2008年8月30日 (土)

250,広尾・麻布十番 界隈(その1)

’08/8/27 麻布十番(東京)へ行く用事があったので、用事の前に「広尾」から「麻布十番」界隈を散策してきました。

Photo スタートは9時方向の「地下鉄・広尾駅」で、8時方向の「祥雲寺」、Uターンし広尾駅を通り過ぎ「広尾稲荷神社」、上にあがって「スイスとノルウェー大使館」、そして「有栖川公園」を一巡り。 

「安藤教会」から1時方向の「地下鉄・麻布十番駅」に向かって、寄り道しながらの散策です。

Photo_3 「広尾駅」から「祥雲寺」までの通りを「広尾散歩通り」と名付けているようですが、ここは商店街になっていて、ショッピングはもちろん、カフェテラスでの一休みなど最適のようです。

この散歩通りの突き当たりにあるのが「祥雲寺」です。左は表からの山門、右が境内から「散歩通り」を眺めたものです。

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左は「祥雲寺本堂」、右は「鐘楼」

P1100742 戦国時代の武将「黒田長政の墓」で、建物の中に墓石が見えています。

P1100738 これが「墓石」で、高さは3メートルくらいあるのではないでしょうか。

「黒田長政」・・・説明によると、秀吉幕下の智将といわれた黒田如水は、秀吉死後の天下は徳川家康と見抜いて、関ヶ原の合戦には息子の長政とともに家康方に就いた。このため、長政は筑前福岡藩五十二万石の領主となった。

広い墓地の中央部に長政はじめ黒田家代々の墓がある。長政の墓には「興雲院殿前大中大夫筑州都督古心道大居士」 となっているそうです。

P1100754 左の建物は「黒田長政の墓」ですが、その右手一体は大名墓のようなものが林立していて、多分それぞれゆかりのある人の墓なのでしょう。

P1100750 「岡本玄冶の墓」・・・岡本玄冶は将軍の侍医で、千石をとっていたというから殿様並だそうですが、玄冶の名は切られ与三郎の登場する歌舞伎の舞台「与話情浮名横櫛」で有名。あの玄冶店(ゲンヤダナ)です。

この祥雲寺のすぐそばに、この医師である岡本玄冶の屋敷もあったことで、ここに埋葬されたのではないかと思います。

【 続く 】

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251,広尾・麻布十番 界隈(その2)

P1100723 「広尾散歩通り」は新しい店構えですが、二階部分はだいぶ古そうな家もあって、やはりここは祥雲寺の門前町なのでしょうか?

P1100757 「広尾稲荷神社」・・・慶長年間(1596~1615)、徳川二代将軍秀忠公が鷹狩の時、この地に稲荷を勧請したと伝えられます。

明治42年に廣尾稲荷神社の現社号となりました。このころの麻布広尾辺は萩の名所で、当社の俗称「はぎなめ稲荷」は可憐な萩が地をなめるように咲き乱れていた そうです。

P1100759 「南部坂」(左手の木立は「有栖川公園」)・・・忠臣蔵で有名な浅野家の下屋敷があったところです。後に盛岡藩南部美濃守の屋敷になり、明治29年(1896)に皇族有栖川宮家の御用地に、大正7年(1913)には高松宮家の御用地なっていたそうです。

南部美濃守の屋敷があったことで「南部坂」と呼ばれるようになったそうで、忠臣蔵の「南部坂雪の別れ」の坂ではありません。

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左は「ノルウェー大使館の紋章?」、右が「スイス大使館のマーク?」で、並べるとノルウェーの方が格調が高そう。

P1100768 「有栖川公園」・・・元は南部藩の下屋敷、その後宮家に移りそして公園になったもので、正式名は「有栖川宮記念公園」です。

園内は起伏に富み、東側の高台から西南側の低地に向けて大きく傾斜した地形となっている。園内には木が多く茂り、湧水が渓流となって西南側の池に注いでいて、畔はこの様な敷石の遊歩道になっています。

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「渓流沿いの遊歩道」と「有栖川宮銅像」

      【 続く 】

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252,広尾・麻布十番 界隈(その3)

