2008年4月 8日 (火)

195,「谷中から上野へ」(その1)

今年の桜はいつまでも元気?に咲いているようですが、そろそろ櫻吹雪のように散り始めるのでは という焦るような思いで、'08/4/4 に「谷中」から桜の名所「上野」を目指して散策してきました。

Photo ルート図(その1)で、スタートは2時方向の「日暮里駅」からですが、この周辺はお寺が多くルート図に各々の名前が入りませんので、歩いた順に数字で記入しました。

ここでは8時方向にある「根津神社」までになっていますが、ルート図(その2)では、「根津神社」からゴールの「京成上野駅」までを載せる予定です。

'

P108064208/ 3/30 に開通した「舎人ライナー」です。 

「日暮里駅」から2時方向に線が延びていますが、これが舎人ライナーの路線で、地図上では北方向に延びています。

そして何故「舎人ライナー」なのかよく判りませんが、この路線上に「足立区舎人」という名前の場所があるからかも知れません。

P1080647 の「本行寺(月見寺)」・・・江戸時代から観月の地として有名だったので「月見寺」とも呼ばれ、風流を愛した江戸の粋人たちに好まれたようです。

太田道灌が斥候台を築いた道灌物見塚跡(道灌丘碑)をはじめ、様々な史跡があり、見応えたっぷりのお寺です。

P1080643 境内にある 小林一茶 の句碑

「陽炎や 道灌どのの 物見塚」

P1080645同じく境内にある 種田山頭火 の句碑

「ほっと東京に来ている月がある」

P1080649 の「経王寺」・・・荒川区教育委の説明によると、1868年(慶応4年)の上野戦争の時、敗走した彰義隊を匿ったとして、新政府軍の攻撃を受け、山門には今もその銃弾の後が見られます。となっていまして、門には数発の弾痕が残っています。

蛇足ですが、日暮里の名物として「羽二重団子」がありますが、彰義隊が敗走する時この店に兵器などを残していったそうで、今でもこれらを保管しているとのことです。

P1080650 の養福寺仁王門・・・宝永年間(1704~11)の建築と伝える。表側に安置されている仁王像の胎内から、宝永4年(1707)の銘札が発見されているそうです。

 

P1080653 「シャレ・スイス・ミニ」・・・③の養福寺から少し北上すると、通りの右側にあるスイス風の洒落た喫茶室で、オーナーはスイス人とのこと。

1階とテラスが喫茶室で、2階は語学などの教室になっているようです。

なお何人かで予約すると本場の「チーズ・フォンデュ」も食べることが出来るそうです。

 

P1080654 の「延命院の椎の大木」・・・樹齢600年と言われる。幹周り5.5Mの巨木だったが2002年に幹内部の腐朽で右側の大枝が崩落し現在の形になったとのこと。東京都指定天然記念物(昭和5年指定)。

延命院の西側の崖の辺りで縄文時代後期の貝塚が発見され、日暮里延命院貝塚と呼ばれてるそうです。

        【続く】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

196,「谷中から上野へ」(その2)

P1080659 の「夕焼けだんだん」とこの石段を下りると、TVなどでも紹介される「谷中ぎんざ」(下正面)になります。

夕焼けが美しいことと、下町情緒が感じられる名前として「森まゆみさん」が命名したそうです。なお、森さんは地域誌「谷(中)根(津)千(駄木)」の創刊者。

(この石段と谷中ぎんざを結ぶ方向が西になります)

P1080661 朝倉彫塑館・・・彫塑家朝倉文夫(1883~1964) が住居兼アトリエとして自ら設計・監督をし、8回におよぶ増改築の後、昭和3年から7年の歳月をかけて新築。昭和10年、現在の形となったそうです。

休館日:毎週月・金曜日(祝日の時は、翌日)、年末年始
入館料:一般個人400円、小中学生150円

P1080664 築地塀・・・粘土で瓦を幾重にも積み重ねて造った土塀で、江戸末期のものだとか。

ここへは朝倉彫塑館の前を過ぎ、少し行くと右手に「観音寺」があるので、そこを右折するとこの「築地塀」があります。

P1080665長安寺にある「狩野芳崖の墓」・・・幕末から明治の日本画家。文政11年(1828)長州(山口県)に生まれる.

