296,「江東・墨田」界隈(その1)

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09/4/24 「亀戸天神の藤の花が三分咲き」と聞いたので、また出掛けてきました。そしてどうせ行くのですから「新東京タワー」の出来具合も確認してきました。

【今回のブログは「連結画像?」にしてみました】

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スタートは4時方向の「亀戸駅」、ここから11時方向にある「亀戸天神」「龍眼寺(萩寺)」。
そして9時方向に移動しながら、「法恩寺」「妙見山別院」を経由、「「大横川親水公園」を北上し、「新東京タワー建設地」の確認、そして「押上駅」がゴールの散策でした。

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亀戸駅ビル(左)と、バス停広場にある噴水ですが、親亀・子亀・孫亀がそれぞれ背中に重なった格好で、高さ3mあり、一番上の孫亀の背中から水が噴出しています。羽がついているのは、「亀戸地区が未来にむかってはばたくように」との願いがこめられている(製作者談)そうですが、それにしてもチョットねぇ というのが感想です。

Photo_2 亀戸駅から「亀戸天神」へ向かう道沿いにはこのような幟が付けられ、華やかさを盛り上げています。

右は正面の大鳥居で、この先には「太鼓橋」が待っています。

Photo_6 「亀戸天神」・・・菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官が、天神信仰を広めるため社殿建立の志をもち、諸国を巡った。
そして寛文元年(1661)、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる と解説されています。

下は境内にある「撫で牛」ですが、誰もが同じ箇所を撫でるようで「頭と腰」は光っています。

 

Photo_3 左は「太鼓橋」の上から「社殿」を撮ったもので、右はその太鼓橋です。が、どうも花が少ないのです。

昨年('08/4/30)にもお参りに来ましたが、その時と比較するとどうも淋しい開花状況です。

Photo_4 これが昨年('08/4/30)に撮った画像ですが、やはり6日間の差は、花にとっては大事な時間なのでしょうか。

Photo_5 「龍眼寺」・・・応永2年(1395)開山。39世住職が萩を好み、元禄6年(1963)に境内に萩を植えました。
その後、明和7年(1770)住持の義梅がさらに萩を増殖したので当寺を「萩寺」と称し、中秋のころは遊覧の人が多く集う江戸の名所の一つとなった そうです。

左は「龍眼寺・山門」、右は萩の植え込みで、秋には見事なトンネルになるのでしょう。

   【 続く 】

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297,「江東・墨田」界隈(その2)

「亀戸天神」から「龍眼寺」を経由し、ここから9時方向に移動しながら「法恩寺」「妙見山」を巡り、新東京タワー建設現場を目指します。

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説明によると、「法恩寺」は太田道灌が江戸平河に創建した寺院で、当時は本住院と号しましたが、大永4年(1524年)に平河山法恩寺と寺号を改めました。
後、元禄元年(1688年)に本所の現在地に寺地が定まりました となっています。

境内には太田道灌の供養塔(左・中央)や、記念碑(右)も建てられています。

Photo 左は境内にある「三重塔の鐘楼」ですが、とても見事で美しい形をしています。

右は、直ぐ傍にあった「たんぼとけの碑」・・・右側には「たん・ぜんそく・百日咳守護」と彫られています。

Photo_2 「妙見山」(右)・・・勝海舟の父が、息子(当時の勝麟太郎)が犬に急所を噛まれ、その全快を祈り「水垢離」をとった場所で、2月にはこれに因んで?「水垢離」の行事もあるそうです。

左は、それを記念?して建てられた「勝海舟の胸像」

Photo_3大横川を埋め立てて出来た親水公園。
南北に長さ約1.8㎞に伸びる区民の憩いの遊歩道で、ベンチや噴水、緑地などが整備され、街歩きの途中の休憩地点として最適です。

園内には釣り堀もあって、無料。 但し釣り具などは持参で、獲物?の持ち帰りはダメ。

Photo_4きょうの散策で最後に立ち寄った「押上駅」傍の「東京新タワーの工事現場」です。

これは『東京スカイツリー(Tokyo Sky Tree)』の完成予想図と概略図ですが、東京都墨田区押上に建設中の電波塔で正式名称だそうです。

高さ610.58mは2011年完成時点で鉄塔としては広州テレビ・観光塔(建設中)の609.6mを上回る世界第1位。
建築物としてはブルジュ・ドバイ(建設中)の818mに次ぐ世界第2位となるとのことで、2008年7月14日に着工し、2011年12月に竣工、2012年4月 営業予定だそうです。