P1100773 「安藤記念教会」・・・箱館(北海道・函館)戦争(戊辰戦争)で榎本武揚に従軍した安藤太郎 氏は、その後 、明治政府の大蔵省、外務省に登用され、1886年には初代ハワイ総領事に就任、キリスト教と出会います。そして文子夫人とともに洗礼を受け禁酒も誓います。
帰国した安藤氏は日本禁酒同盟を結成、信仰と断酒運動を続けます。1917年、自宅と全財産を神に捧げ教会を創設 したのがこの教会だそうです。

P1100774 「氷川神社」・・・天慶五年(942)、源経基 朝臣が天慶の乱(平将門の乱)を平定するため東征した時 、武蔵国豊島郡谷盛庄浅布(むさしのくに としまぐん やもりのしょう あざぶ)冠の松(現麻布一本松の地)に境内二千余坪を勧請したのがはじまり とのことです。

さらに「一本松の松の木をご神木とし」、となっていますから、3枚下の画像の一本松が当時のご神木だったのでしょう。尤も写っている松は何代目かの松なのでしょうけれど。

P1100776 「西麻布ヒルズ・フォレストタワー」という高層住宅で、地上29階、地下3階、高さ96メートル 2002/5に竣工

賃貸と分譲があるようです。

P1100775 近付いて見上げると・・・上が太くなっていて、そこから下を見ると何もない 住むには度胸が要りそう。

P1100777 「一本松坂と一本松」・・・氷川神社のご神木とされていた「一本松」かも知れません。

P1100787 「善福寺の山門」・・・天長元年(824)真言宗の開祖空海(弘法大師)の創建と伝え、その規模を高野山にならったので新高野とも呼ばれ、関東屈指の霊場だったそうです。

境内には、安政の仮条約調印以後明治初年までアメリカ公使館がおかれ、ハリスらが居住したことで知られる。ハリスの記念碑は昭和11年日米協会によって建てられ、他に福沢諭吉の墓、越路吹雪の碑があります。
また東京都内最大の銀杏で、樹齢は推定750年。親鸞上人が土に刺した杖が根付いたもの などもあります。

用事を済ませてから「善福寺」へ行ったので、山門は閉ざされていました。

P1100778 「きみちゃん像」・・・赤い靴の女の子は異人さんに連れられて行かなかったのです。
母「かよ」は、死ぬまで「きみちゃん」はアメリカに渡り、幸せに元気に暮らしていると信じていました。
しかし、意外な事実がわかったのです。「きみちゃん」は船に乗らなかったのです。

アメリカ人夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、「きみちゃん」は不幸にも当時不治の病といわれた結核 に冒され、身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京麻布の教会の孤児院に預けられたのです。
そして介抱の甲斐なく一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年(1911)9月15日の夜でした。

「きみちゃん」が亡くなった孤児院、それは、明治10年(1877)から大正12年(1923)まで麻布永坂にあった鳥居坂教会の孤児院でした。 (その場所は、ルート図の2時方向にある「十番稲荷神社(印)」の付近だそうです)

一方母親の「かよ」は,そんな娘の死も知らないまま昭和23年(1948)
「きみちゃん、ごめんね」
の言葉を残して64歳で他界した そうです。

この「きみちゃん」は横浜の山下公園にある「赤い靴の女の子」と同じ子で、この物語によって色々な所に「きみちゃん像」が創られるようです。

童謡「赤い靴」は大正10年(1921)に野口雨情によって書かれ、翌大正11年(1922)に本居長世が作曲したもの。
蛇足ですが、この歌を聴くと「♪ 異人さんに連れられて行っちゃった」の歌詞が、まるで拉致されたてしまったようでとても気になっていました。
しかし、この解説を見ているうちに「♪ 異人さんと一緒に行っちゃった」のだろう とこの歳になって判りました。

【 今回もお越し下さいまして 有り難うございました 】

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2007年8月31日 (金)