19才で江戸に出て狩野勝川の門に入る。芳崖は晩年の号維新の変革で一時絵筆を捨て国事に尽くすが、貧困のあまり貿易商の下絵書きをしていたが、岡倉天心と共に図画取調所(美術学校の前身)を設ける。

「悲母観音図」は3年精魂を打ち込んで描いた作品で、当時としては明治以降唯一の国宝指定を受ける。また、「不動明王図」は重要文化財と説明されています。

「長安寺」は、の築地塀の場所の近くにあります。

P1080672  「全生庵本堂」・・・山岡鉄舟が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。

なお鉄舟との因縁で落語家の三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されていて、8月には幽霊が公開されるようです。

P1080671 「山岡鉄舟の墓」・・・山岡鉄舟は明治維新の江戸城無血開城の立て役者で、西郷隆盛と勝海舟のトップ会談を実現させた幕臣であって、江戸無血開城の時の「勝と西郷の会見」の事前根回しのため駿府まで行っています。

西郷隆盛は「金もいらぬ、名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の偉業は成し遂げられない」と鉄舟を賞賛し、鉄舟の活躍に感銘を受けた西郷は、その後自らも無欲を貫いたと言われているそうです。

P1080669 同じく全生庵にある「弘田龍太郎の墓」・・・「鯉のぼり」「千曲川旅情の歌「叱られて」など、数々の名作を世に出した作曲家(1892~1952)。

東京音楽学校を卒業したのち、本居長世に師事した。唱歌、童謡などのへだてなく作曲をこなした人で、墓石の右には彼が作曲した「叱られて」の碑が見えます。

P1080674 境内に建っている「お仙と鈴木春信(江戸の人で、享保10年から明和7年(1725~70)まで活躍した浮世絵画家)の碑」が建っています。

調べてみるとお仙の碑文を書いたのはあの永井荷風で大正8年(1919)のこと。
【荷風の撰文】
『女ならでは夜の明けぬ、日本の名物、五大州に知れ渡るもの、錦絵と吉原なり。笠森の茶屋のかぎや阿仙、春信が錦絵に面影をとどめて、百五十有余年、嬌名今に高し。今年部門の粋人、春信が忌日を選びて、ここに阿仙の碑を建つ。
時恰大正己未夏 六月鰹のうまい頃』

ただし、笠森稲荷は谷中に3ヵ所あって、お仙の出ていた水茶屋「かぎ屋」はこの大円寺ではない。谷中の墓地が公共墓地になった後、明治6年(1872)に作られた功徳林寺がその位置である。笠森とはもともとは瘡守(かさもり)で、江戸時代には恐ろしい病気であった梅毒?を治してくれるお稲荷さんという 説もあるようです。

P1080676_2 の「枇杷橋跡(合染橋跡)」・・この画像で赤い庇の所を右折すると「蛇道」と呼ばれる道になっています。

以前はここに川(藍染川)が流れていたそうで、歩行ルート図を見て頂くと の所にある鎖線が蛇行していますが、これが川を暗渠にした跡で今では蛇行した道になっています。

蛇足ですが、夏目漱石の「三四郎」の一節をお借りしたいと思います。

谷中と千駄木が谷で出会うと、いちばん低い所に小川が流れている。この小川を沿うて、町を左へ切れるとすぐ野に出る。川はまっすぐに北へ通(かよ)っている。三四郎は東京へ来てから何べんもこの小川の向こう側を歩いて、何べんこっち側を歩いたかよく覚えている。美禰子の立っている所は、この小川が、ちょうど谷中の町を横切って根津(ねづ)へ抜ける石橋のそばである。
「もう一町ばかり歩けますか」と美禰子に聞いてみた。
「歩きます」
二人はすぐ石橋を渡って、左へ折れた。

この「石橋」というのが、どうやらここにあった合染橋では という説があります。

          【続く】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

197,「谷中から上野へ」(その3)

Photo_3 「谷中」を通り過ぎ、これからは10時方向の「根津神社」からのルート図になります。

横に移動して「臨江寺」、迂回しながら「護国院」、そして上野公園に入って5時方向のゴール「京成上野駅」に向かいます。

P1080682 根津神社・・・説明によると、拝殿(国指定重文)は宝永二年(1705)、五代将軍綱吉は兄綱重の子綱豊(六代家宣)を養嗣子に定めると、氏神根津神社にその屋敷地を献納、世に天下普請と言われる大造営を行なった。(宝永三年完成)

この社殿は拝殿の奥に幣殿・本殿と一宇に続く、総漆塗りの華麗な権現造建築で江戸の神社建築としては最大の規模を誇る となっています。

P1080685

根津神社楼門・・・正面右側の随身は水戸光圀公がモデルと伝えられているそうです。(国指定重文)