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【 今回もお立ち寄り下さいまして有り難うございました 】

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180,亀戸~両国界隈(その1)

今回の「東京ブラブラ歩き」は、梅の季節も終わろうかという時期になってしまいましたが、'08/3/8 に「亀戸・錦糸町・両国界隈」を散策してきましたので、このことについてお話ししたいと思います。

Kameidomap_3 これは前半のルートですが、スタートは4時方向の「亀戸駅」。 ここから北上して「東覚寺」、西方向にルートを変えて「香取神社」、「普門院」、そして「亀戸天神」。  更に北上すると「龍眼寺」があり、西方向に向かって行くと「法恩寺」があります。

P1080075 名所・旧跡ではありませんが、如何にも昔から商っているような風情の店がありましたので パチリ。 「炒り豆専門の店」のようです。

P1080077 「東覚寺・本堂」・・・東覚寺は享禄4年(1531)玄覚法印の創建と伝えられている。
東覚寺の不動明王は、東大寺別当良弁(689-773)の作で、大山寺(神奈川県)本尊と同木同作といわれ、江戸時代より亀戸不動として信仰をあつめてきた とのことです。

P1080086 「亀戸印」の付いた「香取神宮」

昔は「亀戸大根」が名産だったようですが、今では想像することが出来ないほどビルの街になっています。

P1080079_2香取神宮本殿・・・説明によると、香取神社は社伝によれば665年の創建で、藤原鎌足(614-669)が亀の島に船を寄せ、香取大神を勧請し旅の安全を願ったのが始まりといわれ、以来亀戸村の総鎮守として信仰をを集めています。
平安時代の中期、関東で起こった平将門の乱(935-940)を平定した藤原秀郷が、戦勝の返礼として弓矢を奉納した古事にちなみ、毎年5月5日に勝矢祭が行われているそうです。 

P1080081 境内に安置されている「水かけ大黒・恵比寿の像」・・・亀戸の地名の由来である「亀が井」を香取神社境内に再興し、神社に納められている恵比寿、大黒像の二福神に亀が井の水」をかけ福を授かる という仕組みだそうです。

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「普門院」と、門前にある「伊藤左千夫墓の石柱」

 

P1080089 境内にある小説・野菊の墓で有名な「伊藤左千夫の墓」・・・元治元年(1864)8月18日 ~大正2年(1913)7月30日

説明によると、1898年に新聞「日本」に『非新自讃歌論』を発表。『歌よみに与ふる書』に感化され、正岡子規に師事。子規の没後、根岸短歌会系歌人をまとめ、短歌雑誌『馬酔木』『アララギ』の中心となって、斎藤茂吉、土屋文明などを育成した。

また、1905年には、子規の写生文の影響を受けた小説『野菊の墓』を『ホトトギス』に発表。夏目漱石に評価される。代表作に『隣の嫁』『春の潮』など  となっています。

    【 続く 】

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181,亀戸~両国界隈(その2)

P1080075_2 「亀戸天神」・・・説明によると、徳川幕府は本所の町を、江戸の大半を焼き尽くした明暦大火の被害による復興開発事業の土地とさだめ、天神様を篤く信仰していた四代将軍家綱公はその鎮守の神様としてお祀りするように現在の社地を寄進されました。
そして、寛文二年(1662)10月25日に太宰府の社にならい、社殿、回廊、心字池、太鼓橋などを営み、以来約350年後の今日まで東国天満宮の宗社として崇敬されてきた となっています。画像は亀戸天神ののパノラマです。

P1080114藤棚と太鼓橋

P1080110 「塩原太助」・・・江戸時代中期から後期にかけて両国で薪炭商を営み、一代で財を築き、その豊富な私財で道路改修や土木工事に投じたそうです。

今では回向院の裏手に「塩原橋」という橋も残っています。その太助が寄進したという石灯籠。

講談などでお馴染みですが、上州から江戸へ出てくる時、大切に飼っていた馬との涙の別れは有名です。

P1080112 境内の太鼓橋からの「社殿」

参道の両側には梅林や藤棚が続いています。

P1080118ここは「くず餅」で有名な 「船橋屋」・・・江戸は文化二年(1805年)、十一代将軍徳川家斉の頃、船橋屋は創業いたしました。初代勘助の出身地は下総国(千葉県北部)の船橋。当時ここは良質の小麦の産地でありました。
勘助は、亀戸の天神様が梅や藤の季節に参拝客でにぎわうのを見て上京し、湯で練った小麦澱粉をせいろうで蒸し、黒蜜ときな粉をかけた餅を作り上げました と説明されてます。

