動」
京都の「蹴上」に近付くとやや急な坂になりますが、この坂の途中にあった 亀水不動 というのも廃墟になっていました
地権者の立ち入り禁止板があって、縄が張ってありました

右: 13:25  蹴上に向かう登りの旧道
振り返って撮ったのですが、下り坂に見えませんね(苦笑)

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左: 14:10  坂本龍馬結婚式場跡の碑
最近建てられてようで、側面には「青運院塔頭金蔵院寺 跡」となっています

東海道を歩き始めた頃、神奈川宿でお龍さんが働いていた料亭前を通り、最終地点の京都でまたお龍さんの結婚にまつわる所を歩き、感慨深い街道歩きです

右: 14:15  古そうな道標
三条大橋のほど近い所に建っていましたが、よく読めません

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14時25分 三条大橋に到着
ここで鼻歌の集大成として「愛の賛歌」を歌うつもりでしたが、人通りが多くて止めてしまいました

右: 三条大橋西詰めにある「弥次さん喜多さん」に到着のご挨拶を

これで何となく 東海道歩きは終わってしまいました

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        歌川広重 東海道五十三次 「京都」の図

このときの感じは
  感動も 達成感もなし 暑い三条
  終わったな ただそれだけの 初夏の午後
  それほどの コースでもなく 初夏終わる


今日の記録 
 歩行距離 17、7キロ  28298歩


まとめてみると
 もっと変化があると思っていたのに 残念
 東海道を歩かれる方がいたら、私は日本橋から掛川辺りまでをお薦めしたいとおもいます

蛇足
 昨年のような血尿現象はありませんでした
 ヒトカラもこれから帰れば地元で出来るので今日は行きません(笑)

『付録(強者達がキズの跡)』
東海道後半歩きのために買ったウオーキング・シューズですが、踵の部分がすり減っていました
こんなに減るのも 殆ど全てと言ってもいいほど舗装された道路ですから、仕方ないのかも知れません
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手首に付いた腕時計のあとです
雨に降られたのは1日半、あとの日は好天でしたから仕方ないかも知れません

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長い blog にお付き合いくださいまして 有り難うございました

  【以上で東海道歩きは完結です】

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