P1080683 境内にある「乙女稲荷神社」からは、この様に長い鳥居が続いています。

P1080686 「臨江寺本堂」・・・ここに「蒲生君平の墓」があると言うことなのですが、残念ですが公開はしていないようです。

蒲生君平の墓については、日光街道を歩いた時に宇都宮のお寺でお参りしたので、今回もお参りを と思っていたのです。

P1080690 護国院・・・説明では、享保2年(1717)火災に遭い、同7年再建されたのがこの本堂である。
堂は間口七間(18.2メートル)奥行五間(13.6メートル)外部は丹塗り、内部は柱の上部から上が極彩色、細部の様式は唐様である となっています。

境内では桜の花びらが舞っていたので パチリ

P1080695 だいぶ影が伸びてきましたが、上野の山に入ると花見客が大勢来ています。夜桜見物でしょうか・・・

P1080696 と思っていたら、居ました。それにしてもこんなに沢山の宴会、これではその熱気で染井吉野も散ってしまうでしょう。

P1080700 上野公園の名物?「似顔絵描き」

いつ頃からこの商売が始まったのか判りませんが、15分程で完成させる技術はさすがで、描く人(お客)の顔をじっくり見ていると、職業や性格の見当がつく絵描きさんも居るそうです。

【今回もお越し下さいまして 有り難うございました。】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年4月 7日 (月)

191,「清澄界隈」(その1)

'08/4/3 櫻が咲き誇っている という報道を聞くと落ち着かなくなり、懲りもせずまた「東京散策」をしてきました。今回の目的地は今まで行きそびれていた「清澄界隈」です。

Photo スタートは1時方向の「錦糸町駅」、先ず駅前バスターミナルに有る「伊藤左千夫住居跡の碑」、西方向に移動して「勝海舟揺籃の地碑」、そしてルート図のちょうど真ん中にある「遠山金四郎・長谷川平蔵住居跡の碑」。(ここは地下鉄菊川駅の傍にあります)

9時方向の「深川神明宮」、南下して「霊巌寺」「成等院」、9時方向に移動して「清洲橋」「萬年橋」、ここから北上しながら「江島杉山神社」を過ぎ、「回向院」を経由してゴールの「両国駅」へと歩きました。

P1080483 錦糸町駅前のバスターミナルのど真ん中に「伊藤左千夫住居跡の碑」があります。

今から100年近く前、ちょうど現在のJR錦糸町駅前に彼は牛舎を設け、牛を飼い、牛乳の製造・販売業を営む傍ら、作歌に励んだそうです。

P1080481 これが「住居跡の碑」に刻まれている碑板で

「よき日には 庭にゆさぶり 雨の日は 家とよもして 児等が遊ぶも」

と彫られています。

P1080487「史跡・勝海舟揺籃の地碑」・・・ 父・小吉は本所南割下水内で何度か転居後、海舟九歳のとき本所入江町の旗本、岡野孫一郎の地所内に落ち着くが、ここに「勝海舟揺籃の地」の碑があります。

子母沢寛著の小説「父子鷹」を読むと、この岡野孫一郎の話も出てきます。

P1080488 地下鉄「菊川駅」から東へ100㍍ほど行くと、鬼平犯科帳」の「鬼平」こと長谷川平蔵の屋敷が菊川のこの地にありました。
そして、その同じ場所に40年後、ドラマや芝居でお馴染みの「遠山の金さん」こと「北町奉行遠山金四郎」も屋敷を構えました。
しかし平蔵のほうが敷地は大分広かったそうです。

P1080489 「新大橋通り」に面して建っている住居跡の碑ですが、進行方向が東になり、逆方向へ行くと隅田川に架かる「新大橋」になります。

P1080491地下鉄「森下駅」交差点に建っていた「火消し纏?」で、ここからは深川に入り祭りには事欠かない場所のようです。

「森下の由来」・・寛文年間(1660)頃。この町の西に酒井左衛門尉の屋敷があり、その中に深い森があったので「森下町」という名が付いたそうです。

P1080492 「深川神明宮 社殿」・・・「深川」の地名のもととなった、由緒正しいお宮。

かつて深川八郎衛門がこの地を開拓、庭に伊勢神宮の御分霊を奉斎していた。慶長元年、江戸に入府した徳川家康がこの地を巡視、地名を尋ねたので、「まだ住む人もなく地名もない」と答えたところ、家康は八郎衛門の姓「深川」を地名にしたという。以来深川氏は代々名主を務めるようになり、深川家の屋敷の一隅に祭られていた小さな祠は「深川神明宮」として多くの崇敬を集めるようになった のだそうです。

P1080495_2「芭蕉通り」と名付けられた通りですが、道の両側に植えられている櫻が満開。

この先に「芭蕉記念館」があるから「芭蕉通り」なのでしょうか?