125,東京ってオモシロイ(麻布十番)①

用事があって「麻布十番」へ行くことになりました。そこでどうせ行くのですからブログの「ネタ探し」をしない手はありません。

そんなことで '07/8/29 に行ってきたのですが、この日は今までの酷暑がウソのようで、東京地方の最高気温は27℃! そのうえ曇り空です。 

麻布とは・・・「あざぶ」の名が、文字で確認出来るようになるのは永禄2年(1559)の「小田原衆所領役帳」に記された「阿佐布」が最初といえるが、因に「阿佐布」が「麻布」と記されるようになったのは正徳4年(1713)頃からであると「文政町方書上」に記録されている。 「あざぶ」の地名の由来は定かではないが、麻の生える土地とか、麻又は麻の布地の生産と関係づける向が多い そうです。

Photo スタートは12時方向にある「麻布十番駅」、直ぐ隣には「十番稲荷神社」があり、4時方向へ行って「一の橋」。 ここから3時方向にある「三井倶楽部」まで行き、戻って「武家屋敷長屋」の前を通り、中央やや左にある「善福寺」。 次に中央やや上にある麻布十番のシンボル「きみちゃん像」に挨拶し、左に行って「賢崇寺」、「大法寺」を巡り、やや下にある「一本松坂」、「がま池」「氷川神社」「安藤記念教会」は道沿いにあります。 そこから6時方向に下がって「釣り堀」を眺め、帰りはまた「麻布十番駅」に戻って今回の散策は終わりました。

2653 通りを挟んでの「十番稲荷神社」・・・以前の末広神社(弘仁十三年創建)および竹長稲荷神社(慶長年間創建)です。
両社は昭和二十年四月戦災により焼失した為、戦後、境内地を現在地に換地され、合祀して神社名を十番稲荷神社と改称したそうです。

2644 鳥居の右にある「かえる」・・・昔或る時火事によってこの辺りが灰燼に帰した時、「がま池」の辺にある屋敷のみが焼け残ったのは、池のかえるが口から水を吹いて猛火を吹き消した と言う故事から「かえる」は火防・やけど・無事かえる・若がえる などと貴ばれるようになった とのこと。

2647 鳥居の左には「七福神」が。

2649 「一の橋」・・・文久3年(1863)4月、「清河八郎(新撰組の前身である「浪士組」を結成した)」は外人居留地の焼討を計画。  この計画の2日前に、親交のあった上山藩の重臣金子与三郎宅で食事をしてその帰り、ここ「麻布一の橋」で幕府の見廻組 佐々木只三郎らに暗殺された。享年34歳で、墓は小石川の「伝通院」にあります。

2675 「綱町三井倶楽部」・・・竣工:大正2年(1913) 設計:J・コンドル  曲線や装飾を取り入れたバロック様式を細部に織り込んだ旧三井別邸で、現在は倶楽部会員やブライダルで使用され、内部は一般公開されていませんし、門から入ることも出来ないようです。 以前は三井財閥の迎賓館として使われたそうです。

2676 三田倶楽部の地続きにある「武家屋敷長屋」で、日向佐土原藩島津家の上屋敷の一棟。 (江戸時代の地図によると、ここには「日向佐土原藩 島津淡路守忠寛の屋敷があります。)

明治時代の建築の可能性はあるが、江戸時代の面影を残している建物だそうです。

   【続く】

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126,東京ってオモシロイ(麻布十番)②

次に向かったのが、麻布十番のほぼ中央にある「善福寺」です。

2673 「善福寺 山門」・・・天長元年(824年)、弘法大師空海が関東一円に真言宗を広めるために、西の高野山に模して東の麻布山として開山した のが初めてとして伝えられています。
この伝承の通り平安時代の創建だとすれば、都内で最古の寺のひとつになるそうです。

ご本堂は全面改修中で、お参り出来ませんでした。

2667 「鐘楼」ですが、時間になると自動的に鐘を突く仕掛けになっているようで、誰も居ないのに突然「ゴォ~~ン・ゴォ~~ン」には驚かされました。

2664 善福寺にある「大銀杏」・・・樹齢約750年と推定され、都内で最古のものとして国の指定を受けています。

寺の言い伝えによると、善福寺中興の祖了海上人は寛喜元年(1229)ここに立ち寄った親鸞の教えを受け、これに帰依して、真言宗から浄土真宗に改宗したといわれます。親鸞上人は寺を去るにあたって、持っていたイチョウの杖を地上にさして、「念仏の救法、凡夫の往生もかくの如きか。」というとその杖が根づき、枝葉が茂って今日にいたったといい、俗に逆さイチョウ、または御杖イチョウといわれています。

