’14-01 ’14 の初散策(湯島天神から神田明神へ)

’14/1/14  初詣には遅すぎますが、湯島天神から神田明神まで、寄り道をしながら散策してきました

Bmp散策ルートは、2時方向の「京成上野駅」をスタート
左下の「湯島天神」、左に向かって「麟祥院」、さらに左へ「かねやす」「喜之床」
ここで「かねやす」まで戻り、南下して「水道歴史館(水道公苑)」
左に行き、「水道橋由来」
そこから右に向かい「神田上水懸け樋跡碑」
さらに「お茶の水碑」を過ぎ、「湯島聖堂」「神田明神」へ

帰りは「天神下通りを北上し、スタート地点の「京成上野駅」へ

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左:湯島天神の男坂の下にある「心城院」

右:心城院の境内にある「柳の井」
江戸名水の一つ「柳の井」と呼ばれている井戸この井は名水にして、女の髪を洗えばどのように結ばれた髪もはらはらほぐれ、垢落ちる、と言われていた
これは水道ではなく、本物の湧水とのことです

Dscn4744_2Dscn4742左:湯島天神を正面から
この大鳥居は、 1667(寛文7)年に建てられたもので,都有形文化財に指定されています

右:撫で牛 
合格甘酒を売っているオニイサンに聞いたら
「これは初代らしくいつ頃のものかは知らないが、今では代替わりしたものが近くに置かれている」
とのことでした

Dscn4748Dscn4751左: 「麟祥院山門」

右:「本堂」

「春日局」は徳川三代将軍家光の乳母として知られている
春日局は、幕府の恩恵に報いるために、本郷湯島に寺院を建立しようと思い立った
これを知った将軍家光は、願いをかなえさせるために本郷湯島の土地を寺地として贈った

寛永元年(1624年)、春日局の隠居所として創建
春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」と号するようになる
寛永20年(1643年)に死去、享年64

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墓石の真ん中に穴が空いてますが、これは春日局が
「死後も江戸の様子を見守れる墓を作って欲しい」
という遺言に従って作られたものだそうです

Dscn4756Dscn4758_2左:「モナカの壺屋」・・・ここは寛永年間(1624~1644)創業の菓子店。
明治維新の際には「長い間徳川様にお世話になったのだから」と大店がつぎつぎとやめていった時に、勝海舟から
「市民が壺屋の菓子を食べたいと言っているから続けるように」
と言われ、店を再開し暖簾を残すことにしたそうです

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壺屋の店内には、上のような「勝海舟直筆の書」が飾られています
「神逸気旺」
はてなんと読むのでしょうか?
検索してみると
「シンイツ キオウ」
「カミイツニシテ キサカン」などとなっています
 「物事は神頼みしないで 自分の気力で成し遂げろ」 
という意味だそうです

右:「江戸あられの竹仙」・・・戦前から此処で煎餅を焼き、売り続けているそうで、店内の造りも棚も入れ物も戦前のまま とのことです

Dscn4767Dscn4768左・右: 「かねやす」
店を開いたのは初代・兼康祐悦(カネヤス コウエツ)で、京都で歯医者をしていた

徳川家康が江戸入府した際に従って、江戸に移住し、歯医者をしていた。
元禄年間(1688~1704)に、歯磨き粉である「乳香散」を製造販売したところ、大いに人気を呼び、それをきっかけにして小間物店「兼康」を開業する

「乳香散」が爆発的に売れたため、当時の当主は弟に暖簾分けをし、芝にもう一つの「兼康」を開店した

それと共に同種の製品が他でも作られ、売上が伸び悩むようになると、本郷と芝の両店で元祖争いが起こり、裁判となる
これを裁いたのはTVでお馴染みの大岡越前であった。大岡は芝の店を「兼康」、本郷の店を「かねやす」とせよ、という処分を下した。本郷の店が ひらがな なのはそのため
その後、芝の店は廃業した

享保の頃に大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があった辺りから南側の建物には塗り壁や土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じ、瓦で葺くことを許した
このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり
「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」
の川柳が生まれた