   【 続く 】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

192,「清澄界隈」(その2)

P1080496

小名木川に架かる「高橋」からの眺めで、水門の先には「萬年橋」があり、そこからはもう隅田川です。

P1080501霊巌寺・・・寛永元年(1624年)、霊岸島(中央区)に創立。明暦3年(1657年)の振袖火事で焼失、この地に移転した とのことです。

境内には「松平定信の墓」と「江戸六地蔵」があります。

P1080504 「松平定信の墓」・・・説明によると、徳川吉宗の孫。26歳で白河藩主となり、天明の飢饉では的確な藩政で餓死者を出さず名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、1787年老中となり十一代将軍家斉を補佐した。
農村崩壊、財政破綻、外国船の接近など、問題山積の幕政打開のため、寛政の改革を行った。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず家斉と対立し、老中を解任された。

馴染み深い話としては、鬼平として名高い「長谷川平蔵」の提言で、「越中島」に「人足寄場」を設けたことでしょうか。

P1080505 江戸六地蔵とは・・・一は「品川の品川寺」で1708年造、 二は「新宿の大宗寺」で1712年造、 三は「巣鴨の真性寺」で1714年造、 四は「浅草の東禅寺」で1710年造、 五は「深川の霊巌寺」で1717年造、 六は「江東区富岡の永代寺」で1720年造 とのことです。

P1080507 「出世不動尊」・・・幕府より隅田川沿いの湿地を埋め立てて寺を建立することを許されたが、難工事を強いられていた。その頃近江三井寺の不動堂住職期妙の夢の中に本尊の不動尊像が現れ「手助けをしたいので江戸に連れて行くように」とお告げがあった。

霊巌時の工事の中、お堂を建てて安置したところ、工事も順調に進み、後に不動寺に安置され上人から『出世不動』と命名された。1653年この地に移転、関東大震災後、長専院と合併し、以来「深川の出世不動」として広く信仰を集め親しまれている。

余談ですが、現役時代にこの不動尊を知っていれば出世も・・・と今は残念の思いです。

P1080513 紀伊国屋文左衛門の墓・・・江戸中期の豪商で、紀州ミカンを江戸に運ぶ商売で利益を得、後に材木商として江戸に進出、柳沢吉保に取り入り幕府の御用達商人になる。中でも上野寛永寺の用材調達で巨万の富を得た。

吉原で奈良屋茂左衛門と大尽遊びを競った話などの豪遊伝説が残っている。

柳沢吉保の失脚後は廃業し、落魄した生活を送ったそうです。

P1080511 「紀伊国屋文左衛門の碑」・・・紀伊国屋文左衛門を顕彰する野村吉三郎氏の揮毫による大きな石碑です。

なお紀伊国屋文左衛門のお墓は、この大きな石碑の左にある 小さな墓石がそれです。

P1080498 「雄松寺」にある「度会園女(わたらい そのじょ) の墓」・・大坂で芭蕉が旅に病んで亡くなったときに看取ったのが、弟子の「度会園女」であった。夫の死後東下りして、深川で目医者をしていたそうです。

    【続く】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

193,「清澄界隈」(その3)

ここでは「深川江戸資料館」・・・江戸時代(1842年頃を想定)の深川の町並みや庶民の生活ぶりを再現。
長屋2棟をはじめ八百屋、米屋、火の見櫓、猪牙舟の浮かぶ掘割、船宿のたたずまいなどをはじめ、家の中の生活用品類一つ一つにまで細かく気を配って再現してあるそうです。

P1080517 P1080520_2

P1080524 P1080527

P1080500 これは「展示物」ではなく、一見すると蕎麦屋のようですが歴とした「公衆トイレ」。

P1080537 清澄庭園の前にある「本誓寺」では、既に「花まつり」の準備も済んでいるようです。

P1080540 清澄庭園の隣の「清澄公園」にある藤の古木と時計塔。(この公園は「清澄庭園」の隣にあります。)

P1080558 P1080559

 

コーヒーブレイクで立ち寄ったパンとコーヒーの店で、清洲橋と萬年橋の間にヒッソリと店を開いていました。(店の店員さんたちには「ブログに載せたいので」とお願いして了解を頂いてあります)

                    【続く】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

194,「清澄界隈」(その4)