今はくず餅の他に甘味もあって、若い人にも人気があるそうです。

P1080119 龍眼寺の山門と本堂で、応永2年(1395年)創立。江戸の頃、住職が諸国から百種以上の萩を集め、境内に植えてから萩寺とも呼ばれ、江戸の名所となり、多くの文人墨客の来遊するところとなったそうです。

P1080120_2 境内に安置されている「布袋さま」

   【 続く 】

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182,亀戸~両国界隈(その3)

Kameidomap_5今回はこのルート図では最も西側(9時方向)の場所の紹介で、「法恩寺周辺になります。

P1080135 「法恩寺」の「山門」と「三重塔の鐘楼」・・・長禄2年(1548)に太田道灌によって江戸城内に開かれた祈願所が始まりで、その後神田の柳原から谷中の清水町へと移転し、現在の場所へ落ち着いたのは元禄8年(1695) とのことです。

P1080127 「法恩寺の本堂」

P1080130 「太田道灌の供養塔」・・・説明によると、室町中期の武将であり、歌人でもある。 名は資長(幼名は鶴千代丸、初名は持資)といったが、1458年には剃髪し、道灌と号した。  

築城(「城取極意」)・兵馬の法(「武経七書」:孫子・呉子・司馬法・尉りょう子・六とう・三略・李衛公問対、足軽戦法)に長じ、江戸城(1457年)を始め川越・岩槻など諸城を築いた となっています。

P1080134境内に建てられている 「太田道灌と山吹の花」の物語のレリーフでして大変見難いのですが、上の方に太田道灌が、そして左下に山吹の花を持った女性が彫られています。

この「山吹の里」については、早稲田(東京)の傍にある「面影橋」の袂に、その碑が建てられています。

P1080133 「三重塔の鐘楼」ですが、珍しいのではないでしょうか。

経石塔(三重塔)は宗祖六百五十年遠忌記念として昭和7年(1932)建立.。
天平風鉄筋造り、当時新様式鐘楼として名高い のだそうですが、空襲に遭わなかったのでしょうか。

P1080129 ここの境内の梅も満開でした。

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法恩寺の傍に建てられていた「たんぼとけ」の碑(右には小さく「たん・ぜんそく・百日咳守護」となっています)・・・痰に苦むものは一七日の精進をして祈願を籠め、全快する時は御礼として塔婆を上げるのださうだ、寺からは別に御符をくれる・・・この様に明治40年11月発行の新聞に「東京の迷信」として書かれています。 

   【 続く 】

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183,亀戸~両国界隈(その4)

Kinnsichoumap (その4)は、2時方向にある「妙見山別院」からで、「大横川親水公園」を歩き、9時方向に向かって「北斎通り」を通り、「江戸東京博物館」の所で6時方向に下り、「両国公園」・「吉良邸跡」・「回向院」からゴールの両国駅までのコースです。

P1080138_2 「能勢妙見山別院」・・・大阪能勢妙見山の全国唯一の別院として、安永3年5月11日の創建です。また能勢筑前守頼直の江戸屋敷であり、屋敷内に妙見堂を建立して摂津ノ国妙見山より妙見尊像を分祀したもの だそうです。

P1080145本堂

P1080142境内に安置されている「勝海舟胸像」・・・勝海舟が九歳のとき、犬に急所を噛まれる大怪我を負った。海舟の父小吉は、能勢妙見堂で息子の回復を祈り続け、海舟は急死に一生を得た。そのことを記念して境内に勝海舟の胸像が創られた とのことです。

小説「父子鷹」や「勝海舟」を読むと、父の子吉は普段からこの妙見山を信仰し、水垢離修行をしていたらしく、今でも毎年2月に水行が行われるそうです。

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「葛飾北斎誕生の地」・・・説明によると、宝暦10年(1760) ~嘉永2年(1849))は、江戸時代の化政文化を代表する浮世絵師の一人である。  森羅万象何でも描き、生涯に3万点を越す作品を発表し、版画の他、肉筆画にも傑出した。  さらに読み本挿絵芸術に新機軸を出したこと、北斎漫画をはじめ絵本を多数発表して毛筆による形態描出に敏腕を奮い、絵画技術の普及や庶民教育にも益するところが大であった。  葛飾派の祖となり、ゴッホなど印象派絵画の色彩にも影響を与えた。