2665 大銀杏・・・つらら状の枝(気根)が上から何本も垂れ下がっていて、まるで根が上にあるようなので、そこから「逆さ銀杏とも呼ばれているそうです。

幹周りは10メートル以上で、樹齢は750年以上と推定され、「国指定天然記念物」だそうで、この木は火災で枯死したかにみえましたが、奇跡的に復活したのだそうです。

2659最初のアメリカ公使館跡の碑(都指定旧跡)・・・ 安政三年(1856)に来日したハリスはそれまで下田に駐留していたが、安政六年に公使に昇格すると、大統領からの親書を将軍に手渡すことを理由に江戸市中に公使館を設けることを強硬に主張した。 交渉の末、幕府は善福寺を公使館とすることを決定し、その年の六月よりハリス、通訳官ヒュースケンら一行約二十名がここに在留することになった と説明されています。

2668 境内にある「越路吹雪の碑」・・・作詞家岩谷時子さんらによって、建碑された「越路吹雪の碑」だそうで、隠れてしまいましたが下には「愛の賛歌」が彫られています。 

越路吹雪(1924/2~1980/11)

2657 参道にある「柳の井」・・・「柳の井」は通称で正式には「楊柳水」といい、井戸の脇には「楊柳水銘」の石碑がある。また弘法大師が常陸の鹿島明神に願って得た阿伽井(あかい)であるという説から、「鹿島清水」の別称があるそうです。

2656 参道から山門を振り返ると・・・

背景は元麻布ヒルズの高層住宅ですが、これを見た途端 玩具の「ヤジロベェ」を連想してしまいましたが、住むのにはチョット勇気が要りそう。(ひがむわけではありませんが、私は住みたくありません)

  【続く】

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127,東京ってオモシロイ(麻布十番)③

ここは「麻布十番」の中心なのでしょうか、狭い通りですが商店街になっていて、その一角にはこんもりと大きな木が木陰になっている「癒しの広場」があります。

2654 その癒しの広場に一人で立っているのが「きみちゃん像」・・・赤い靴の女の子の名は「岩崎きみ」。  明治35年に静岡県で生まれ、北海道の開拓農場に母の「かよ」と共に入植しますが、過酷な環境から、3歳でアメリカ人宣教師の養女に出されます。
かよは、開拓農場で働く鈴木志郎と再婚しますが、明治40年に札幌に移り、夫はそこで勤めた新聞社で野口雨情と親交を持つようになりました。
しかし、宣教師夫妻は帰国する時、「赤い靴の女の子」を連れて行かなかったのです。
当時不治の病と言われた結核に侵され衰弱したきみちゃんは、やむなく麻布の孤児院に預けられましたが、看病むなしく、9歳の生涯を閉じる事となったのでした。
その孤児院があったのが、現在の「麻布十番稲荷」がある所だとされています。

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この物語を読んだら、「横浜の赤い靴の像」と比較することは止めにしました。

それは どちらも愛らしいからです。

2700 「賢崇寺 参道」・・・2002年石畳に改修された参道は、以前は84段の石段で、門から境内に続く道。   この坂を登りつめると、かつて、芭蕉が、
 『鶯を尋ねたずねて麻布まで』  と詠んだという丘が境内です。

2701 賢崇寺の「本堂」・・・佐賀鍋島藩歴代藩主の菩提寺で寛永12年(1635)の創建。10代藩主直正は日本ではじめて種痘を行い、明治維新の原動力のひとりとして活躍した。  詩人蒲原有明、国学者久米邦武、「真白き富士の嶺」の哀歌で知られる七ヶ浜沖ボート転覆事故犠牲者の逗子開成中学生徒や、226事件受刑者22士の墓がある とのことです。

2691 「大法寺」・・・大法寺は慶長2年(1597)、慈眼院日利上人によって創建され、大黒天像は伝教大師作「三神具足大黒尊天」で、享保15年(1730)日舜上人の功によって奉安されました。 地元では大法寺というより「一本松の大黒さま」として親しまれているそうです。