Photo_2

ここではルート図の左側の紹介で、「清洲橋」から北上し、ゴールの「両国駅」を目指します。

P1080550「清洲橋」・・・隅田川の架橋の中で一番美しいといわれる清洲橋は、震災復興事業の一環として、ドイツライン川にケルンの吊り橋をモデルに作られた。
また名称は、日本橋区中州町と深川区清澄町を結んだ事によ清洲橋とした とのことです。

P1080561 「萬年橋」・・・今から350年ほど前にかけられた古い橋です。昔は虹型の美しい橋で、ここから見える富士山の眺めは素晴らしいものであったため(現在は西側の建物に遮られて見えない)、広重や北斎もこの橋の絵を描いたそうです。

現在の萬年橋は昭和5年に造り替えたもの とのことです。

P1080585萬年橋の袂にある 「芭蕉稲荷」・・・「奥の細道」で有名な松尾芭蕉が深川に移り住んだのは、延宝八年(1680)であった。

芭蕉庵は芭蕉没後に消え去り、その場所も長く行方不明になっていたが、大正六年(1917)大津波のあとに芭蕉遺愛のものと思われる「石の蛙」が見つかった。これを奉ったのが芭蕉稲荷 とのことです。

芭蕉遺愛のものと思われる「石の蛙」は、この近くにある「芭蕉記念館」に置かれています。

P1080594 「江島杉山神社」・・・杉山流鍼術の始祖、杉山検校が将軍綱吉から拝領した宅地内に信仰する江ノ島弁財天と、鍼術の神様・杉山和一(1610~94年)総検校が祀られています。

弁財天は、全ての願いをかなえてくれる神様ですが、特に芸能上達に通じています。
杉山和一は、鍼の神様、視覚障害者の先駆者、視覚障害者に鍼・按摩を職業として与えてくれた人として尊敬されているそうです。

P1080589 社殿の右側にある洞窟内に安置されている「杉山和一の石像」

P1080592_2同じ洞窟にまつられた弁財天は、頭が人間、体が蛇の「人頭蛇身」というものです。

P1080595 両国駅近くの「回向院」境内に安置されている「塩地蔵尊」・・・右手に錫杖、左手に宝珠を持たれており、参詣者は願い事が成就すると塩を供えたことから、「塩地蔵」と呼ばれ親しまれてきました。腐食がひどく年代など判明しませんが古いもの だそうです。

【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月20日 (木)

185,「外斜視」の手術体験

この2~3年の間に目(左目)が大変悪くなってしまったようです。
具体的な症状としては
1,立体感が無くなり階段も平らのように見え、特に下りの段差が良く見えません。
2,距離感が掴みにくい。
3,道で車と擦れ違う時、同じ車が正面から来るものと 1時方向から来る車 の2台が見え、自分の前でV字形に合致します。
4,何かを踏みつける時、狙った場所に足を踏み出しても5㎝ほど横に外れてしまいます。

この様なことで以前から眼科で診察を受けていましたが、3/17 に左目の手術をしました。
病名?は、「左目の外斜視」、マァ早く言ってしまえば「ヤブニラミ」です。

「斜視」を調べてみると・・・【子供に多いそうですが、大人になってから発症する斜視もあります。これは眼筋やそれを支配する神経に異常が起こってのことで、私の場合は眼筋によるのだそうです。

外斜視では眼球を動かす筋肉が緊張しない状態では視線は外開きになっています。筋の緊張によって視線をそろえているわけですから疲れます。老眼と同じで年齢が進めばますます疲れます。
機能的には、片目でものを見ているため、立体感を感じられないし、距離感が掴み難くなるのだそうです。】

さて手術ですが、手術時間はおおよそ45分間で局部麻酔
手術中先生からは「目を左へ、右へ、上へ、下へ」などの指示がありますが、良く聞き取れます。
術後は少しの休憩の後、帰宅OKです。

それと、思っていたより術中の痛みはなく、術後の痛みも今の所はありません。
もちろん左目の違和感は有りますが、PCのキーもこの様に何とか打てています。

成功の暁には、上記のような 「不自然な症状が消え、少しでも元のように若返れば」 と期待していますが、74歳(1933年生れ)では仕方がない老華?現象なのかも知れません。

皆さまに何かの参考になればと思いまして敢えて載せてみました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年3月12日 (水)

180,亀戸~両国界隈(その1)

今回の「東京ブラブラ歩き」は、梅の季節も終わろうかという時期になってしまいましたが、'08/3/8 に「亀戸・錦糸町・両国界隈」を散策してきましたので、このことについてお話ししたいと思います。