Dscn4771 石川啄木は1908年釧路を離れて上京
その1年後、新井家経営の理髪店「喜之床」で、二階二間は石川啄木が函館から 母かつ、妻節子、長女京子を迎えて東京ではじめて家族生活をした新居

啄木はそこで文学生活をしながら東京朝日新聞社校正部に勤めていた
明治43年(1910)9月にはそこに本籍を移し、そして12月に出版したのが歌集「一握の砂」である

その頃から母も妻も啄木も結核になり、二階の上り下りも苦しくなって2年後の明治44年(1911)8月7日小石川(地下鉄・茗荷谷駅近く 東大植物園)の小さな平家建の家に移った

その1年後、明治45年(1912)3月7日にはそこで母かつが死に、翌4月13日には啄木もまた母の後を追うように27歳の薄倖の生涯を閉じたのである
そこには「啄木終焉の地碑」が建てられている

その「喜之床」の建物は、現在犬山の「明治村」に移築されている。
そしてこの散髪屋は今もその子孫が同じ場所で営業している

Dscn4777 Dscn4778 左・右:この水路は、昭和62年(1987)から平成元年(1989)にかけて発掘された神田上水幹線水路の一部を移築復元したもの

聞くところに依ると、後楽園遊園地前の「白山通り」の地下鉄工事の時に発見された「地中樋」とのことです

ただ、左は新しく造ったように見えますが・・・

これらは「水道歴史館」の裏手にある「水道公苑」に復元されています

Dscn4779Dscn4781左:「神田上水懸け樋」の模型
下に流れているのが、現在の「神田川」  
左下に四角な物が見えてますが、これが「地中樋」なのでしょう
この懸樋が架けられたのは、一般には1660年(万治3年)頃の仙台藩による神田川拡張の頃、と考えられているそうです

右:江戸時代の井戸の断面模型
オカミサン達の賑やかな話し声が聞こえてきそうな気がしませんか?

Dscn4790 Dscn4793 左:この場所に「上水懸け樋」があったという「神田上水懸け樋跡の碑」

明治時代になると相次ぐコレラの流行によって、改良水道の建設が必要となった。
改良水道の工事が開始されたのは1892年(明治25年)で、1901年(明治34年)6月に神田上水の給水は完全に停止し、廃止されるに至った。
明治初期の陸地測量部の地図には、まだこの懸け樋が載せられています

右:「水道橋由来のプレート」
この下流に水の道の橋があったから「水道橋」と名付けられたようです

Dscn4796 徳川家康が江戸に来た当時は、北側の本郷台(湯島台)と南側の駿河台が一続きで「神田山」と呼ばれていた
2代将軍徳川秀忠の時代に、水害防止用の神田川放水路と江戸城の外堀を兼ねて東西方向に掘割が作られ、現在のような渓谷風の地形が形成された。(これが現在の神田川)

同じ頃、その北側にあった高林寺に湧水があって、この水を将軍のお茶用の水として献上したことから、この地が御茶ノ水と呼ばれるようになった と言われています

Dscn4798 Dscn4801 左:湯島聖堂の「入徳門」・・・1704年に建てられたものがそのまま残っていて、1922年に国の史跡に指定

右:湯島聖堂(大成殿)・・・儒学を学んでいた5代将軍徳川綱吉が,儒教の教えを説いた孔子を祀っている

Dscn4809 Dscn4807 左:神田明神の「随神門」

右:神田明神 社殿
だいこく様・・・別名は大国主命
えびす様
平将門様
をお祀りしてあるそうです

正式には「神田神社」と言うそうです

Dscn4803神田明神の入口にある、甘酒で有名な「天野屋」
創業は弘化三年(1846) 創業来167年
今の店主が六代目ということで、こんな言い伝えが・・・

京都・丹波出身の侍であった天野新助よりも弟が先に江戸へ出て千葉道場で腕を上げていたが、妬まれて暗殺され、弟の仇討ちのために兄の新助が江戸に出てきた
当時の神田明神は江戸の名所で、ここに居れば仇に出会えるだろうと 茶店を出した。
仇討は出来なかったが、どぶろくを作る技術は持っていたので、甘酒などを売る茶店を家業とし、今に至っているそうです

 【長編にお付き合い下さいまして 有り難うございました】

 

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