この前の女性が歩いている道が「大黒坂」で、左へ行くと「一本松坂」です。

2710 「一本松坂」・・・現在の松は植え継がれて五代目、冠の松とも秋月邸の羽衣の松とも呼ばれていたといいます。この松に甘酒を竹筒に入れて収めると咳が治るという俗信もありました。他にもいくつかの説がありますのでご紹介します。
ここは、もともと古墳であったそうです。そして江戸初期には「首吊塚」とも呼ばれていました。関が原の合戦で送られてきた首級を家康が検分し、埋めた所だそうです。
また、異なる伝説では、平将門を討伐にきた源経基が、将門の屋敷内を内偵しての帰り道、一軒の民家に泊まって料理をふるまわれた。経基は翌朝、装束をあらためて出立しましたが、そのとき脱いだ衣服をかけたのがこの一本松だといいます。

源経基(みなもとのつねもと)などの伝説を持ち、古来、植えつがれている一本松が坂の南部にあるための名である ということです。

この一本松からは、『狸坂(左下の画像)』 『大黒坂(右上の画像)』 『暗闇坂(左上は、上から見た暗闇坂) (右下は、下から見た暗闇坂)』の三つの下り坂に分岐しています。

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暗闇坂・・・名前の由来は、昼間でも暗いほど鬱蒼と樹木が茂り、狭い坂道に覆いかぶさっていたからといわれる。暗く見通しの悪い急な坂道のためか、妖怪、幽霊が出没するなどといった伝説が生み出された。実際に追い剥ぎなどが現われる物騒なところであった そうです。

大黒坂・・・坂の名前になっている大黒天こと大法寺は、坂上から見ると左側になります。

狸坂・・・港区が立てた坂の標識によると「人をばかす狸が出没したといわれていた。別名として「旭坂」ともいうのは、東へのぼるためか」と書かれています。

    【続く】

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128,東京ってオモシロイ(麻布十番)④

Photo 次に行ったのが3時方向にある黒字の「がま池」ですが、ここは既にマンションが建っています。  港区の案内標示板には「マンション管理室に言えば見ることが出来る」となっていましたので、その旨を管理人に話すと「最近泥棒に入られたため今は公開していない」とのことでした。

仕方なく今来た道に戻り、南下しながら「氷川神社」「安藤記念教会」そして「釣り堀の衆楽園」に向かいます。

2684_3 「氷川神社」・・・氷川神社の創建は、天慶五年(942)源経基が東征の時とも、或いは文明年間(1469~1485)太田道灌勧請のときともいわれ、その後、万治年間(1658~61)麻布一本松付近より現地へ移転 しました。麻布の総鎮守府で江戸氷川七社の一つとして崇敬をされてきた神社だそうです。

2685_2「氷川神社本殿」

ここでも「ヤジロベェ」が のし掛かってきます。

2682 「安藤記念教会」・・・創立者は安藤太郎 氏(1846~1924)。
函館戦争で榎本武揚に従軍した安藤は、その後明治政府の大蔵省、外務省に登用され、1886年に初代ハワイ総領事に就任しキリスト教と出会いそして文子夫人と共に洗礼を受け、禁酒も誓いました。 帰国した氏は「日本禁酒同盟」を結成し、信仰と断酒運動を続け、1917年に自宅と全財産を神に捧げこの教会を創設したそうです。 ここは「都選定歴史的建造物」に指定されています。

2717 南麻布にある「釣り堀・衆楽園」・・・料金は1時間600円で、餌200円。
2時間だと1100円という、嬉しい割引サービスもあるそうです。
緑に囲まれていてとっても静かですが、ヤブ蚊が心配?
東京のど真ん中とは信じられない、時間が止まったような不思議な空間でした。

これからの画像は、途中でのスナップです。

2721 下校時の「インターナショナル・スクール」(一本松坂にて)

2720 このような家も残っていました。

2715 このような家も残っていました。

思ってもいなかった坂の多い「麻布十番界隈」でしたが、今までのような酷暑ではなかったのには助けられました。 それでも坂を登ったり・下ったり、あちら・こちらと彷徨い歩いた約4時間は汗ビッショリの散策でした。