Kameidomap_3 これは前半のルートですが、スタートは4時方向の「亀戸駅」。 ここから北上して「東覚寺」、西方向にルートを変えて「香取神社」、「普門院」、そして「亀戸天神」。  更に北上すると「龍眼寺」があり、西方向に向かって行くと「法恩寺」があります。

P1080075 名所・旧跡ではありませんが、如何にも昔から商っているような風情の店がありましたので パチリ。 「炒り豆専門の店」のようです。

P1080077 「東覚寺・本堂」・・・東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられている。
東覚寺の不動明王は、東大寺別当良弁(689-773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきた とのことです。

P1080086 「亀戸印」の付いた「香取神宮」

昔は「亀戸大根」が名産だったようですが、今では想像することが出来ないほどビルの街になっています。

P1080079_2香取神宮本殿・・・説明によると、香取神社は社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足(614-669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰をを集めています。
平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935-940)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した古事にちなみ、毎年5月5日に勝矢祭が行われているそうです。 

P1080081 境内に安置されている「水かけ大黒・恵比寿の像」・・・亀戸の地名の由来である「亀が井」を香取神社境内に再興し、神社に納められている恵比寿、大黒像の二福神に亀が井の水」をかけ福を授かる という仕組みだそうです。

P1080091

「普門院」と、門前にある「伊藤左千夫墓の石柱」

 

P1080089 境内にある小説・野菊の墓で有名な「伊藤左千夫の墓」・・・元治元年(1864)8月18日 ~大正2年(1913)7月30日

説明によると、1898年に新聞「日本」に『非新自讃歌論』を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。

また、1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など  となっています。

    【 続く 】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月14日 (金)

133,白内障の手術体験記

'07/9/10 に 「左目の白内障手術」 を受けてきました。
そこで今回は 白内障の手術体験 を、細かなことは省きますが書いてみようと思います。

P1040619

入院し、手術したのが「○邦大学佐倉病院(千葉・佐倉市)」という病院で、この画像がその病院です。

病院へは、京成電鉄の「ユーカリヶ丘」駅から病院まで無料送迎バスが運行されていて、利用者には有り難いサービスとなっています。

手術の課程・・
1,手術室入室 13時17分
ここでは血圧・心電図装置をセット
2,手術スタート・・13時30分
術中は意識有り。眩しいうえにやたらと目に液体が注がれるが、何をしているのかは不明。
緊張しているためか目が動いてしまい、「目を動かさないで」の注意が2回
3,手術終了・・13時46分 この間たったの 16分
術後 血圧・心電図セットを外す
4,手術室退出・・13時55分 この間 38分
5,手術の日は病院に1泊し、翌日の午前中に点眼薬と服用薬の説明があり、それを受け取り退院となりました。

P1040617_2 P1040616_2

【病棟内の廊下】         【病棟内の談話室】

術後の感想・・
1,目にゴミが入っているようなゴロゴロしていますが、痛みはありません。
2,そのゴロゴロも少しずつ少なくなっていくようです。 これは縫合の糸?のためで、自然と取れるそうです。
3,術後1時間は安静ですが、それ以降は疲れない程度のTV&読み・書きはOK。
4,眼帯を取った時の感想・・景色が明るく・白く見えるようです。
左目で見ると、昼光色の蛍光灯のようになっていて青白く見え、右目は電球色?のようになっているので、両目手術をしたら相当明るくなり、見映えは変わるのではないでしょうか。

【余談 1】 看護婦さんに、「手術室の入退室や手術時間を教えて下さい」と頼んだら、あまりこんな患者は居ないようでしたが、上記の手術課程メモをくれました。 

【余談 2】 この病院の敷地内は全て禁煙(含む駐車場)

退院後のケア・・1,
目薬・内服薬など受け取り、扱いを遵守すること。
2,洗髪・洗顔は2週間は原則として我慢。
3,ウオーキング・チャリンコ・ゴルフなどの運動も 2週間は中止。

【余談 3】 病院には「談話室」があって、そこには何冊かの雑誌・文庫本があったので、私も読み終えたものを置かせて と頼みました。

Photo_2 持っていった本は何れも文庫本で、「池波正太郎」「平岩弓枝」「北原亜以子」などの時代小説、それも私が好きな江戸もの?小説です。
置いてもらう時 看護婦さんに「もし置いてもらえるなら それに未消毒です」とお断りしておきました。