代表作に「富嶽三十六景」「北斎漫画」などがある となっています。

P1080151 「北斎通り」・・・ここ両国本所で「葛飾北斎」は生まれたとのことで、町興しということなのでしょうか「北斎通り」と名付け、活性化に一所懸命のようです。

この道路標識や、街路灯には北斎の絵が多数飾られています。

P1080152 北斎通りにある「野見宿弥神社」・・・角力の始祖である野見宿弥を祀る神社です。境内には横綱の碑があって歴代の氏名が刻まれています。

P1080156 両国公園にある「勝海舟生誕の碑」・・・公園付近に男谷(オタニ)精一郎の屋敷があった。勝海舟の父小吉は幕臣男谷家から勝家に養子に入った人物であり、男谷家に居候していたときに麟太郎(海舟)が生まれた。 男谷家当主の精一郎は直心影流の名人であり、自宅で道場を構えていたほか、幕府が設立した講武所でも教えた。  碑の揮毫は西郷吉之助(西郷隆盛の孫)である。

P1080158 「吉良邸跡」・・・忠臣蔵の討ち入りの舞台になった所です。

P1080166 「回向院の山門」

この正面方向が「両国駅」で、歩いて数分です。

P1080162 境内にある「鼠小僧次郎吉の墓」・・・寛政9年(1797) ~天保3年(1832)は江戸時代後期、化政時代に出没し大名屋敷を専門に荒らした窃盗犯。本名、次郎吉(じろきち)。合わせて「鼠(ねずみ)小僧次郎吉」と称される事もある。  本業は鳶職であったと言われ、義賊として有名な人物  はご存知の通りだと思います。

江戸市中引き廻しの時には美しい着物を身に付け、薄化粧をして口紅までしていたという。処刑は小塚原刑場にて行われた。 享年36。

墓石は割られて持って行かれてしまうため、墓石前には割っても好いような代理墓石が安置されています。この代理墓石も当初は戒名など彫られていたそうですが、今では面影がありません。

                                   【 続く 】

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184,亀戸~両国界隈(スナップ編)

今回の散策の途中で撮ったものを、「スナップ編」としてまとめてみました。

P1080084 亀戸の香取神社

P1080109 亀戸天神

P1080125_2 「ウサギに話し掛ける子」という彫像ですが、誰かがイタズラをしたのでしょうか、この様なイデタチでウサギに話し掛けていました。

P1080146 孫と一緒に

P1080148 水温む

P1080149 特訓・・・今の子供は靴を履いて竹馬に乗るのですが、これは至難の業と言えるでしょう。

P1080155_2 知ってか知らずか、「勝海舟生誕の地」の両国公園で元気に遊ぶ子供達。(左奥にその碑が建っています)

「後書き」
図らずも今回散策した界隈は、 '45/3/10 未明の「東京大空襲」で大打撃を受けた場所でした。

この空襲の日、偶々学童疎開先から東京の我が家に一時帰宅していた私は、東から南の空が真っ赤に燃えていることや、探照灯(サーチライト)に照らされたB29の大きな機体を、物干し台から眺めていました。
今では怖かったのかどうかの記憶はありませんが、多分その当時は「怖いもの見たさ」だったのでは と思います。
この後もB29の爆音を何度も聞いていますが、普通の飛行機の「ブ~~~~ン」という音と違って、「ブ~ン・ブ~ン」という波状的な音は今でもハッキリと憶えているから不思議です。

散策している限り、今ではその痕跡を見ることは出来ませんが、それでも多くの橋の袂には、焼死や溺死した多くの方々のための「慰霊碑」が建てられていました。

 【今回もお越し下さいまして 有り難うございました】

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44,東京ってオモシロイ(両国)

はじめに・・・今回もまた目的&地図無しのブラブラ歩きですが、違うところは腰痛手術から約2ヶ月経ったので、そのリハビリ歩行を兼ねたものでした。

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電車に乗っていて きょうはどこへ行こうかを考えていました。

