330,寄り道・手抜きの中山道 (可児から細久手へ ① )

10/28(水) 快晴

Photo きょうの行程は「可児から細久手まで」で、サイトなど読んでみると「御嵩(ミタケ)」から山道に入ることになるようです。
この「御嵩」から先には鉄道やバスもないようなので、「手抜き」歩きが出来ません。

Photo_2 御嵩に近付くと有ったのが「関ノ太郎 首塚」・・・説明によると、 正治元年(1198)の頃、御嵩の東方の奥岩に「関の太郎」という妖怪を使う賊がいて、願興寺界隈に出没しては悪業三昧を繰り返しており、地頭纐纈盛康がこれを討ち取り、「首をこの地内にねんごろに葬った 」のだそうです。

この辺りは 桶縄手 と呼ばれ、 木曾街道膝栗毛 を著わした 十辺舎一九は
『 桶縄手 今もその名を 朽ちさりき 塩づけにせし 鬼の首かも 』  
と詠んでいる と説明されていました。

Photo_3「愚渓寺」 観光案内には・・・境内は5,000坪ほどあり、1428年に義天和尚が開いた愚溪庵が前身となっている。
その後、江戸時代に現在の地に移築された。
京都竜安寺の石庭のモデルになった という美しい枯山水の庭園は一見の価値がある。

となっていますが、「石庭」は手入れがされたなくて淋しい感じ。
境内にあった小さな石像(右)に救われた思いでした。

Photo_4「御嵩の家々」ですが、町を歩いていたらいましたよ。
見たときヒモが落ちているのかな と思いましたが、いきなりニョロニョロ。長さは1㍍くらいの大蛇(右下)

Photo_5御嵩から少し歩くと有ったのが、「和泉式部廟」・・・観光案内には、平安三大女流歌人として名高い和泉式部の廟所で、東山道を旅してきた彼女はこの地で病に倒れたといわれる となっています。

京都の「誠心院」でも和泉式部にはお会いしました。

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「牛の鼻欠け坂」という所で、ここからいよいよアップダウンの連続になりました。

蛇足:道標があるのは有り難いのですが、幾種類もあって紛らわしく思ったのは私だけでしょうか

Photo_6「謡坂(ウトウザカ)」という風情ある石畳の道ですが、私のように足腰が覚束ない者は歩行要注意です。それと雨が降っていたら滑るでしょうね。

Photo_7この「うとう坂」から少し外れると「マリアさま」に会うことが出来ます(道標あり)。

『昭和56年(1981)3月、謡坂地内で道路工事中にキリシタン信仰の遺物が偶然発見されました。
その後の調査で、小原、西洞、謡坂地内で数多くの貴重な遺物(中山道みたけ館に展示)が相次いで発見され、この地に多くのキリシタン信者が居た事が判明し、歴史上大きな資料ともなりました。
幕府の過酷な弾圧の中で発覚もせず、ある期間信仰が続けられたのは一種の奇跡であると考えられます。

こうした例は全国でも非常に珍しく、広く話題を呼び、遠くから多くの人が来訪され、又、東海自然歩道(旧中山道)に沿う地でもあり、関心を寄せる人も多くなりました。

平和の像建立にあたっては、御嵩町観光協会及びその趣旨に賛同された多くの方からの浄財により、当時の幸苦に耐えた先祖の慰霊の意味と人々の幸福と平和を願って、ここに平和の像(聖マリア像)が建立されました』・・・以上は観光案内をお借りしました。

  【続く】

 

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331,寄り道・手抜きの中山道 (可児から細久手へ ② )

Dscn1571 こんな山の中で『プ○バンス』という瀟洒な喫茶室を発見。
ここでコーヒーブレイクしたのは勿論です。

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集落に入ると、こんな長閑な道を歩きます。

Photo

集落内ではこんな「商い」もありました。

Dscn1576 「学校は遠いの?」 などとお喋りしながら撮ったものです。

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「津橋」という集落で、ここからまた道は山道になるのですが、地図ではゴルフ場に沿っての道になってます。
私の感覚では、ゴルフ場に沿っての道だからフェアウエイやグリーンが見え、時々は人の話し声が聞こえ と思っていましたが、ここは全く違い、道の両側は深い木立でゴルフ場の雰囲気は少しもありません。

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日が傾く頃  『細久手』の集落に着きました。

Dscn1598 細久手宿でただ一軒の宿屋の「大黒屋」。説明によると、最近、奥座敷前で「安政6年(1859)12月6日清七 米9合」の墨書銘が発見され、安政5年(1858)の大火類焼直後に再建された家であることが確証された。
旅籠屋で年代の判明した唯一の例として貴重である とのことです。
が、ご主人はじめ皆さんがフレンドリーで、一人旅の夜を愉しく過ごすことが出来ました。