【以上で「麻布十番」の散策は終わりますが、今回もまたお越し下さいまして有り難うございました】

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2007年8月25日 (土)

120,東京ってオモシロイ(目黒界隈)④

先日(707/8/13) 目黒へ行った時は酷暑のため撃退されてしまいましたが、8/23 に再挑戦してきました。

Photo 今回行った所は黒字で標示しましたが、「目黒不動」の周辺で「目黒不動」で廻りきれなかった境内と、「安養院」・「成就院」・「羅漢寺」・「海福寺」などを歩いてきました。

なお、前回と同じコースを歩くので、途中の場所にも立ち寄り、補足をしながら 以降をまとめてゆくつもりです。

「行人坂」の途中にあった祠のことが判りました・・・「目黒川架橋供養 勢至菩薩 石像」で、石像に彫られている銘文によると、1704年に西運八百屋お七の恋人 吉三が僧になり、西運と名乗ったという説という僧が目黒不動と浅草観音に毎日参詣し、往復の途中で江戸市民の報謝を受け、目黒川の両岸に石壁を築いて太鼓橋を架けた となっている貴重な資料だそうです。

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Photo_2 この画像は、広重作と言われる江戸名所百景をお借りしたものですが、「目黒の太鼓橋」を描いたものです。太鼓橋は、長さ八間三尺(約16メートル)・幅二間(約4メートル弱)、石梁なり となっているそうです。

八百屋お七の火事は天和2年(1682)であり、太鼓橋がかかったのが享保の末であるから、1730年から1735年までの間と推定すると、およそ50年の開きがある。吉三(西運)が10代で火事、60代で高僧になって橋をかけたのだろうか。 という説もあるようで、祠の説明と合わないようです。

蟠竜寺にある「岩屋弁天」の入口と、岩屋の奥に安置されている「弁天さま」です。

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       【 続く 】

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121,東京ってオモシロイ(目黒界隈)⑤

次に向かったのは「目黒不動」で、前回廻りきれなかった境内を歩きます。

文化9年(1812)には湯島天神と共に富籤興行が認可され、谷中感応寺(天王寺)を加え「江戸の三富」としても盛況を見せている(目黒区史)。
第2次大戦の戦災で建物の多くは焼失し、わずかに残った前不動堂(下画像の左奥)が都指定文化財になっています。

2621 左奥は「前不動」で、将軍がお参りする時は庶民は本堂まで行くことが出来ず、ここでお参りしたそうで、今は都の有形文化財に指定されているそうです。

右手前は「垢離(コリ)堂」で青竜大権現を祀ってあるそうです。

2626_2 「地蔵堂」

2623 地蔵堂に安置されている「菩薩像」

2624 地蔵堂に安置されている「閻魔像」2625

地蔵堂に安置されている「奪衣婆像」

2630 比翼塚は 「平井権八」を熱愛した新吉原の花魁 「小紫」が鈴が森で刑死した愛人権八のあとを追って、その墓前で悲壮な自害をとげたという。
人びとは二人の悲恋を哀れみ、来世で契りが結ばれるようにと、地元の人達によって建てられたそうです。

2619_2 「本居長世の碑」・・・「十五夜お月さん」 「赤い靴 」 「七つの子 」 など童謡の作曲で知られる本居長世。
その業績を称えた歌碑です。 不動そばの三折坂下に居を構えて、作曲に専念していたといわれています。

       【続く】

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122,東京ってオモシロイ(目黒界隈)⑥

ここでは目黒不動に近くにある「安養院」についてですが、小さなお寺さんですが、私の好きな石仏が至る所に安置  と言うよりは無造作に置いてありました。

境内には「北インド・チベット仏教美術館」があり、館内は石窟遺跡風の造りで薄暗く、チベット密教独特の妖しい世界が広がっている とのことですが、入りませんでした。(拝観は有料)

2615 山門と巨大な狛犬 (単車を整備している人と比べてください)

2605 向かって左側の狛犬

2606 向かって右側の狛犬

気に入った石仏さんをピックアップしてみました。

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       【続く】

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