最初は浅草方面かなぁ だったのですが、今は師走 師走と言えば忠臣蔵、忠臣蔵と言えば吉良邸 (笑)  と言うことで、急遽 総武線の両国駅で下車。  

駅の出札口で「この周辺の案内図は?」「いま切らしている」 とのこと 残念

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歩いた周辺の地図ですが、初めての土地なので黒点線の歩行コースもあまり正しくありません。

スタートは両国駅からでしたが、矢張りここは相撲の町で、何ヶ所かの相撲部屋の前を通りました。

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両国駅を降りて大通りに出ると、このような相撲の石像が所々にあって、 目を楽しませてくれます。

それと忠臣蔵の幟が立っていて、いかにも年の暮れ と言った風情。

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大通りを南下(6時方向)すると、すぐ正面に在るのが「回向院(エコウイン)」で、これがその山門です。

私は知らなかったのですが、ここは忠臣蔵とは関係はないようで、「振り袖火事」の犠牲者を供養するために建てられたそうです。

また「ねずみ小僧次郎吉」の墓もあるそうで、受験学生にも人気があるとか。

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道理で裏通りを歩いていたら、このようなレリーフがありました。

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回向院の裏手にあるのが「吉良邸跡」 で、左にある木戸が入り口ですが、中は驚くほど狭い。 (補足);昔の吉良邸は松坂町1、2丁目(現両国2、3丁目)のうち、約8,400平方メートルをしめる屋敷でしたが、昭和初期、周辺の住宅化が進む旧吉良屋敷跡を保存するため、地元雄志が土地を購入、周囲をすなまこべい長屋門石壁造りに復元保存し、東京市に寄贈したのが「本所松坂町公園」の始まりである がこの「吉良邸跡」のことです。

右にある石碑には「赤穂義士遺跡 吉良邸跡」と彫られています。

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邸跡にある「首洗い井戸(右)」と「吉良家家臣の供養碑(左)」ですが、狭い所にあるからでしょうか、何となく生々しい思いがします。

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ここから3時方向に行くと児童公園があり、その園内の東側にあったのが 「勝海舟生誕之地」の石碑。

江戸時代のこの周辺は、本所松坂町と呼ばれていたようで、「本所七不思議」のような伝説もあるとのことです。

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上記の地図の吉良邸跡の真下にあるのが「塩原橋」。

この近所に「塩原太助」の住居があったそうで、この名前が付いたそうです。

一見すると木造橋のようですが、コンクリートで造られた立派な橋です。

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回向院の並びにあって、両国橋の近くにある「ももんじや」 はイノシシ料理で有名らしい。

この画像では見えませんが、この左側にイノシシが吊されていました。

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両国橋の東側の袂にあった石碑で、赤穂浪士の一人「大高源五」が辞世?の句として詠んだと言われるもので

”日の恩や 忽ち くだく 厚氷”

の句碑がありました。

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両国橋」西側の画像です。

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両国橋から浜町方面に歩いている時に見た「水上バス」。

とてもスマートな形でビックリ。

赤い橋桁?は両国橋。

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浜町方面に歩いていくと、「やげん堀不動尊」の幟旗が何本も立っているので、それに誘われて行ったのが「薬研堀不動尊」。

今は正月飾りなのでしょうか、職人さんたちが忙しそう。

どうもこの辺りは日本橋の町名らしく、歩く方向も判らなくなっています。

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その不動尊の本尊ですが、暗くてよく見えません。

住職さんに聞くと、江戸時代 この辺りには「やげん堀」という堀があったと言うことです。

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お不動尊から5時方向に下がると「浜町」で、昔は花街として栄えていたのではないでしょうか。

歩いているとビル街の中に一軒だけ料亭風の家が在りましたが、何となく寂しそう・・・

こんなことを考えながら歩いていたら、いつの間にか口ずさんでいたのが「明治一代女」。 私も相当古い人間ですねぇ(苦笑)

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ここは浅草橋駅近くにある「浅草橋」で、下は神田川、この先の「柳橋」を過ぎると そこはもう隅田川。

またここには多くの屋形船が係留されていて、夏は納涼、今は忘年会・新年会を待っているのでしょうか。

そして今回の終着地の「浅草橋駅」に着きました。

以上リハビリを兼ねた散策は休み休みでしたが約2時間半、足の痺れや痛さもなく 満足な時間を過ごすことが出来た穏やかに晴れた12月11日でした。

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