   ~~~~~~~~~~~~~~

【余談 4】 病院へ行ったとき時間があったので、京成電鉄の下車駅「ユーカリヶ丘」(病院への下車駅)周辺を歩いてみました。

P1040625 「ユーカリヶ丘駅」の駅ビルとホテルで、左側が京成電鉄の駅になっています。

P1040626駅前ショッピングセンター

P1040623 この「ユーカリヶ丘駅」を始発とする「モノレール」があります。電車?は「こあら号」となっていますが、ユーカリヶ丘だから「こあら」なのだそうです。

走行距離は約5㎞で 軌道は の字のように敷設してあって、この駅を起点にして1周し、料金は200円均一。 

乗っていて面白かったのが駅名で、「ユーカリヶ丘」・「センター」・「公園」・「女子大」・「中学校」・「井野」・「公園」・「センター」・「ユーカリヶ丘」、これが全ての駅ですが、何れもとてもシンプル。 

P1040630モノレールが「ユーカリヶ丘」駅のプラットホームに入ってきましたが、一周しても見所はないようです。 ただ遊園地よりは安い乗り物ではないかと思います。

駅周辺には高層集合住宅も建っていて、ニュータウンのそのもののようです。

【今回もお越し下さいまして、有り難うございました】

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月 6日 (木)

129,東京ってオモシロイ(高輪界隈)①

自分だけの宿題だったのですが、散策コースとして暖めていた「高輪界隈」を '07/9/4  に散策することが出来ました。

Photo

スタートは2時方向の「田町駅」。7時方向に下がって「御田八幡神社」、そこからぐるりと高台に登り、お寺さんが密集している中の「魚籃寺」、「薬王寺」、「王鳳寺(お化粧地蔵)」、「長松寺」を巡りました。

次に8時方向の「椎の大木」を眺め、6時方向に下がりながら「承教寺」、「光福寺(幽霊地蔵)」。 後は6時方向の「品川駅」を目指し、今回の散策は終了となりました。

2736 「御田八幡神社」・・・解説によると、和同2(709)年に、牟佐志国牧岡に東国鎮護の神として創建。当初は延喜式内稗田神社。
寛弘8(1011)年に武蔵国御田郷久保三田の地に遷座。嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇され、「綱八幡」と呼ばれた。
江戸開府の際に現社地に遷座。更に明治7(1874)年に三田八幡神社と改称。明治30(1897)年に三田を御田という旧名にし御田八幡神社として現在に至る そうです。

神社の背後の三田台地は、関東平野の西側に連なる武蔵野台地南の先端に位置し、神社に隣接した所に亀塚古墳があることから、この辺りには古代より人が住居を構え、現在に至っていると考えられる とのことです。

2733 「社殿」・・・昭和20年(1945)5月、米軍の爆撃により社殿炎上したが、同29年(1954)再建されました。

2779魚籃寺山門」・・・浄土宗魚籃寺は元和3年(1617)開創の豊前中津円応寺(現大分県中津市)の寺中魚籃院に始まるという。寛永7年(1630)当地に移転。  本尊の魚籃観音は中津から移した像で、右手に魚の入った籃を持ち、左手に天衣を携える唐女の姿をしているそうです。

2776 魚籃寺境内の「塩地蔵尊」・・・願を掛け、その願いが成就したならばお礼に塩を上げ感謝するのだそうで、ここでは塩が袋ごとお供えしてあります。

2744 「薬王寺本堂」・・・元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所に移転し、今に至っているそうです。

【伝承によれば、その昔日蓮が旱魃に苦しむ人々のために経文を読むと、坂が割れて水が湧きだし池となった。この奇跡の水は「薬王水」と呼ばれ、この霊水を守るために建てたのが「薬王寺」と言われている。】

2738 「朝顔の井戸と句碑」・・・説明によると、俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にしここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に釣瓶取られて もらい水」 と詠みました。後ろに見えるのがその井戸です。

【この句は、加賀千代の死んだ愛児への追憶であり、「蜻蛉つり きょうはどこまで 行ったやら」 と並べてみると、その愛児への手向けの水を汲むべき井戸の釣瓶に巻きついた朝顔。
その生きている朝顔のつるを切るにしのびない、せつない愛児への追憶が、せつせつとよむ人の胸をうつはずである。】
という話しもあるようです。