Dscn1605この旅館での嬉しい出会いです。彼女はカナダから来たそうですが、箸の使い方が上手だし、黒髪なのでなので日本人かと思っていましたが、顔を見てビックリ

記念に写真を撮らせてもらい、ブログに載せることもOKをもらいました。(お断り;彼女の隣は私ではなく、彼女の同僚です)

この宿でもう一つの嬉しいハプニングが・・・
入ると直ぐに宿のご主人が
さんという方が宿に尋ねてきて、それらしい人が着いたらこれを渡して欲しい」
と言いながらお土産を渡してくれました。
宿のご主人は、「それらしい人」は私だと直感したそうです。

さんがどの様に宿のご主人に話しをされたか判りませんが、「その方は日吉出身だそうですよ」
これを聞いて それはあの さんに間違いない と私も直感し、有り難くそれを頂戴しました。
この さんは私のメル友で、お互いHNで交信しているので名前を知らないのです。(その後のメール交換で I さんで間違えがないことが判りました)

  【明日に続く】

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332,寄り道・手抜きの中山道 (細久手から恵那へ )

11/29(木) 快晴

Photo_11 きょうの行程は「細久手から恵那まで」で、昨日の「御嵩」から恵那までは所々に集落があり、石仏や一里塚が点在し、そして山賊が出てきてもおかしくないような山の中を登り下りするコースです。

そしてこの区間には食堂・コンビニはないとのことなので、宿で昼食の握り飯を作ってもらい歩き出しました。

Dscn1611_2 朝の「細久手宿」ですが、静寂そのもので車も人も通りません。

今日は何人の人と出会うことが出来るでしょうか・・・

Photo_13(左) 琵琶峠のすぐ下にある「八瀬沢一里塚」
(右) 琵琶峠頂上にある「和宮の歌碑」で、これには
 『住み馴れし 都路いでてけふいくひ いそぐとつらき 東路のたび』
と彫られているそうです。

この和宮はここだけでなく、今まで歩いてきた所にも、これから歩く『木曽路』にも出てきます。

Photo_14 琵琶峠からの下りの石畳ですが、説明では、この「琵琶峠」を中心とする約1㎞は「八瀬沢一里塚」や馬頭観音などが現存し、当時の面影を残していて、峠を開削した時のノミの跡を持つ岩や土留め・側溝なども当時のまま残されているそうです。

そしてこの画像のような凸凹なので「足元要注意」

Photo_15 琵琶峠の近くにある「二つ岩」で、広川広重の「大久手」に描かれています。

下の2枚の画像に、比較するため私のザック(高さ約50㎝)を置いてみました。

Photo_16 「大湫宿」の通りと、格好の良い家があったのでパチリ。

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「尻冷やし地蔵」・・・旅人にとって道中の飲み水は大切でした。
山坂の多い「十三峠」では特に大切であり、ここの清水は大変貴重でした。
この地蔵尊は、そんな清水に感謝してて建てられたものですが、ちょうど清水でお尻を冷しているように見えるところからこんな愛称で親しまれてきた とのことです。

Photo_18ここの中山道は「中仙道CC」の中を横切るようになっていて、偶然ゴルフカートが来たので後を付けて行き、ティーショットを拝見。
ここのカート道路は贅沢?にも石畳でした。

歩いていると、キノコ採りの女性と擦れ違ったので籠を見せてもらったら、何とロストボールも入っていました(笑)

Photo_19「ぼたん岩」・・・地上に露出している直径5mほどもある岩の表面が、薄く層になって幾重にも削られているようになって、牡丹の花のように見えることから「ぼたん岩」と呼ばれている そうです。

Photo_20「首なし地蔵」 こんな伝説があるそうです・・・二人連れの武士が道中、地蔵前でい昼寝をしていたが、一人が眼を覚ますと、仲間の首がない。
怒った武士が「仲間が襲われたのに黙ってみているとは何事」と地蔵の首を刀で斬り落としてしまいました。
それ以来何度地蔵さんの首をつけようとしても付かなかったため、「首なし地蔵」と呼ばれるようになった そうです。

Dscn1710視界が開けると「恵那山」が、そして下に拡がるのは恵那の町でしょうか。

「恵那山」岐阜と長野の県境にあって、木曽山脈の最南端で標高は2192㍍。

Dscn1718「西行塚」・・・解説によると、西行は諸国行脚の後、この地に立ち寄り竹林庵を結び三年暮らしたといいます。
西行は自分の死期を悟り、自分が死んだらこの庵のある中野坂に埋めるよう村人に頼みました。
そして建久9年2月11日(1188年)に亡くなり、村人達は遺言どおりに中野坂の傍らに西行を葬り、五輪塔を建てました とのこと。

Dscn1726 「恵那」の町並みですが、昔は恵那とは言わずに「大井宿」と呼んでいたようです。

  

 ★ 中山道(4,恵那~木曽福島)  に続く】

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