2739 「朝顔の井戸 句碑」・・・加賀千代女(かがのちよじょ、1703年(元禄16年) ~ 1775年10月2日(安永4年9月8日))。千代女は俳人。号は草風、法名は素園。 加賀国松任(今の白山市)で、表具師福増屋六兵衛の娘として生まれた。12歳の頃、岸弥左衛門の弟子となり、17才で各務支考(かがみしこう)に才能を認められ全国に名を知られるようになった。1720年(享保5年)18歳のとき、金沢大衆免大組足軽福岡弥八に嫁いだ。20歳の時夫に死別し松任の生家に帰った。30の時京都で中川乙由にあう。画を五十嵐浚明に学んだ。52歳で剃髪して尼となり、素園と号した。 「髪を結ふ手の隙あけてこたつかな」晩年には剃髪し、素園と号した。72歳の時蕪村の「玉藻集」の序文を書く。1775年(安永4年)73才で歿。辞世の句は「月も見て我はこの世をかしく哉」。1,700余の句を残したといわれています。

彼女の生地であるJR松任駅(石川県白山市)前にも、この句碑と一緒に釣瓶井戸があるそうです。

             【続く】釣瓶井戸とともに建っています

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年8月31日 (金)

125,東京ってオモシロイ(麻布十番)①

用事があって「麻布十番」へ行くことになりました。そこでどうせ行くのですからブログの「ネタ探し」をしない手はありません。

そんなことで '07/8/29 に行ってきたのですが、この日は今までの酷暑がウソのようで、東京地方の最高気温は27℃! そのうえ曇り空です。 

麻布とは・・・「あざぶ」の名が、文字で確認出来るようになるのは永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」に記された「阿佐布」が最初といえるが、因に「阿佐布」が「麻布」と記されるようになったのは正徳4年(1713)頃からであると「文政町方書上」に記録されている。 「あざぶ」の地名の由来は定かではないが、麻の生える土地とか、麻又は麻の布地の生産と関係づける向が多い そうです。

Photo スタートは12時方向にある「麻布十番駅」、直ぐ隣には「十番稲荷神社」があり、4時方向へ行って「一の橋」。 ここから3時方向にある「三井倶楽部」まで行き、戻って「武家屋敷長屋」の前を通り、中央やや左にある「善福寺」。 次に中央やや上にある麻布十番のシンボル「きみちゃん像」に挨拶し、左に行って「賢崇寺」、「大法寺」を巡り、やや下にある「一本松坂」、「がま池」「氷川神社」「安藤記念教会」は道沿いにあります。 そこから6時方向に下がって「釣り堀」を眺め、帰りはまた「麻布十番駅」に戻って今回の散策は終わりました。

2653 通りを挟んでの「十番稲荷神社」・・・以前の末広神社(弘仁十三年創建)および竹長稲荷神社(慶長年間創建)です。
両社は昭和二十年四月戦災により焼失した為、戦後、境内地を現在地に換地され、合祀して神社名を十番稲荷神社と改称したそうです。

2644 鳥居の右にある「かえる」・・・昔或る時火事によってこの辺りが灰燼に帰した時、「がま池」の辺にある屋敷のみが焼け残ったのは、池のかえるが口から水を吹いて猛火を吹き消した と言う故事から「かえる」は火防・やけど・無事かえる・若がえる などと貴ばれるようになった とのこと。

2647 鳥居の左には「七福神」が。

2649 「一の橋」・・・文久3年(1863)4月、「清河八郎(新撰組の前身である「浪士組」を結成した)」は外人居留地の焼討を計画。  この計画の2日前に、親交のあった上山藩の重臣金子与三郎宅で食事をしてその帰り、ここ「麻布一の橋」で幕府の見廻組 佐々木只三郎らに暗殺された。享年34歳で、墓は小石川の「伝通院」にあります。

2675 「綱町三井倶楽部」・・・竣工:大正2年(1913) 設計:J・コンドル  曲線や装飾を取り入れたバロック様式を細部に織り込んだ旧三井別邸で、現在は倶楽部会員やブライダルで使用され、内部は一般公開されていませんし、門から入ることも出来ないようです。 以前は三井財閥の迎賓館として使われたそうです。

2676 三田倶楽部の地続きにある「武家屋敷長屋」で、日向佐土原藩島津家の上屋敷の一棟。 (江戸時代の地図によると、ここには「日向佐土原藩 島津淡路守忠寛の屋敷があります。)

明治時代の建築の可能性はあるが、江戸時代の面影を残している建物だそうです。

   【続く】

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2007年8月25日 (土)

120,東京ってオモシロイ(目黒界隈)④

先日(707/8/13) 目黒へ行った時は酷暑のため撃退されてしまいましたが、8/23 に再挑戦してきました。

Photo 今回行った所は黒字で標示しましたが、「目黒不動」の周辺で「目黒不動」で廻りきれなかった境内と、「安養院」・「成就院」・「羅漢寺」・「海福寺」などを歩いてきました。

なお、前回と同じコースを歩くので、途中の場所にも立ち寄り、補足をしながら 以降をまとめてゆくつもりです。